プロジェクト『ピュグマリオン』
部室を出て凛子と別れた刹那は、桃香を探そうと教室や屋上を覗いたが、見付けられなかった。桃香が部室を出てから、二十分といったところか。そもそも桃香がまだ校内に残っているのかも疑問であった。
刹那が諦めて帰ろうとした時、刹那は突然後ろから呼び掛けられた。
「やあ、久遠君。何をしているんだい?」
声の主は、美術教師の岡崎だった。
「あ、岡崎先生。霞桃香さんを見ませんでしたか?」
刹那の問いに、岡崎が意味深に笑う。
「確かに、泣きながら走っていく霞さんは見たけど、そんなことを聞いて、どうするつもりだい? ロリコンの君は、女子高生には興味がないんじゃなかったのかな?」
「それは、そうなんですが……」
刹那の歯切れの悪い答えに、岡崎が肩をすくめる。
「やれやれ、そんなことでは困るよ、久遠君。僕は君に期待しているんだからさ」
「期待、ですか?」
意味が分からず、刹那が怪訝な顔をする。岡崎は、にたにたと笑っている。
「そうだよ。僕たちは、同志じゃないか。くだらない現実の女性に愛想をつかして、空想世界の美少女に人生を捧げる、ね」
前回喋った時は、温厚で優しそうな雰囲気だったが、今の岡崎はどちらかと言えば不気味だ。
「あなたは、一体……」
刹那の問いに、岡崎はとうとう笑い出した。
「分からないかい? 君だってその存在に薄々と感づいていたじゃないか。日本を滅ぼす会――NHK、さ」
「そんな……」
突然の告白に、刹那が言葉を失う。
「君は、深山教諭がNHKだと疑っていたようだけど、あんな馬鹿女がNHKの崇高な理念を理解できるわけがないじゃないか。彼女は、口では男を憎むようなことを言ったって、いい男が現れて結婚を匂わせばなんの躊躇いもなく180度手のひらを返すよ。そして、高齢出産だろうが人工受精だろうが、子供を生むためなら今からでも何だってやるだろうね」
刹那は、これまでの経緯から当然、美冬ちゃんに嫌悪感を抱いていたが、真剣に子供を欲しがる人間を馬鹿にする岡崎の発言は、刹那にとってそれ以上に不快だった。
「それのどこが悪いんですか?」
刹那が今にも襲い掛かりそうな獰猛な視線を向けたが、岡崎は薄ら笑いを浮かべたままだ。
「別に悪いとは言ってないよ。ただ、極めて原始的、動物的な反応で、そこに知性を感じられないというだけの話さ」
「結婚したい、子供が欲しい、といった感情に、別に知性は必要ないでしょう。そんなところに知性を持ち出す方が、寧ろ知性が足りないと感じますが?」
挑発的な刹那の言葉に、岡崎の眉が少し上がる。この反応は、刹那の予想通りであった。他人の知性を貶すあたり、自分のことを知性的と思っているはずで、それを否定する刹那の言葉に少しプライドを傷つけられたのだろう。
「君なら分かってくれると思ったんだがね。結婚や子供などというものは、理想郷の実現にとって邪魔でしかないということが」
「理想郷?」
「そうさ。ヴァーチャルリアリティとAIの技術によってあと少しで実現する、理想の美少女たちの桃源郷さ。生身の女性など及びもつかない究極の美と快楽の世界だ。素晴らしいと思わないかい?」
岡崎が恍惚とした顔で刹那に問いかける。
「俺は……あなたほど生身の女性に失望しているわけではありませんよ」
少し前の刹那なら、或いは、岡崎に全面的に賛同したかも知れない。しかし、岡崎の言葉を聞いて刹那の脳裏に浮かんだのは、桃香と、そして、李香の顔だった。二人の魅力は、ちょっとやそっとCGの技術が向上したとしても、実現は困難なように思えた。
「なあに、時間の問題さ。君のようなロリコンとヴァーチャルリアリティとは極めて親和性が高いからね」
岡崎が自信満々で言う。確かに、リアルでおいそれと欲望を満たせないロリコンは、ヴァーチャルの世界で代替物を探す必要があるし、言うまでもなく、そのクオリティは高ければ高いほどよい。
「別にそこは否定しませんが、俺を巻き込む必要はないでしょう。俺は、あなたの嗜好になんて興味ないですし、自分のことを詮索されたくもありません」
「確かに、基本的にはその通りだと僕も思うんだけどね。それが、そうも言っていられない事情があるのさ。同志は多ければ多いほどいいし、できれば、早急に集めたいんだ」
「どんな事情があると言うんですか?」
本当は、すぐにでも桃香を探しに行くべきなのだろうが、刹那にはまだ迷いがあった。ロリコンを貫くのか、それとも返上するのか。岡崎の話を聞いている間は、結論を先送りにできる……そんな思いが刹那の脳裏をよぎる。
「まずはタイミングの話をしよう。君は、非実在青少年という概念を知っているかい?」
「マンガやアニメに登場する実在しない青少年のことですよね? 数年前、条例でそうした非実在青少年を対象とした性的或いは暴力的な表現が規制されそうになったというのは聞いたことがあります」
「よく知っているね。話が早くて助かるよ。要は、18歳未満に見えるキャラのエッチなシーンが登場するような作品は規制すべきだ、という頭の悪い考えだ。18歳未満のキャラ、ではなく、18歳未満に見えるキャラ、というのがポイントだね」
「見えるかどうかなんて、多分に主観的な話ですし、論理的な基準になりえませんね。恣意的な判断がなされないわけがない」
刹那が呆れて言う。岡崎が頷きながら続ける。
「そうした表現が児童に対する性犯罪を助長する、というのが賛成派の言い分なんだろうけど、そこに学術的な根拠はまったく存在しない。事実、世界的に見て日本はそうした表現への規制が今はまだ緩やかだけど、性犯罪の発生率は世界でも屈指の低さだからね」
岡崎の説明は理解できるが、そもそもなぜこんな話をするのかが刹那にはわからなかった。
「非実在青少年に関する規定は、多くの著名な漫画家や学者からの反対もあって削除されたと聞いていますが、それがNHKの活動にどう関係するんですか」
「確かに、数年前は何とか事なきを得たが、規制賛成派が18歳未満に見えるキャラクターを対象とした性的表現の規制を諦めたわけではないんだ。最近でも、実在の少女をモデルにしたキャラクターを性的対象とする表現が児童ポルノに当たるかが争われたりしているからね」
「実在の少女の名誉感情を害するような表現であれば、規制は仕方がないと思いますが?」
「それはそうなんだけど、では、名誉感情を害さない程度に外見が修正されていればどうだい?」
「それは……、許される表現と許されない表現を区別するのが困難ですね」
岡崎の言いたいことを理解して、刹那が素直に認める。
「その通り。規制するのは簡単だけど、一旦規制されてしまえば、表現の自由を回復するのは困難だ。規制するにしても、細心の注意が必要なはずだけど、少なくとも、非実在青少年などという頭のおかしな理屈を持ち出すようないかれた連中に可能な芸当とは思えない」
岡崎の顔にはあからさまな侮蔑が浮かんでいる。
「それで、結局何が言いたいんですか? まったく話が見えません」
少しイラついたように刹那が結論を急かす。
「要するに、NHKの理念、すなわち、日本の滅亡を実現するのに、そうした規制は邪魔だということだよ」
CGによる児童ポルノ的表現に対する規制へ敵対することが、日本を滅ぼすことに繋がる……岡崎の言葉によって、刹那の中ですべてが繋がった。
「まさか、NHKの理想というのは……」
「気付いたようだね。そう、日本を滅ぼすんだよ。日本人の大半が、実在の人間よりも、非実在のキャラを伴侶として選んでしまうほどの、圧倒的なヴァーチャルリアリティによってね」
岡崎が高らかに宣言した。
「確かに、大半の男性が、歳をとったキャラよりも、18歳未満の非実在青少年を選ぶでしょうから、そんな規制は邪魔、ということですね」
「その通りだ。世界的に見れば、児童を対象とした性的表現が規制されている国も多く、そうした国から、日本の児童ポルノ規制が弱いという声は確かにある。また、例えば米国では、性行為が可能なアンドロイドの開発、製造を規制する動きがあったりもする。こちらは、別に年齢的な制限もなく、成人女性のアンドロイドも規制対象だ。児童の姿態のアンドロイドなんて、言わずもがなだね」
「つまり、どの国も、規制を強める傾向にある、と……」
「そう。だから一刻の猶予もないんだ。科学技術の進歩に規制が追い付いていない今が、最後のチャンスだからね」
刹那は、独学で法を学ぶ中で、表現の自由が、一旦規制されてしまえば、それを回復するのが著しく困難であることを知っていた。岡崎の話には深く頷ける部分もあるのだが……。
「しかし、そういうことなら別に、日本を滅ぼす、なんて言わなくてもいいのでは?」
刹那が素朴な疑問をぶつける。
「それほどのリアリティが欲しいとの、決意表明だよ。インターネットの普及によって、誰もがクオリティの高いアダルト動画を無料或いは極めて安価に見られるようになった。その結果、人類のアダルト動画視聴時間の総計は、地球誕生からの46億年を遥かに超えて、なおもすごい勢いで増え続けている。このことは、高速なインターネットに容易にアクセスできる先進国において少子化が顕著なことと決して無関係じゃない。優れたアダルトコンテンツは人口抑制に働くんだよ。そして、アニメキャラのような非実在青少年をヴァーチャルリアリティで忠実に再現するような繊細な技術を可能にできるのは、世界広しと言えども日本だけだ。その日本が、自国を滅ぼすつもりで技術開発すれば、それは、既に少子高齢化に苦しむ日本を滅ぼすことになったとしても、人口増加に喘ぐ世界を救いうるものになると、僕は信じているよ」
「日本を滅ぼす技術で世界を救う……」
「そうさ。自分の嗜好をAIが学習して、理想のヴァーチャル嫁を自動生成してくれる技術だ。君のようなロリコン男子だけでなく、腐女子や、ホスト通いする女性にとっても有用な技術だろう。もちろん、ゲイやバイといったLGBTの嗜好にも完全対応だし、お望みなら一人の嫁に囚われることなくハーレムだって思いのままだ。誰もが理想の生活を、勿論、性生活を含めて、送ることができる。夢のようだと思わないかい? これが我らNHKの、プロジェクト『ピュグマリオン』の全貌だよ」
「誰も傷付かない、素晴らしいプロジェクトだとは思いますが、そんなすごい技術、どうやって実現するんですか? 多額の予算と優れた技術者が必要となりますよね?」
NHKの理念は、思った以上に刹那の理想と近いものだった。刹那はかなり本気でNHKとピュグマリオン計画に興味を持ち始めていたのだが……。
「そのために、多くの同志がいるんだ。クラウドファンディングで出資を募ってるんだけど肝心の技術部分が白紙に近いから、なかなかお金が集まらなくてね」
岡崎の言葉に、刹那はずっこけた。
「……つまり、秘密結社を名乗りながら、実際には妄想を基盤としたファンディング活動なんですね?」
「いやぁ、そう言われてしまうと身もも蓋もないんだけどね」
じと目で睨む刹那に、岡崎が照れたように頭を掻いた。
「非常に興味深いお話で、理念には賛同しますが、文系の俺では、根幹となる技術面でお役に立てませんし、お金もないので、多額の資金も出せません。また、もう少し実現の目途が立って、薄く広く資金を募る段階になったら声を掛けてください。それまでは、理想あふれる一活動家の希望に満ちた夢として、心の中に留めておこうと思います」
きれいにまとめた刹那に、岡崎はがっくりと肩を落とした。
「そうか……。まあ、今はまだ初期メンバーの募集段階だから、気が変わったらいつでも声を掛けて欲しい。創業メンバーには苦労も多いが、実現したときのリターンもまた大きいからね」
刹那は頷いて、岡崎の前を辞した。
岡崎のせい、或いはお陰で、刹那は少し、自分の考えをまとめることができた。刹那がもともと抱いていた「ロリコンとしての幸せ」は、実は岡崎の理想とかなり近い。現実から隔離された自らの妄想世界に引き籠もり、そこで理想の美少女と戯れるのだ。妄想を補完してくれるような創作物や技術があればなおよい。
しかしそれは、自分が理想とする「ニンフェット」は現実には存在しないか、仮に存在したとしても、それを手に入れることはただの凡人である刹那には不可能だという、諦観からきたものである。
ここに来て、そんな刹那の心が揺らいでいるのは、無論、桃香と李香のせいである。李香は間違いなくニンフェットであるし、桃香も、ニンフェットの面影を残した美少女には違いない。つまり二人は、ニンフェットが現実に存在するということと、それが刹那の手に入るかも知れないということを示す、刹那の諦観を覆す存在なのだ。
そして、そんな理屈よりも何よりも、刹那は、自分が桃香に強く魅かれていることを感じていた。
最初は、リア充美少女が底辺陰キャラをからかっているだけだと思って、拒絶した。そうでないことが分かった後も、自分が愛されているなどと勘違いしないよう、できるだけ冷ややかに接するよう心掛けた。実際、桃香を鬱陶しいと感じる時もあったが、基本的には、桃香の「ドM」という属性は、年頃の男子高校生にはご馳走以外の何物でもない。桃香を可愛いと感じてしまっていたことを、刹那も否定はできないだろう。
今思うと、そうした桃香への冷たい態度は、自分のようなロリコン陰キャなど、どうせすぐに飽きられて捨てられるのだから、傷付きたくないのなら過度な期待をすべきではない、という自己防衛が働いたのかも知れない。
しかし、桃香は、一貫して健気で、一途に刹那につきまとってくれたし、刹那の妄想混じりの戯れ言をよく聞いてもくれた。しかも、刹那のピンチを、文字通り身体を張って助けてくれた。そして、極めつけがあの涙である。
(女の子の涙って、ずるいよな)
桃香の涙を見たとき、刹那は胸が締め付けられるような切なさを感じたのだ。元より、ロリコンは、自分よりもか弱い存在を守りたい、そうした存在から頼られたい、甘えられたいという願望を内包するものだと、刹那は考えている。泣いている桃香を見て、刹那の庇護欲が刺激され、それが「好き」という感情に昇華しつつあるのだろう。
岡崎と話し込んでしまったこともあり、既に桃香が校内に残っているとは思えない。刹那は、桃香を探すのを諦め、学校の外に出た。周りを見ることもなく、ぼーっとしながら歩く。一歩歩く毎に、ここ数日間に見てきた、桃香の様々な表情が頭に浮かんだ。
「刹那、くん……」
不意に呼ばれて、刹那は我に返った。
「霞、さん?」
信じられない思いで、刹那が呼び返す。刹那の目の前に桃香が立っていた。まるで、桃香が自分の頭の中から飛び出してきたかのようだった。