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蜜蜂は王乳の夢をみるか【本編完結済】  作者: うにたむ
HoneyButterBrownsiroop
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陽だまりの恋

「あら、そうなの。それでお相手は?」

 妊娠五ヶ月を過ぎた王太子妃が穏やかな笑みを浮かべて問う。

 本来なら身重の主の側を離れる事など避けたかったが、当主である父からの、すぐに帰宅せよという命には逆らえなかった。

 それでも渋々とはいえ逆らわず久方ぶりの実家に帰る事にしたのは、幸いにもこの王太子妃が妊婦だというのに心配すら必要ないほど元気だったからだ。

 思い返せば自分の母が弟妹を身ごもっていた時は、もっと悪阻がひどかったり、立ちくらみや息切れで辛そうにしていたりしたものだが、まだ臨月までには余裕があるせいか、それとも元来軍人で鍛えられた頑強な肉体があるからなのか、自分の持つ妊婦のイメージとはかけ離れて快調そのものだった。

「それが……マーレイ男爵家の四男のロル様で……。シルバルド師団の大尉でいらっしゃるとか」

 すぐ帰れというから久しぶりに帰省してみれば、いつまでたっても嫁に行く気がない長女に痺れを切らした父母が、縁談話をまとめて来たというから困った。

 生家は十年ほど前、男爵に叙されて新興貴族の仲間入りをしたが、元は市井で代々商家を営んできた労働階級だ。ゆえに、感覚は貴族というより庶民に近い。

 本来なら当主である父に口答えする事など許されないが、そこまで厳格ではないのを良い事に、縁談話を纏めてきた父に食ってかかった。

 自分はずっと王太子妃付きの侍女として生きていくつもりだから、嫁ぐなら労働階級の相手だし、家庭に収まるつもりもないと伝えてあっただろう、と。

「あら、良いじゃない。マーレイ大尉ならあなたを任せても安心だわ」

 主は驚いたように目を一瞬見開いたが、そのあとすぐに満足気に相好を崩した。

 そうなのだ。父が言うには、縁談相手はこの主の昔の部下で、為人も互いによく知っている仲なのだという。

 何でも主が出向いた三年前の戦争の折に、主の夫である王太子経由で戦前から物資調達に関わる仕事があり、その関係でマーレイ男爵と縁を持つに至ったのだとか。

「でもわたし、仕事は辞めたくないんです。この仕事にやりがいを感じていますし、母のように家に収まって家内の切り盛りをするなんてできません」

「そうかしら……サラなら上手にできると思うけれど。でも、男爵家とはいえ大尉は四男だし、嫡男に嫁して家を切り盛りするのとは違うかもしれないわよ? どちらにせよ、ご当主が纏めて来た縁談をあなたの一存でお断りする事はできないのだから、一度大尉当人と会ってご覧なさいな。きちんとあなたの希望をお伝えして? それくらいの度量は持った方よ」

 そう言って柔和な笑顔を向けられてしまうと、それ以上何も言えなくなってしまう。

 昔から、この見惚れてしまうような優美な微笑みには弱い。その身に子を宿してから、角が取れてまろやかになった主の笑みはあの頃よりずっと柔らかい。

 サラは観念したように一つため息をついて、口を開いた。

「近々またお休みをいただきます」



 互いの休暇日を合わせ、ベルモント商会が経営する王都の輸入品店の前で待ち合わせる。

 今日は主アレクサンドラが先月、自分の誕生祝いに贈ってくれた普段使いのワンピースを着て来た。

 初顔合わせに、縁談に意欲的だと思わせてしまうのも何だか違う気がするが、そうかと言ってあまりにもみすぼらしい格好も失礼な気がした。

 結局、主の「軍人なんてほとんどが婦人の服装には疎い」という助言を信じ、真新しいワンピースに袖を通したのだった。

 アレクサンドラは戦前、開戦後に食料が高騰することを見越して、生家の公爵家の資産を使って膨大な量の麦とマイス(とうもろこし)、それに塩と香辛料を近隣諸国から調達していた。それは出征した軍の兵站を支えたのみならず、国内の農作物の不作を補い、それでも余った分は食料事情の悪かった戦勝相手国であるグリギルに供給したことによって生家に莫大な利益をもたらしたという。国力の衰えたグリギル相手には市場流通価格よりも安価に供給されたというが、結果収支は大幅な黒字だったのだから、当時から王太子妃には先見の明があったという事なのだろう。

 儲ける気などさらさらなかった主は、生家から分配されたその利の大半を国内産業の発展の為に財団を作って寄付したが、それでもまだかなりの資産が残っている。

 歳費からではなく妃の個人資産から贈られたものだからこそありがたく受け取ったのだが、まさかそれを着て縁談相手に会うことになるとは思いもしなかった。

「サラ・ベルモント男爵令嬢ですか?」

 そう言ってサラの前に現れたのは、鳶色の髪に琥珀色の瞳をした爽やかな印象のする男だった。

 軍人らしく日に焼けて精悍な顔付きだが、笑みを浮かべると少年のようなあどけなさも垣間見える。

「ええ。マーレイ大尉でいらっしゃいますか?」

「はい。はじめまして、サラ嬢……って、俺の柄じゃないな。もしあなたさえお気を悪くされないのであれば、サラと呼んでも? 俺も家名ではなくロルと」

 どうやらこの人は堅苦しいのは苦手なようだ。

 サラも気軽な方が性に合っている。

「ええ、わたしもその方がありがたいです」

 そう言ってサラは自分よりも背の高いロルを見上げて微笑んだ。


「そうですね、あの方は突拍子もない事をおっしゃるけど、理に適った事しかおっしゃらない。当時も俺なんかには考えつかないような事ばかりされていましたよ」

 二人で王都の商業区域を巡っていたが、少し休憩しようと入ったカフェで話す事と言えば、もっぱら共通の知人である王太子妃の話題である。

「そうなのですね……ご結婚された今でもあまりご気性はお変わりありません。でも、ご夫君のお陰か今は少しセーブしてらっしゃるようです」

 サラは主アレクサンドラを思い浮かべ、ふふふ、と楽しそうに笑った。

 人に聞かれても良いように、二人とも誰とは言及せずに話している。

 サラの言葉に、ロルは穏やかな笑顔を浮かべながら、眩そうに瞳を眇めて相槌を打った。

 彼のその様子に、サラは心の中で呟く。


――― この方もわたしと同じだわ。

 

 その後も和やかな時間を過ごしたが、結局サラはこの日、結婚に対する自分の考えをロルに伝える事はできなかった。

 また会いましょう、と流されるまま無責任な約束を交わして。



 初めて顔を合わせてから、結局ロルにきちんとした意思表示もせずズルズルと逢引のような時間を持ってしまっている。

 二人で過ごす時間を重ねるほど、ロルの穏やかで大らかな気性に惹かれ始めている自分に戸惑う。

 主がまだ男性と女性の狭間を行き来していた頃、敬愛する人への恋心は憧れと偶像崇拝が混じりあった鮮烈なものだった。最初から叶わない事は嫌というほど分かっていたし、想いを告げるつもりもなかった。

 だが、ロルへの気持ちは穏やかで、凪いだ水面に寄せては返す波のようにじんわりと心を揺り動かしている。

 だからこそ、サラは苦しかった。あの敬愛してやまない主には絶対に敵わない。あの誰もが愛しむ鮮烈な光を纏った人の側にいたのだから、自分と同じように魅せられていたとしてもおかしくはない。

 嫉妬などと言うには僭越すぎる自分のその醜い気持ちに、サラは打ちのめされてしまいそうだった。



 仕事を終え、騎士団宿舎の食堂で夕食を摂った後、共同風呂で湯に浸かっている。

 宿舎に住む事ができるのは尉官以下の役職の者だけだから、階級が大尉に上がっているロルはゆっくりと湯に浸かる事ができる。

 軍は階級社会だから、上官と風呂の時間が被ればのんびりなどしていられない。

 勤務の終了時間は皆そう変わらないから、混み合う時間帯も決まっている。

 宿舎の中では最高位まで昇進しているから気を遣う必要もないが、人の多い時間帯は何となく気忙しい感じがする。

 下位者も風呂でまで気を遣いたくないだろうと、ロルはいつも混み合う時間を避けて浸かりに来ていた。

 就寝間近の人もまばらな大浴場の、釜の火も落とされ栓が抜かれる直前の湯は若干ぬるい。湯に浸かってバスタブの縁に背を預け、天を仰いで明日の約束の事を考える。

 親父から会ってみろと半ば強制された縁談話だったが、初めて顔を合わせたその人はとても素朴な女性だった。

 顔の美醜については美人というよりも愛らしいタイプで、女性としては中肉中背だ。

 話してみれば商家の長女という事もあるのか考え方が堅実で気立てが良く、何よりも気取っていない所が好ましい。

 同僚に聞いた評判の店に連れていけば、なんでも美味しいと言って食べてくれるし、自分の飲食代は自分で支払おうとする。

 王太子妃付きの侍女に召し上げられたから、わたしだってきちんと稼いでいます、と真剣に言い募った姿は新鮮だった。もちろん男の沽券に関わるから、支払わせてくれと言って断ったが。

 造船業で財を成した生家のおかげか、上位貴族家から資産目当ての縁談話もいくつかあったが、そんな令嬢とは会って見る気にすらなれなかった。

 堅実で、しっかり者で、優しくて、暖かい―――それが、サラの印象だ。

 あの人と結婚できたら、穏やかで暖かい家庭を持てるだろうな、と思う。

 だが、あのアレックスの侍女だというのが気がかりだった。

 今は女性へと転換した王太子妃だが、部下だった当時は眩いほどの男振りで、あの人にはどうあっても勝てない。

 妃の昔話に花を咲かせる度に、アレックスへのサラの想いが垣間見えるような気がして悔しかった。

 けれど、自分も男なのだ。勝てない事は分かっていても、勝負すべき時がある。

 明日こそは必ず男らしいところを見せる、と意気込んで、勢いよく湯から立ち上がった。


 

 二人で王城への帰り道を歩いている時だった。

 川に掛かる橋の上で、サラは立ち止まった。

「サラ、どうかした?」

「ロル、あの、話したいことがあるので聞いてもらえますか?」

 サラの言葉に、ロルの内側で失望が広がる。

 今日で都合四度目の逢引だ。今まで彼女のそんな硬い表情は見たことがない。やはり振られるのだろう。それでも、逃げては駄目だ。それもサラの意思なのだから、きちんと受け止めなくては。

「もちろん。あなたの話ならどんな話でも受け止める」

 失望を気付かせる事がないように。優しい彼女の心の負担にならないように。少しでも罪悪感を抱かせないように。振られても明るく別れよう、と心の中で思う。

「ありがとうございます。……わたし、結婚しても仕事は辞めたくないんです。今の仕事にやりがいを感じています。あの方をずっとお支えして生きていくと決めていたから、本当はもっと早くにお断りすべきだったんです。でも、あなたの優しさについ甘えてしまって」

 心底申し訳なさそうに、それ以上言葉を紡げば泣くのではないか、と思わせるほど悲しげな様子で言い募るサラの口元に手を当ててその先を遮る。

「俺は、仕事はむしろ続けて欲しい。俺は軍に身を置く人間だから、いつどうなってしまうかわからない。もちろん苦労させないように上を目指すし、戦って死なないようにもっと強くなるつもりでいるけれど、それでも、万が一という事もあります。俺の今の階級では戦死後の恩給ではあなたに楽をさせてやる事はできない。でも、仕事を持っていてくれたら、俺は安心して仕事に打ち込める。俺は、あなたと結婚したいと思っています」

 川縁に夕日が沈もうとしている。

 信じられない、という表情をして立ち尽くすサラの手を軽く引いて、その場でロルは跪いた。

「サラ、俺と結婚して下さい」

 まばらに行き交う人々が、ロルの様子を見て足を止める。そこかしこで、軽い調子の指笛がこだまする。

「はい、喜んで」

 サラは安堵したように、満面の笑みを浮かべた。

 人々が若い二人に喝采を送る中、ロルは引いた手にくちづけたあと立ち上がってサラをギュッと抱きしめた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] サラのお相手は、ロルだったんですね(*´艸`) サラの初々しい感じと、ロルらしさがあって、ほっこりしました! 共感できるはずのアレックスの存在に、お互いヤキモチを焼く所が、本編との繋がりを…
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