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蜜蜂は王乳の夢をみるか【本編完結済】  作者: うにたむ
HoneyButterBrownsiroop
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二人の距離 前

 ――― 忘れない。奪った命を。血と腐敗の臭いを。差し伸べる手を持たない自分を。私はずっと、忘れない……


 

 闇に沈む寝室に、妻の微かな声が懺悔のようにこぼれ落ちていく。

 腕の中のその声を間近に拾って、男は目を開けた。

 妻は浅い眠りの淵で夢をみている。毎回はっきりと聞き取れる言葉はただ一言。忘れないわ、と、ただそれだけ。

 どんな夢を見ているのか気になって、内容について一度問うて見たものの、はぐらかされてそれきりだ。

 だが、おそらくそれは妻にとっては忘れてはならないと自分を戒める程のもの。

 夢を見ている時の妻の寝顔は落ち着いている。苦しそうにしていようものなら無理にでも問い詰めてその苦痛を共有するが、そうではないなら夫婦とは言え踏み込んではならない領域なのかもしれないと様子を見ている。

 妻を愛するがゆえの執着は、結婚後も酷くなっている。彼女は騎士としての道を捨て、自分の妻として生きる事を選んだ。その事こそが、妻もまた自分を愛しているという証なのに、どんなに肌を重ねても、渇望するように心の内側を覗いてみたくなるのは何故なのか。

 繰り返すその夢の内容を、いつか自分にも話してくれる時が来るだろうか。

 それほどに、まだ自分と妻の距離は開いている。

 結婚してまだ数ヶ月だ。焦ってはいけない。男はそう心の中で自分を制し、再び目を閉じた。

 

 

 明け方近く、寝台の上で女は目を覚ました。

 数年軍に身を置いていたから、早く起きる事が習慣になってしまっている。

 見開いた眼のすぐ先に、自分の隣で規則正しい寝息を立てる夫の胸板がある。

 訓練期間を含めると十年以上、動くものの気配を察知できるように育てられてきたおかげで、自分以外の者と寝台を共有するのは未だに慣れない。

 夫の寝返りの気配でさえ、瞬間的に察してしまう。

 結婚して早数ヶ月。いつかは慣れて気にならなくなる時が来るのだろうか。

 だが、夫の広い腕の中は、自分が幼子に戻ったようでひどく落ち着く。少し低めの体温も、彼の肌の匂いも、少し早い心音も、その全てが心地良い。

 夫との婚約期間、婚礼準備の合間を縫って度々実家に帰っていた。結婚してしまえば、気軽に城から出ることはできなくなると分かっていたからだ。

 今でも月に一度の手紙のやり取りは欠かさないが、それでも顔を合わせるのとはまた違う。

 実家で母と女友達のようにたくさん話をした。早逝した父との思い出や、女心の機微。恋をした事で知った自身の欲深さ。

 母は言った。父への想いは、(くら)い場所へ落ちていくような執着心だった、と。

 今はそれが痛いほどによくわかる。

 なんとしても失いたくない。たとえそれがこの命を削る結果になろうとも ――― そう、思っていた。それを執着と言わずして、なんと表現するのだろう。

 福音と戦いと恋心の狭間でもがいていたあの頃。

 漆黒に染まった執着心は、奇跡的に夫へと届いた。彼以外の男性でも女性でもなく、この人で無くてはならなかった。

 肌を重ねる度に愛しさで心が焼き切れそうになる。女性らしさなどどこにもないこの身体を美しいと夫は言う。

 軍に身を置き、男として生きてきた自分の人生の結果がこの身体だ。だから本当は恥ずべきではないと分かっている。

 女性として生きる事を選んだ今になって尚、自信は持てないでいる。この先もずっと愛していく自信がある、と夫は言ってくれたけれど不安は尽きない。

 美しく賢い女性はたくさんいる。夫の心を奪う人がこの先現れるかもしれないのだから。

 自分はこんなにも気弱だっただろうか。他家から候補として集った令嬢達を押し退けて妻の座に収まったと言うのに。

 多くの人の命を奪い、多くの子供を見殺しにし、夢見る乙女達から王子様を奪い取ったという事を、忘れてはならないのだ。

 罪深い自分が、厚かましくも貫いた道なのだから。

 いつもと変わりなく上下する夫の呼吸を感じながら、再び瞼を閉じた。

 夜明けまでもう少し眠ろう。夫を起こしてしまわないためにも。



 婚約発表後も続けていた夫カイルラーンの近侍としての仕事は、結婚を機に辞める事を選んだ。

 いくら気心の知れた相手とはいえ、夫の近侍二人も妃となった自分が側にいては仕事もやりにくいだろう。

 そして何よりも、王太子妃には王太子妃としての政務がある。

 夫が抱えた仕事と比べれば、仕事量としてはさほどでもないが、それでも国を統べて行く身の上になった今はそれも大切な仕事だった。

 結婚式の当日は、国の内外から要人を招いての宮中晩餐会が催されたが、その時は義父母となった王と王妃が客の相手をしてくれたから、自分達は軽く挨拶を交わす程度で良かった。

 だが、王太子妃として数ヶ月が過ぎた今、全てを義父母に任せている事はできない。

 今日は同盟国であるベイルスタン皇国の皇太子が貿易協定の更新の為に城を訪れていた。

 国家規模、国力共にこのアレトニア国とほぼ同等。周辺諸国の力学的に、上にも下にも置けない相手だ。

 そのベイルスタンからは、結婚式には皇帝と皇妃が訪れていたが、名代として訪れた皇太子を見るのは、もちろん今日が初めてだった。

 もてなしとして外宮の招客殿の一室で、昼餐を囲む。

 その席には、ベイルスタン皇太子ネウストと、彼の供をしてきた高官三名が座っている。

 こちらは王太子である夫と、王太子妃である自分。それから財務部と農務部の長官が席についている。

 警戒心を抱かせないよう、近侍二人は壁際に下がり、皇太子を夫婦で挟む形で席が用意されている。

 皇太子ネウストはウェーブの掛かった金色の髪と冷たい印象を抱かせるアイスブルーの瞳を持っていた。

 歳の頃は王太子妃である自分と同じくらいだろうか。

 一見和やかに進んでいる会食も、一昨年のグリギル帝国との戦争の事に始まり、近隣諸国の情勢へと移り変わっていく。

 互いに国の中枢に身を置く者たちだから、腹の探り合いに牽制は言うに及ばず、協定で何とか優位に立ちたいと虎視眈々と相手国の弱みを探っているような状態だった。

『そういえば、皇宮に招いた吟遊詩人から、殿下方ご夫妻の恋物語(ロマンステイル)を聴きました。アレクサンドラ様は、勇ましの乙女であらせられたとか』

 表向きは他意などなく、あくまで世間話の一つとして口にしたと言わんばかりだが、おそらく弱点として認識されている自分の話題をあえて選んだのであろうネウストは、その整った相貌に柔和な笑みを浮かべた。

 アレックスは内心で、やはりそう来たか、と呟く。

『ええ。あの頃は勇ましの騎士として生きておりました』

 乙女(おんな)ではなく騎士(おとこ)だとそれとなく訂正し、何重にも被った面の皮に、優美な笑みを浮かべて返す。

 王太子妃の席について、たかだか数ヶ月。この中の誰よりも足を掬いやすいと認識されているのは分かっている。

『女神の奇跡で女性に生まれ変わられたというのは本当ですか?』

『ええ。わたくしの秘めた想いに、創始国母アレシュテナが情けを掛けて下さったのです。男のままでは夫を支えて行く事はできないだろう、と』

 そう言って、心から幸せそうに笑って見せた。

 おそらくこの場にいる夫と壁際の近侍二人は内心で笑っているに違いない。

 どうせ女神の奇跡の内容など、その体現者でなければ詳細など分からない。アレシュテナの声など聞いた事はないが、そういう事にしておけば良いのだ。

『素晴らしい愛の力ですね。勇ましの君と聴いてどんな方か想像しておりましたが、女神の加護をお受けになられる方だけあってお美しくていらっしゃる』

『まぁ、ネウスト様はお上手でいらっしゃいますこと。ありがとう存じます』

『いえ、本当に。あなたのような方を妃にお迎えになられたカイルラーン殿下が羨ましい』

『ありがとうございます。私も得難い伴侶を得たと思っております』

 大きな円卓でネウストを挟む形で座っているから、夫の表情はあまり見ることが出来ないが、これまで側にいたから肌感覚で分かっている。

 これは内心怒っているな、と。夫は怒れば怒るほど、言葉遣いが丁寧になるのだ。

『今日は我がベイルスタン皇国の特産品である酒を持って参りました』

 手土産と称して貿易を強化したい特産品を相手国に持ち込むのは常套手段だ。目に涼しい珍しい空色の角瓶に入った酒が、執事バファの手によってそれぞれに振舞われる。

『原料は麦や芋です。蒸留過程で香辛料を入れて作るので、香油のような華やかな香りと口当たりを持っています。悪酔いしにくいのも魅力の一つです』

 さあ、どうぞ、と勧められるまま、それぞれが銀杯に口をつける。

 口に含むと、強い酒精が喉を焼いた。確かに飲み口は悪くないが、飲みなれていないアレックスにはキツい酒だった。

 だが、それを隣の男に悟られてはならない。酔ったと判断されれば、そこから足を引かれる。

 王太子妃としての品位と振る舞いは、どんな事があっても欠かしてはならない。

 だから一気に杯を煽るような事はせず、笑顔のまま酒の味を嫌味にならない程度に褒め、褒めた事が嘘ではないという証明に少しずつ含んで内側を空にする。

『お気に召したようで私も持って来た甲斐がございました。よろしかったらもう少し味わってご覧になられませんか』

 何重にも被った面の皮はネウストも同じ。悪趣味な提案を、邪気などない風を装って勧めてくる。


――― 嫌な男。


『妻の代わりに私が頂きます。ご存知の通り戦場に居た妻は強いのですよ……酔って私が敵に見えてしまうかもしれません』

 カイルラーンの言葉に、男たちの低い笑い声が円卓の上で溢れる。

 それは夫が差し出してくれた助けだが、その手を握るのは嫌だった。とにかくこの目の前の男が気に食わないのだ。

『まぁ、あなたったら。悪酔いはしないお酒だとネウスト様もおっしゃっておいでではないですか。わたくし、せっかく女神に頂いた祝福を台無しにするくらいなら、別の敵を切ってご覧に入れましてよ』

 優雅に扇を広げて口元に当て、ころころと鈴が転がるように笑う。

 直訳すれば、お前は敵か味方かどちらだ。敵ならば容赦はしない、という迂遠な言い回しである。

 王太子妃の言葉を受け、彼女の気性も要求も心得たバファが杯に酒を継ぎ足す。

 アレックスはそれをまた、事も無げにゆっくりと飲み干して見せた。

 そして、顔色も変えずに笑ってから口を開いた。

『結構なお品でございました。堪能させていただきありがとう存じます。我が国にも自慢の名産品がございますので、宜しかったらご帰国の際にお持ち下さいませ』

 こちらは皇国の特産品をきちんと味わったのだから、アレトニアの名産品も輸出強化するからな、という意味である。

 アレックスは会食の間、正体をなくすことなくその場に座り続けた。

 予定時刻ギリギリまで高官同士で協議を進め、その日の昼餐会はお開きとなった。

ベイルスタンの交易品/ジン ストレートのアルコール度数は40度~50度

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