Sugar doll 2
「お前も懲りないね、レイモンド。シェイラ様に釘を刺されたんだろ?」
庭園で打たれて赤くなった頬を見て、友人であるタイラーはニヤニヤと笑った。
「違う、そんなつもりは全くなかった。純粋に会話をしようとしただけだ」
そう返して、レイモンドはバツが悪そうに机に肘を付き、口元を手で覆った。指先が打たれた方の頬へ伸びている。
「ふうん? でもま、めずらしいよな。つれなくされるのは今までもあったが、お前を本気で拒絶する女性なんて居なかったのにな」
そう言ってタイラーは傍らに座るレイモンドを眺める。
緩い癖の掛かった黄色味の薄い金髪に、猫のようなエメラルドグリーンの瞳。鼻梁の通った相貌をしている。スラリとした体躯に長い手足。男の自分から見ても容姿だけで言えば非の打ち所のない美形だ。
天は二物を与えずと言うが、容姿だけではなく頭もキレるし、家柄も良い。家柄で言うならば、昨年王家に嫁したのがこの男の従妹であるアレクサンドラ妃なのだから、それだけでも良家であるのは周知の事実だ。
ゆえに今までは婚約者の居ないこの男を狙った女性が、引きも切らず列をなしている状態だった。
その気になれば選り取り見取りの状態だったからか、特定の相手を作ろうとせず、悪い火遊びに手を染めていた。
その気もないのにちょっと微笑むだけで、簡単に落ちてくれるのだから、レイモンドにすれば恋の駆け引きなぞ児戯よりも簡単だっただろう。
最初はすげなくしている女性だって、この男がその気がないならと手のひらを返せば、焦って擦り寄ってくるのだから。
その百発百中のレイモンドを、よりにもよって拒絶するだけではなく打つ女性がいるとは思っても見なかった。
「あの人はどこの誰なんだろうな……今までの夜会では見たことがなかった」
「特徴は?」
タイラーに問われ、鮮烈なやり取りを反芻する。
「金色の巻き毛でやや小柄。あとは……髪に薔薇のコサージュをつけていた」
「ああ、分かった。それはアンダレイ家のキティ嬢だな。お前の従妹殿下同様一昨年まで王太子妃選出で後宮に入っていた」
なるほど、とレイモンドは心中で呟く。
彼女の言う一流の男とやらがアレックスの事を指しているのは分かったが、あの従妹との関係性が分からなかった。それが後宮で繋がっていたとは。
女性として生きる事を選択し王太子妃として嫁した今なお、その従妹を友として一流の男性だとキティは言った。
あの通常の概念の外側に存在する従妹と比べられたら圧倒的に不利だ。
高位貴族らしく、紳士たれ淑女たれ。武門公爵家の系譜に連なる者として強く逞しくあれ。シノンの血を引く者として優美であれ、賢くあれ。
そうやって、父系母系の英才教育の末に出来上がったのがあの従妹だ。男としても女としても超一流になるべく育てられたのだから、キティが言う事は当たり前なのだ。
直視するに耐えない存在なのに、ここでもまだそれを突きつけられるのか、とため息が漏れる。
「まぁ、元気出せよ。最近流行りの酒でも飲もうぜ。ベイルスタンから入って来ている酒がイケるらしい」
そう言ってタイラーは給仕係を探しに席を立った。
頬杖をついたまま瞼を閉じれば、キティに浴びせられた痛烈な言葉が心を苛んだ。
―――ごきげんよう、お砂糖で出来たご令息様
痛みを伴った出会いがあった夜会の翌日、レイモンドは自宅の廊下を歩いていた。
目指すのは祖父母の部屋だ。裏庭に作られた屋根付きの通路を抜けた先にある小さな離れで祖父母は生活している。
開け放たれた窓から続くデッキで、のんびりと刺繍を刺す祖母と本を手にする祖父の姿が見える。
玄関口から侍女のマーサに訪いを告げるのが面倒で、レイモンドは裏庭を横切って直接デッキへと向かった。
足音に気がついたのか、祖母カーラの手が止まる。孫の姿を認め、その目元が柔和に崩れる。
「あらあら、いらっしゃい」
「マーサに怒られても知らないよ、このやんちゃ坊主」
おいで、と空いた席を示され、素直にそれに従う。自分の前に置かれた茶菓子の皿を、カーラはそっとレイモンドの前に置いた。
「それで、我が家のやんちゃ坊主が一体どんな風の吹き回しかな?」
鷹揚な雰囲気を持つ祖父が、優しい若葉色の瞳で笑む。
「お祖父さまに相談に乗っていただきたくて」
「かわいいお前の相談にならいつだって乗るとも。私で役に立てるかはわからないけどね」
そう言った祖父フリッツの眼差しはどこまでもあたたかい。
だが、その温厚な顔の裏側で、この祖父は人という生き物を思うままに動かすというある意味で悪辣な一面も持っている。父母よりも兄よりも、一番怖いのはこの祖父かもしれない。役にたてるか分からないなどと言っているが、それは謙遜にも程がある。
会話の合間に、侍女のマーサが茶を持って来たが、雰囲気を察したのか何も言わずに供して行った。
「実は、昨夜ある女性をひどく怒らせてしまいまして。何とか誤解を解きたいのです」
「おや、お前もようやく出会ったのかな、唯一の女性に」
祖父はそう言っておどけるように驚いてみせた。
「いえ、そのような訳では……」
「お前は素直じゃないねぇ。お前の気性からすれば、心を寄せていない相手にはそこまで執着しないだろうに。それに、我が一族の気質だよ……唯一の相手に出会ってしまったら、その人以外見えなくなってしまうのはね」
にこにこと笑う祖父の顔を、きまりの悪い思いで見つめる。
「それで、どこのお嬢さんなんだい?」
「アンダレイ伯爵家のキティ嬢です」
おや、とフリッツは真顔になった。
「お前もまた一番旗色の悪い相手を選んでしまったねぇ」
「旗色が悪い……のですか?」
祖父の言葉に、レイモンドは怪訝な表情を浮かべる。
「アンダレイ家といえば代々司法畑の一族だよ。実際キティ嬢のお父上である伯爵も今現在司法次官だ。もうそろそろ今の長官が席を退くという話も出ているから、確実に長官の席につくだろう。そういう家だからね、我が家なんかよりずっと厳格なんだ」
祖父のその言葉に、ああ、と胸の内に失望が広がる。
司法関連に身を置く人間は、人を裁くという重責を担うがゆえに、何よりも身内の醜聞を嫌う。
今まで散々放蕩を繰り返して来た自分を快く思わないのは当然だが、その嫌悪感はその他の者の比ではないだろう。
「今までお前のおイタをみんなが心配して注意していたのはね、アレックスの為だけではないよ? あの子はね、そんな事程度ではビクともしないから。お前が思うよりも、ずっと王家と政治の世界に根を張っているんだ。お前の火遊び程度であの子の足元が揺らぐだなんて、それは思い上がりというものさ」
そう言ってフリッツは表情に黒いものを載せ、冷ややかな瞳でレイモンドを見つめる。
その表情に、レイモンドは一瞬で背筋が凍りついたような感覚を抱く。
「僕もそう思っています。だから兄上にもそう言いました」
そんな事は言われずとも分かっている。自分なぞよりずっと優秀な従妹だ。己の事程度が足枷になどなりえない。
「ではどうして私のところに来たんだい? お前がキティ嬢に何をしたのかは知らないけれど、怒らせてしまったのならまずは謝罪すべきだ。お会いする事ができない程に怒らせたのなら、私ならまずは手紙を書く。許してもらえるまで、何度だって。誠心誠意謝る気があるのなら、私に聞かずともそれくらいは出来るはずだよ?」
見透かされている、とレイモンドは怖くなる。とても優しいけれど、とても怖い祖父。
それでも、誰よりもこの祖父の力を借りたかった。
彼女を繋ぎとめるものを、何一つ自分は持っていないから。
「王家にアレックスが嫁した今、キティ嬢にも良縁をとアンダレイ伯爵もお考えでしょう。今まで無為に過ごしていた自業自得であるのはわかっていますが、それでも僕は彼女に心惹かれてしまった。どうにかして、繋ぎ留めたいのです」
「私の力を使って良縁を求めるのを待ってもらうように内々に話を進めろというのかい? 政略結婚は王侯貴族の常とはいえ、それは無理がありすぎるよレイモンド。だって、胸を張ってお前を婿に、とは勧められないもの。正妃候補として入宮するようなご令嬢だよ? 運良く婚姻関係を結んで子を成して、幸せの絶頂という頃に、あなたの子供ですと幼子を連れた女性があらわれでもしてごらんよ。お前が今までやってきた事は、そういう事だ。私がアンダレイ伯爵の立場なら、娘の伴侶として絶対にお前だけは許さないよ」
あきらめなさい、と続いた声が遠くの方で響いていた。
口調は穏やかで優しいが、祖父に指摘された現実が心を砕く。
現実はそんなに甘くないと分かっていたはずなのに、それでもこの祖父に力を借りさえすればどうにか出来るのではないかと思っていた。
キティの言うように、砂糖で出来たバカ息子だ。
レイモンドは分かりました、と暗い顔で告げ、再び裏庭から祖父母の元を辞した。
フリッツとカーラはしょげて帰って行く孫の後ろ姿を見送って、二人で顔を見合わせて穏やかに笑い合う。
「いつになく厳しい物言いでらしたこと」
そう言ってカーラは苦笑した。
「エランドよりもあの子の方がずっと賢いのにね……何をやってもそつなくできてしまうから、自由にやらせたほうが伸びると思って手を離したら、見捨てられたのだと勘違いさせてしまったとシルが泣いていたよ。親の心子知らずというけど、そろそろあの子も自立して大人になるべきだ。今男にならなければずっと腑抜けのままで終わってしまう。ヘラルドは仕事が忙しいし、シルはなんだかんだ言って息子が可愛いからね。悪役は私が買って出ないとね」
フリッツはそう言って、妻に向かって片目を瞑った。
「まぁ……ふふ。どちらがやんちゃ坊主なのかしら」
穏やかな日差しの中に、老夫婦の笑い声が溶けていった。
自室に戻って力なく書き物机の椅子に腰掛けている。
祖父に突きつけられた言葉が、心のなかで反響して止まることなく内側を抉る。
それでも、それが自ら選んできた行いの結果だった。
諦めなさいと言われたけれど、そう出来るくらいなら祖父に相談したりはしない。
他の男のものになってしまうかもしれない、という焦燥が砕かれた心の残骸を炙る。
バカはバカなりに、とにかく今できる事をするしかないのだ、とレイモンドはペンを握った。




