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蜜蜂は王乳の夢をみるか【本編完結済】  作者: うにたむ
HoneyButterBrownsiroop
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二人の距離 後

 ベイルスタン皇国皇太子ネウストは、招客殿に設けられた滞在用の客室へと戻り、ソファに腰を下ろして口を開く。

『参った、戦略を見誤っていたね』

 高官と称して帯同してきた側近は、センターテーブルに置かれた水差しから水を移した銀杯をネウストに差し出して言葉を返す。

『王太子妃アレクサンドラ様ですか?』

『そう。あの王太子が側近として重用していたのを聞いていたから、私も妃を夢見る乙女だとは思ってはいなかったが、乙女どころかあれは雪豹のようだ』

 毛並みは白く優美で美しいが、獰猛な肉食獣のようだ。うっかり手を出そうものなら食いちぎられるのを覚悟しなくてはならない。

 受け取った銀杯の水(チェイサー)を飲み干して苦笑を浮かべる。

『神の加護を受けた女性を王太子妃に据えたアレトニアを下に置けば、神の怒りに触れるかもしれないね』

 もちろんこれは冗談だが、あの夫婦ならやりかねない、とネウストは思う。

 王太子妃アレクサンドラも相当なタマなのは間違いないが、その夫である王太子カイルラーンの方も侮れない。

 終始穏やかだし、受け答えもそつなく言葉使いも丁寧だが、アレクサンドラの事となると目の奥が笑っていない。

 物語(ロマンス)が他国であるベイルスタンで流行るほど、王族としては珍しく恋愛を貫いて婚姻した夫婦だが、当人達を目の当たりにするまでは、それは作られた偶像なのではないかと思っていた。

 妃は、政略結婚が当たり前の王族相手に障害なく婚姻が成立しやすい公爵家の出身であるとも聞いていたからだ。

 だが、あれは偶像などではない。

 女神の祝福を受けた自分の力を見てみたいか?とアレクサンドラは迂遠に問うていた。

 そちらがその気なら、手加減なぞせぬ、と。

 あの強い酒を、顔色も変えずに飲み干して見せた。元々酒に強いのか、隙を見せないように振舞っていたのかは分からないが、どちらにしても怖い女性だと言うのは間違いがない。

 協定は五分に持ち込んだほうがいいな、とネウストはため息をついた。

 


 夫婦揃って内宮にある居室に戻り、部屋の扉が侍女によって閉じられた瞬間だった。

 ガクン、と膝から崩れ落ちるようにして、アレックスはその場に座り込んだ。

「アレックス様?!」

 驚いたように名を呼んだ王太子妃付き侍女のサラに、力のない笑顔を向ける。

「飲み過ぎちゃった」

「だから俺が飲むと言っただろう」

 カイルラーンは苦笑しながらそう言って、しゃがみこんでアレックスの腰と膝下に手を差し入れ、事も無げに横抱きに立ち上がる。

「だって、わたくしあの方に腹がたったのですもの。酔い潰すつもりで女性にお酒を勧める殿方なんてだいっきらい」

 夫の首に手を回し、アレックスにしては珍しく子供のように口を尖らせながら文句を垂れている。

 まだきちんとは聞き取れるが、なんだか呂律が怪しいな、と妻のもっともな言い分に笑みを浮かべる。

 居間のソファにアレックスを降ろして額に口づけ、王太子は着替えて来るとサラに妻を任せて寝室の方へと消えて行った。外に出ずとも夫婦の部屋は内部で繋がっている。

 アレックスはサラの手を借りてドレス類を脱ぎ、髪も下ろしてガウンに着替える。まだアフタヌーンティの時間だが、夫婦共にこの後は政務がないように調整している。完全に落ちる前に化粧を洗い流してしまいたいが、頭がグラグラと揺れるような感覚がしていてそれは諦める事にした。

 簡素な服に着替えて戻って来たカイルラーンが、サラに命じて水の入った杯を受け取る。

 意識が落ちかける直前、唇にあてがわれたそれから水を一口含んだが、飲み込むまでが限界だった。

 一瞬にして、意識はプツンと途切れた。

 

 

 数時間後、アレックスは寝台の上で目を覚ました。

 寝室は壁灯一つを残し、それ以外は闇の中に沈んでいる。

 いつもなら傍らにいるカイルラーンが居ないせいか、寝台が広く感じられて少し寂しい。

 今が何時なのか分からないが、まだ眠るには早い時間なのだろう。

 ベイルスタンの皇太子が言っていたように、悪酔いするような酒ではなかったのか眠ったおかげで酒は完全に抜けていた。

 アレックスは寝台を抜け出し、夫の居室へと繋がる方の扉を叩く。

 夫の私的空間を不意打ちで覗いたからと言って怒りはしないと分かっているが、プライバシーは尊重すべきだと思っている。

 返答を待っていたら、思いがけず扉が開いた。見上げると、そこに夫が立っている。

「大丈夫か?」

「ええ。ゆっくり眠ったおかげでお酒は抜けたみたいです。手を煩わせてしまってごめんなさい」

 妻の言葉に柔らかい笑みを浮かべ、カイルラーンはアレックスの両脇に腕を入れ、そのままヒョイと抱き上げて自室中央のカウチへと歩いて行く。

「迷惑などとは思わんさ。俺の妃は頑張ったからな」

 夫のねぎらいの言葉に相好を崩し、しがみつくように体重を預ける。

 軽々と妻を運んだカイルラーンは、カウチにそっとアレックスを降ろした。

「今、何時頃です?」

「20時を過ぎたくらいだな。バファを呼ぶか?」

 王太子付きの老侍従バファは、夫婦の居室に近い場所に個室を与えられ住み込みで仕えている。客人をもてなすのに食べた昼餐が重めの内容だったとは言え、既に七時間程が経っている。腹がすいていてもおかしくはない頃合だ。

 アレックス付きの侍女サラはこの時間になると侍女宿舎へと戻ってしまうから、食事を用意させるならバファを呼び出さなくてはならなかった。

「あなたはお腹が空いてらっしゃる?」

「空いているような気もしなくはないがな……そうかと言って何か食べたいとうほど空いているわけではないな」

「わたくしもです」

 夫婦は互いに瞳を覗き込み、そのまま穏やかに笑いあった。

 本来なら貴人であるアレックスが手を出す職分でないのは分かっているが、近侍の職を離れてから、夫に手ずから茶を淹れる機会はなくなってしまった。

 酔いつぶれた自分を寝台まで運んでくれた夫のために、たまには茶くらい淹れたい。バファほど上手く淹れられないのは分かっているが、夫の為に何かしたいのが妻心だ。

 前室の奥には侍従や侍女が主に茶を供する為の小さな給湯室がある。アレックスは近侍時代を思い出し、久しぶりに自室側の給湯室に立った。

 もしかしたら、サラが菓子でも用意してくれているのではないかと期待して作業台に置かれたバスケットに掛かったクロスを持ち上げると、中にはドライフルーツと薄焼きの乾パン、乾燥燻製肉とナッツ類が入っていた。

 さすがはサラだ。よく分かっているな、と苦笑する。

 アレックスは腕にバスケットを引っ掛け、両手でポットと茶器の載ったトレイを持って夫の居室へと戻った。

 部屋の中に入ると、カイルラーンはカウチに足を投げ出して書類の束を捲っている最中だった。

 最近は落ち着いているとは言え、それでも日頃忙しく働いている夫だ。今日は客の対応に午後を費やしたから、仕事が押しているのかもしれない。

「お急ぎの仕事ですか?」

「いいや……急ぎではないが、早めに見ておこうと思ってな」

 上手く時間を使わなくては余暇にまで影響を及ぼすのを分かっているからか、夫は少しの時間も無駄にはしない。

 仕事中毒気味の姿に思わず苦笑する。センターテーブルにトレイとバスケットを置き、ポットから銀杯(ティーカップ)に茶を注ぎ入れる。バスケットの中の軽食も少しずつ皿に盛り付けて卓の中央に置く。

 茶を楽しむのは夫のタイミングで良い。あえて供した茶を勧める事はせず、夫の足元に近い場所に腰を下ろして温かいそれを口に含んだ。

 夫も自分も本来なら毒見が必要な立場だが、自室に運び込まれた食品は厳重な検閲を通ったものだから、神経質になる必要はなかった。

 ドライフィグに手を伸ばし、それを適当な大きさに手で裂いて口に放り込む。

 咀嚼していると、内側の粒がはじけてプチプチと音がする。

 その音を耳に拾ったのか、くすり、と夫が笑う声が聞こえた。

 ようやく手にした書類を床に置いて、半身を起こす。そのままアレックスに手を伸ばし、こめかみに掛かった髪の上に口付ける。耳元で、夫の低い声が響く。

「ありがとう。久しぶりにお前の淹れた茶を楽しむとしよう」

 カウチから足を降ろし、暖かそうな湯気を立てる茶器に手を伸ばす。

 茶というのは不思議なもので、同じ茶葉を使っていても、それを淹れる者が違えば味も変わる。

 おそらく茶葉の量や注ぎ入れる湯の温度で変わるのだろうが、妻の淹れた茶は角のないまるい味わいがする。それは執務室で共に仕事をしていた時と変わっていない。

 忙しく働く日常のほんの少しの息抜きの時間、その味わいに幾度ほっとしただろう。

 互いに物言わずこうしていても、気詰まりさなどない。至って穏やかな夜だ。

 それでも今夜は、あの男のせいで気が立っていた。独占欲と執着に理性という名の手綱を掛けて操っているが、何か少しでもきっかけがあれば、たちどころに暴走してしまいそうになる。

 苛烈な妻は不足なしの相手(ネウスト)に負けなどしなかったが、夫として気分が悪かったのは事実だ。

 だからつい、その心のなかの執着に火がつく。妻の全てを暴きたいという、どす黒い感情に。

「……今朝も寝言を聞いたぞ。忘れないわ、と」

 妻の前では大きく見せていたい自分も、一皮剥けばこの程度だ。

 自分の口から伝えてくれるのを待つつもりでいたのに、性急に求めてしまう。

 己の中に芽生えた初めての感情を抱えて、それを操縦しきれていない。案外自分は小さい。

 茶器を机に戻し、再び傍らの妻を抱き寄せる。

 その髪に口元を埋めるようにして先を繋げる。

「もうそろそろ俺に教える気にはならぬか?」

 妻が落ち込んだように肩を下げたのが分かった。

「夢を見るんです……戦場にいた頃の。わたくしが奪った命の事を、見殺しにするしかなかったあの国の子供達の事を、わたくしはきっとこの先も忘れる事はできない」

 その言葉に、腕の中の身体を開放して顔を覗き込む。

 サラが酔いつぶれた妻の化粧を丁寧に拭き落としたおかげで、今は素顔だ。そしてきっと心もまた剥き出しの状態でさらされている。

「辛いのか?」

「いえ……自らの行いを悔いてはいません。だから、辛くはないのです。ただ、忘れる事ができないだけです。むしろ、忘れてはならないのだと」

「そうか……。敵を排除せよと命じたのは俺だ。だから全ては俺の罪だ。お前のせいではない」

「あなたならきっとそうおっしゃると思っていました」

 そう言って自分を見上げた妻の瞳から、静かに涙がこぼれ落ちた。

「ついて行ったのはわたくしの利己主義(エゴイズム)です。あなたのせいになどしたくはないのに」

「すまぬ、強欲な俺を許せ。愛しさのあまり気が急いた」

 咄嗟に掻き抱くようにしてアレックスを引き寄せ、力を込める。

 恋愛に関しては本当に能なしだな、とカイルラーンは自身への失望に天を仰いだ。



 ベイルスタン皇国との貿易協定が無事前年までと同条件で折り合いがついてから二ヶ月が経過した。

 朝、アレックスとカイルラーンは二人で朝食を摂り、夫婦は扉の前で別れる。

 近衛に挟まれて執務室へと歩いて行く夫の後ろ姿を見送って扉を閉じた瞬間、アレックスはたまらずあくびを漏らした。

 サラが化粧をしてくれたと言うのに、目尻に大粒の涙が伝って慌てる。

 その姿を見ていたサラが、すかさずハンカチを持ってきてくれた。

 差し出されたそれを受け取って、こすらないように目元を抑える。

「早くお世継ぎをというお声があるのは承知しておりますけれど、殿下にはもう少しお控えいただくようにお願いいたしませんとね」

 呆れたようにそう言って、サラは苦笑した。

「違うのです……昨夜はそんな事は……。でも、ここ数日何故だか眠くて」

 主のその言葉に、サラは驚いたように目を見開いた。

 ゴソゴソとお仕着せのポケットを探り、中から小さな手帳を取り出した。

 しばらくパラパラとそれを捲ってから、アレックスに向かって満面の笑みを浮かべた。

「月の物が止まってらっしゃいます。バロール先生をお呼び致しますね」


 いつものように昼食を摂る為に自室に戻って来た王太子は、扉が閉まったと同時に走り出しそうな勢いで前室を抜け、アレックスの側にやって来てその身体を抱き上げた。

「でかした! さすがは俺が見込んだ妃だ」

 自室の中でも、バファが居る前ではこのような姿を晒す事はない王太子だ。

 おそらく奥医師バロールから執務室に連絡が行ったのだろう。まだ安定期に入ってはいないが、懐妊しているだろうと診断されたのが今朝の事だ。

 長年カイルラーンに仕えて来たバファは、年若い主のその姿に、思わず目元を抑えている。

 いつもとあまりにも違う夫のその様子に、アレックスは戸惑いを隠せない。

 いや、もちろん心から喜んでくれているのは伝わってくるが。

「でも、まだ安心はできませんし……この時期だと流れてしまう事も少なくないようですから」

 抱き上げていた身体を、納得したようにそっと降ろす。

「ああ、だから無理はするな。特に、酒はもう飲むな」

 ベイルスタン皇国との会食の事を言っているのだと察して、アレックスは思わずむくれた。


――― 頑張ったって褒めたくせに。


 痴話喧嘩のようなやりとりに発展してしまったのをまだ根に持っているのだと知って、ため息をついた。

「わたくしだって、お腹の子の為に飲む気はございません」

 そう言って、アレックスは瞳を猫のように眇めた。

 そうかそうか、と満足そうに頷く夫の側で、バファの口元がニヨニヨと動いていた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 女性になっても、変わらないアレックスは素敵でした(*´艸`) 特に…アレックスの牽制が昔を思い起こさせますw この2人は、これからもこんな感じなんだろうなって、微笑まし…ニヤけてしまいます…
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