Sugar doll 3
「お前宛に手紙が届いているよ」
官庁で要職に就いている父が帰宅後に部屋を訪れてそう言った。
自分あての手紙を父が持ってくることなど、珍しい事もあるものだ。自宅に届いた友人からの手紙なら、家令が直接部屋まで持ってくる。
父が差し出したその手紙に押された封蝋を見ると、閉じられた本に月桂樹の冠の家紋が押されている。
「シノン本家の次男のレイモンド氏からだ」
父のその言葉に驚いて、思わず顔を見上げる。
「この手紙はね、私への手紙に同封されていたんだ。先日の夜会で御家のキティ嬢に大変失礼な事をして怒らせてしまった事をお詫びしたい。けれど、噂をお聞き及びの通り、自分はアンダレイ家に良い感情を持たれる人間では無いことを承知している。ご当主を介さず手紙を差し上げる事は未来あるキティ嬢のご尊父として許しがたいだろう。それでも、もしもご尊父がキティ嬢に手紙を差し上げる事を許しても良いとご判断されるならば、お渡しいただきたい。中身についても、先にご覧になられても構わない、とね」
受け取った手紙の封は切られていなかった。宛名欄に記された自分の名と、送り主である彼の名前。容姿と同じように、男性的でありながら流麗で整った字をしていた。
その手さえも、どこかあの友人と似ているような気がする。
困惑した表情を浮かべ、キティは父の顔を覗き込みながら尋ねる。
「本来レイモンド様のような方からの手紙など、わたくしに見せる事なく処分なさるのではないのですか?」
それを聞いた父は、綺麗に揃えられた髭のある口元に穏やかな笑みを貼いた。
「そうだね、彼のここ数年の行いは確かに褒められた事ではないね。だけど、私宛の手紙には言い訳の言葉の一片すら記されてはいなかった。ただ、謝罪したいとそれだけだ。読んだ相手がどう受け取るのか、一語の重みを熟考し、爪の先程も不快な気持ちにさせないように、内容はもちろん文字そのものにも神経を遣ったのがわかる文面だった。だからお前に渡しても良いだろうと判断した」
「この手紙、封が切られていませんわ。その手紙でそこまで信用されて良いのですか?」
娘の鋭い指摘に、はははと父は苦笑する。
「そうだねぇ、シノン家ならば嫡男のエランド氏ならば大歓迎だったのだけどね。だが、仮に何かの劇的な変化が起こったとしよう。例えばそう、絶対にありえないけどお前がレイモンド氏を好きになるような」
「そんな事絶対にありえませんわ!」
ムキになって否定してくる娘の顔を、穏やかに見つめる。
この愛してやまない娘が後宮に入っていたとき、近況報告の手紙に書いてあった内容に驚いたものだ。
もしもローゼンタール家のアレクサンドル嬢と自分が正妃候補から外れたら、彼女との婚姻をローゼンタール家に打診してもらえないか、と記されてあったのだ。
傍流とはいえ相手は公爵家、まして政治上層に身を置いた自分の感触では、当のアレクサンドルを本命として王太子に添わせようとしていたのは王だ。おそらく娘の無垢な想いは届かないだろうと思っていた。そして、予想した通り、娘の想い人は王家に嫁していった。
生まれも育ちも、そして後宮での在り方も特殊なアレクサンドルに恋をした娘が不憫で、失恋の痛手が和らぐまでは無理に良縁を求めるまいと思っていた。
娘は今でも失恋を引きずっているだろう。他家の女性と競って敗れたのならばまだしも、王太子相手では挑む事すらできなかったのだから、吹っ切るのにも時間がかかるはずだ。
女性が十八で婚約者すら居ないのは親としては懸念すべき事ではあるが、無理に嫁さなくてはならないほどの経済事情でもないし、何よりも娘には幸せになって欲しい。貴族の婚姻は当人同士が惹かれたからといって叶うものではないが、それでもできれば心寄せた相手と結ばれて欲しいと言うのが親心だ。
あの王太子妃の従兄であるレイモンドは、美醜で言えばシノン家の色が濃い。
見た目だけが良くても中身が屑なら相手にすらしないが、送られてきた手紙を見ればあるいは、と思わせるものはあった。
今の状態では手放しで歓迎する事は出来ないが、娘が失恋から立ち直るきっかけにはなるのかもしれないと思う。
「ははは、そうムキになるのはおよし。私だってレイモンド氏に大事なお前をくれてやる気はないよ。ただね、天地がひっくり返ってそうなったとしても大丈夫だということは伝えておくよ。だらしない繋がりに関しては、おそらくシノン家は全て把握しているはずだ。王太子妃殿下の障害になる事を放置するような家ではないからね。どこかの女性と金銭的な折り合いをつけたというような類の話は今のところ私の耳には入っていない」
「そのような事は心配していません!」
本当にその気がないのならば、軽く受け流せば良いだけの事だ。
それができない娘の様子をみると、あの王太子妃と明らかに血族であるという事が疑いようのない容姿をしているという男が気になっているのは確かだ。
とりあえずは様子見だな、と父は心の中で思った。
「返事をするかどうかはお前の好きにしなさい」
そう言い残し、父は部屋を出て行った。
父の後ろ姿を見送って、キティは深いため息を吐きだした。父の意図が全く読めない。
アンダレイ家は代々司法畑の家系だった。実際キティの家族も、嫡男である一番上の兄以外は、全員国の司法部に職を得ている。
本来ならば司法部の上層に席を得た父がアンダレイ家の当主として立つのは異例な事だ。先代の当主であった伯父夫婦に男子が生まれなかった上に、若くして伯父が病を得て亡くなってしまったので、次男であった父が後を継いだ。当時母はまだ幼かった兄達の教育と継いだ家を当主夫人として多忙な父に代わって切り盛りしていた。ようやく様々な事が落ち着いた頃生まれたのが自分だ。だから、一番下の兄とは十歳年が離れている。
両親が年を取ってから生まれた子供だから、父母はもちろんの事三人の兄達も、周囲が引くくらいに自分を溺愛して育てた。
司法に身を置く家だから、礼儀作法や教育に関しては厳しかったが、それを除けば存分に甘やかされて育ったと言って良い。
だから父が一般的な貴族家のように娘の気持ちを無視して政略結婚を推し進める気がないのも痛いほど分かっている。
浅はかな事に、自分に甘い事を知っていて、正妃選出から弾かれたらアレックスとの婚姻をすすめて欲しいと乞うたのだから。
だからと言っていくらなんでもあれはない。血縁ゆえアレックスとレイモンドの相貌がどことなく似ているからといって、気性も振る舞いも品性も何もかもが違う。
天地がひっくり返ったって、あの男に惹かれるような事があるわけがないのだ。
あの人の代わりになれる者などこの世に居はしない。
「お父様のバカ……」
受け取った手紙を手にしたまま、キティはしばらく封も切らずに座ってそれを見つめていた。
手紙の封を切るのをやっと決心したのは、キティの手に手紙が渡ってから三日後の事だった。
朝からしとしとと雨が降って、部屋の中は薄暗い。
雨で陰鬱な日は気分が晴れず、手持ち無沙汰に本の頁をめくってもちっとも頭に入ってこないし、それならば刺繍をしようと針を持っても細かい作業は余計に気分が滅入るような気がしてやめてしまった。
いつまでも置いていても仕方がないのは分かっている。読む気がないのなら侍女に燃やすように言えば良いだけの事だ。それなのに処分する気になれないのは、人として失礼な事だと思うからだ。
最低限のマナーとして、さっさと読んでさっさと処分する ――― そう心で決めて、キティはペーパーナイフで手紙の封を切った。
封筒から便箋を引き出して広げると、内側から柑橘系の香水の匂いが淡く漂う。それは明らかに紳士物の香りだ。そして、留まる事なく一瞬で飛んでしまった。
おそらく、便箋に含ませようとして意図的につけられたのではない。
女性の手紙は美しさと優雅さを強調するように、自分の愛用している香水を意図的に含ませる事もテクニックとして存在するが、それならばもっと匂いは長く残る。
肌になじませた香水が、手首が紙面を動くうちに移ったのだろう。陰鬱な室内の湿気を一瞬忘れさせるような、爽やかな香りだった。
「そういえば、アレックス様もシトロンがお好きでしたわね」
思わず口をついて出た言葉に、クスリと自嘲気味に笑う。
いつまでも未練がましく、思い出にすがってしまう自分が情けない。
気持ちを切り替えるように息を一つ吸って吐き出し、再び紙面に瞳を移した。
父の言うように、そこには充分に気を遣ったのであろう内容が記されていた。
最初に、いきなり手紙を送る事を詫びる言葉があった。次いで、夜会の日に、初対面のキティの手を許されもしないのに引いた事を詫びる一文が続く。
他にも人のいた庭園であったとしても、暗い場所で、見知らぬ男にあのような事をされたあなたはどれほどに恐ろしかっただろう。未婚の女性であったなら尚の事、男である自分が気遣ってしかるべきなのに、それに思い至らなかった自分の未熟さを幾重にも詫びたい。あの日あなたが言ってくれた言葉で自分は目が覚めた。あなたが言ったように、自分は甘いだけの子供だった、と。
「この手紙一通であなたに許してもらえるとは思っていない。あなたにとって迷惑な事は承知の上で、また手紙を送らせて欲しい」
キティは真摯な内容が綴られたその文面から、力が抜けるように視線を外して肩を落とした。
文末に、名前が記されていた。それは男の正しい名ではない。
――― Sugar doll
あんなにも誰かに強い怒りを覚えた事などなかった。自分が焦がれたアレックスに似ている相貌をしているからこそ、彼の品のない態度が許せなかった。
だから、怒りをぶつけるように頬を打ち、傷つけるような言葉を投げかけた。甘い砂糖で出来たご令息、などと。
けれど、叶わぬ想いを寄せていたのは自分の都合だし、レイモンドの顔がアレックスに似ているのは彼のせいではない。
怒りに任せて彼の頬を打ったのは、いくらなんでもやりすぎだった。
彼がこんなにも丁寧な謝罪を寄越したのならば、自分の行いについても詫びなくてはならないだろう。
キティはアレックスから手紙が来たら使おうと思って用意しておいた真新しいレターセットを、書物机の引き出しから取り出した。




