ロリコンと文学
と、言うわけで、久遠刹那は、ロリコンである。世の中には、実際にその欲望を暴走させてしまう迷惑な「同好の士」も多いが、刹那のように常識を弁えたロリコン、つまり、「ニンフェット」と遊び戯れることのできる理想郷を自らの精神世界に創造し、そこに閉じ籠もることのできるマスタークラスのロリコンであれば、これ以上人畜無害な存在もないくらいである。彼から必要以上に俗世間に関わることはないし、俗世間の方からも彼に関わろうとはしない、筈だった。
「ねぇ、刹那君、部活どうしますか?」
そう、刹那にとっての俗世間の象徴とも言うべきロリ顔巨乳JK、霞桃香がこうして付き纏ってくるようになるまでは。
「ねぇ、ねぇってば! どこにしますか!?」
桃香が刹那からしつこく聞き出そうとしているのは、今週届け出が締め切りになる必修クラブ活動の選択だ。
「なぜ俺に構ってくる? いい加減鬱陶しいぞ?」
親の仇を睨みつけるような憎悪に満ちた眼差しに見えるが、刹那は別に怒ってはいない。単に、無視されるのを無視して休み時間の度に話し掛けてくる桃香に、心の底から呆れているだけだ。
「う、鬱陶しいだなんて、そんな……。はうっ」
冷たい視線と言葉に傷付くどころか、卒倒せんばかりに興奮する桃香。
「はぁ、遂に餌を与えちゃったか」
桃香の側で二人のやりとりを生暖かく見守っていた凛子が溜息をつく。
「餌? お前が飼っているのなら、他人に餌をねだらないように、ちゃんと躾けておいてくれ、凛子」
「あら、馴れ馴れしい呼び捨てはやめていただけませんか、久遠さん。あんたのために何かをしてあげる気なんてさらさらないし、寧ろあんたが嫌がってるならけしかけてやりたいくらいだわ」
刹那に話し掛けられた途端、凛子の眼差しと声が急速冷凍されたかのように冷たくなる。刹那は諦めて溜息を吐いた。
「はぁ、わかったよ、霞さん。俺は文学研究会にするつもりだ。分かったら、もう放っておいてくれ」
「文学研究会ですね! じゃあ、今日の六時間目、楽しみにしてます。仲良く一緒に見学に行きましょうね!」
桃香は満面の笑みを刹那に向けて、刹那に拒否する間も与えず、脱兎の如く自分の席に戻った。刹那には、遠く離れた桃香の席まで近付いたり、桃香が聞こえるような大声を張り上げる気力はなかった。
そして、六限目。
「さぁ、行きましょう、刹那君。楽しい楽しいクラブ活動の時間ですよ」
桃香が刹那の腕を取る。クラスの男子達の、殺意でも含んでいそうな視線に居心地の悪さを感じた刹那は、抵抗を諦め桃香に促されるまま教室を出た。
文学研究会の部室は、図書室横の準備室である。刹那たちが入ると、中にいたグラマラスな女性が出迎えてくれた。
「あら、いらっしゃい。こんなクラブに一度に三人も希望者なんて、嬉しいわね」
刹那は一瞬、学校のクラブではなく場末のクラブに来てしまったのかと錯覚した。
この女性が国語教師にして文学研究会の顧問、「美冬ちゃん」こと、生活主任教諭の深山 美冬だ。女教師もののAVに出てきそうな妖艶な女性で、38歳という妙齢ながら、未だに一部の男子生徒たちからの熱狂的な人気を誇っている。ちなみに、独身である。
「結局お前もついて来たのか?」
刹那が小声で凛子に言う。
「桃香をあんたみたいな変態と二人きりにできるわけないでしょ」
凛子は美冬ちゃんに笑顔を向けたままで小声で答えた。
「あなたたち、一年生よね? 一応、自己紹介と、どんな文学に興味があるかを教えて貰えるかしら」
入部希望者が嬉しいのか、美冬ちゃんは機嫌がよさそうだ。
「一年六組、久遠刹那。アメリカ文学に興味があります」
「あら、珍しいわね。マーク・トゥエインとかヘミングウェイ辺りかしら?」
美冬ちゃんが笑顔で聞く。
「いえ、ウラジミール・ナボコフです」
「ちっ、ロリコン野郎かよ。大体、ナボコフはロシア人だろうが! アメリカ文学って呼べるのかよ!?」
その名を聞いた途端、美冬ちゃんがそれまでのブリッ子顔と猫なで声から、野生の虎のような獰猛な顔とドスの効いた低音の声に変わる。これが、美冬ちゃんが恐怖の生活主任教諭として生徒たちに恐れられている所以である。
「ロリータの執筆当時、ナボコフはロシアから亡命してアメリカ国籍を有していましたし、ロリータはアメリカを舞台に英語で書かれた作品なんですから、アメリカ文学と呼んで特に問題はないと思いますが?」
美冬ちゃんの豹変に驚いた様子もなく、刹那が淡々と答える。美冬ちゃんは、刹那の反論に面白くなさそうに舌打ちすると、桃香に向き直った。
「で、あなたは?」
「えと、同じく一年六組の霞桃香です。興味のある文学は、フランス文学です」
「いいわね。デュマとか?」
美冬ちゃんが目を輝かせる。
「いえ、マルキ・ド・サドです」
美冬ちゃんは盛大にずっこけた。
「お前も低俗エロ小説かよ!? ったく、あーやだやだ、男子も女子もリビドー全開で、これだから高校生は嫌なのよ」
大げさに頭を掻きむしりながら美冬ちゃんが言う。
「いえ、別に、サドの小説はそれほど卑猥というわけでは……」
おずおずと桃香が反論すると、美冬ちゃんが思い切り机を叩いた。
「あんた、『悪徳の栄え』事件を知らないの!? 裁判によって猥褻物に認定されて、発禁されたでしょうが!」
美冬ちゃんの言葉に、桃香がスマホを取り出して検索する。
「『悪徳の栄え』事件……マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を翻訳出版した出版会社と翻訳者が猥褻物販売及び同所持の罪で有罪とされた事件……って1959年!? そんな古い話、知らないですよ! 私は本屋さんで普通に買えましたし。先生、ひょっとして年齢サバ読んでいるのでは……」
桃香が疑いの眼を向ける。
「ち、違うわよ! 私だって生まれてなかったわよ!」
美冬ちゃんが必死で否定する。
「とにかく、今日日の『薄い本』と比べたらサドの作品なんて別に卑猥というほどのものでもないと思います。私はどちらかと言うと、『悪徳の栄え』よりは『美徳の不幸』の方が好きですけど……」
「けっ、どうでもいいわよ。で、あなたはどうなのよ?」
美冬ちゃんが刺々しく凛子に尋ねる。
「えっと、一年六組、棗凛子です。あたしは、文学とかあまりよくわかりませんが、『ハリ○タ』は好きです」
「英文学ね。本当によかったわ、一人でもまともな子がいてくれて。これでまた、同じ英文学でも『不思議の国のアリス』みたいなロリコン文学を挙げられたら、流石の私もキレるところだったわ」
美冬ちゃんが、さっきまではキレていなかったとでも言うように、猫なで声で言う。ようやく機嫌が治った美冬ちゃんに、刹那が噛み付いた。
「ちょっと待て、アリスがロリコン文学だと? 作中のアリスは7歳だ。9歳未満を『ロリータ』とは認めん!」
「7歳でも9歳でも変態には変わらないでしょうが! アリスを最初にロシア語に翻訳したのはナボコフなんだし、通じる所があるんでしょうよ!」
美冬ちゃんも吠える。
「そうですよね! 確かに、7歳も9歳も似たようなものですし、38歳も40歳も変わらないですよね! つまり、15歳でも16歳でも『ロリータ』に該当しうるということで問題なしです!」
桃香が嬉しそうに頷く。
「ごめんなさい、待って、お願い。そこは大きく異なるわ」
美冬ちゃんがあっさりと白旗を上げた。
「ふん、当然だ。それに、有害さで言えば、ハリ○タの方がよほど有害だろう」
刹那が吐き捨てる。
「なんでよ、あんただって一時ハマってたじゃない。ハー○イオニー萌えーって」
凛子がさり気なく刹那の黒歴史を暴露する。
「確かにな、ハー○イオニーは悪くない。寧ろ、映画第一作目の彼女は限りなくニンフェットだと思うさ」
「じゃあ、何が問題なのよ?」
「五巻に出てくるあの妖怪女だ。あんな陰険ババアに、ロリータファッションさせた挙句、『ドロレス』の名を付けやがって。あれはきっと、世界的なロリコン撲滅運動の一環だったに違いない」
刹那が苦々しげに言う。
「ドロレスって、そんな特別な名前なんですか?」
話についていけていない桃香が尋ねる。
「ドロレスはロリータの本名で、『悲しみのマリア』という言葉に由来する。ロリータというのは、ドロレスの愛称だ」
刹那が説明する。
「単に、作者が、いい年してロリータファッションした痛いおばさんを揶揄しただけじゃないの? 何でもかんでも陰謀論に結びつけられてもドン引きだわ」
凛子が大げさに肩をすくめる。
「いずれにせよ、ロリータの名を穢した作者を、俺は決して許さんぞ!」
刹那が拳を握りしめる。美冬ちゃんが呆れたように溜息をついた。
「まぁ、いいわ。嗜好には問題ありそうだけど、本はそれなりに読んでいるようだし、入部を認めるわ。必修の水曜六限さえ出席すれば他の日の活動は自由だけど、学期中に少なくとも一つはレポートを提出しないと単位は認められないから気を付けて」
少し疲れたように美冬ちゃんが説明する。
「他に部員はいないんですか?」
桃香が確認する。
「見ての通りよ」
美冬ちゃんが、やや大げさな動作で部屋の周りを指す。刹那たちの見たところ、美冬ちゃんと自分たち以外に、部室に人はいなさそうだった。
「入部の手続きはしておくから、あなたたち今日はもう帰っていいわ」
美冬ちゃんのお許しを得て、刹那たちは部室から出た。ドアが閉まるのを確認して美冬ちゃんが誰もいないはずの部屋に話しかけた。
「優希、聞いていたでしょ?」
「ええ」
机に積まれた本の後ろから、か細く冷たい声がした。響 優希だ。呼ばれても本に目を落としたままで、美冬ちゃんの方を見ようともしない。積み上げられた本の陰に隠れているとは言え、呼吸の音もページをめくる音も全く立てておらず、稀有な存在感のなさと言えるだろう。身に纏ったセーラ服のリボンは、二年生を示す青。小柄で、どこか冷たい印象だが、類まれなる美形だ。
「あの男は危険よ。潰してちょうだい」
「……わかった」
美冬ちゃんの物騒な指示に、優希が冷たい声で応じた。