ロリコンとピュグマリオン
その後も、桃香は刹那に話しかけてこなかった。他のクラスメートたちは、相変わらず、暇があれば刹那の陰口で盛り上がっている。きまずい孤独に、さすがの刹那も気分が沈んだが、桃香に付きまとわれたここ数日が異常だっただけで、自分の人生などこんなものだと自分を納得させる。
放課後になって、刹那は美術室へと足を運んだ。昼休みの、岡崎の話が気になったのだ。美術室に入ると、岡崎は既にそこにいた。岡崎は担任を持っておらず、クラスルームに出る必要も、受け持つ生徒の相手をする必要もない。美術部顧問以外の役職もないから、特に職員室にいる必要もなく、美術室に籠っているのだろう。
美術室には、岡崎以外に美術部員の女子が数名いた。刹那の姿を見て、女子たちは露骨に嫌そうな顔をしたが、岡崎は笑顔で美術室の入口に立つ刹那のところまで歩いてきた。
「やあ、久遠君、今日は災難だったね」
「そうですね……。そんなことより、昼間の話の続きを聞きに来ました」
「職員会議への呼び出しを、『そんなこと』か。大物だねぇ」
岡崎は呆れたように言うと、刹那に入室を促した。岡崎は絵を描いている生徒たちから少し離れた教員用スペースに椅子を運び、刹那に座るよう勧めると、自分も椅子に座った。
「さて、ピュグマリオンコンプレックスについてだったね。君は、ピュグマリオンについてどの程度知ってるんだい?」
「以前、ギリシア神話の本で読んだくらいです。自分が造った理想の美女の彫像を愛した男の話ですよね」
「そうだね。最後、ピュグマリオンがどうなったかも知ってる?」
「その彫像の美女が自分に似ていることを喜んだ美の女神アフロディーテが、彫像を人間にしてやり、ピュグマリオンは理想の美女と結ばれることができた……」
「概ね、そんな感じだね。さて、ピュグマリオンコンプレックスは、一般的には人形に対する偏愛を意味する」
「人形に対する異常性愛は学術用語では、ピュグマリオニズム、或いは、パラフィリアとしてはアガルマトフィリアですよね」
「そうそう、よく知っているね」
面白くもなさそうに淡々と言う刹那に、岡崎が笑顔で感心して見せる。
「それで、先生が仰っていた、僕がロリコンではなくピュグマリオンコンプレックスかも知れないというのは、どういうことなんですか?」
刹那が結論を急かす。岡崎は、まあまあ、となだめながら、机の棚から2枚のイラストを取り出して、刹那に見せた。ラノベの挿絵にありそうな、可愛い女性のイラストで、一枚はパンツスーツ姿の二十歳前後に見えるお姉さん風の美女。もう一枚は、小学校高学年から中学生くらいに見える美少女が、制服と思しきチェックのミニスカートにブレザーを着ている。画風が似ており、同一絵師の手によることは容易にわかる。
「どちらも僕が描いたイラストだけど、どちらが好みだい?」
刹那は迷わずミニスカ美少女を指差した。
「なるほど。ロリコンを自認するだけのことはあるね」
「それを確認してどうなるんですか?」
刹那が冷たく言う。本人にそのつもりはないが、目付きの悪さと相俟って、怒っているようにしか見えない。岡崎は宥めるような手振りをした。
「まあまあ。実は、このスーツの女の子は、発育のいい小学六年生で、十歳年上のお姉さんのリクルートスーツを借りただけなんだ。それで、ミニスカートの女の子は、童顔幼児体型の25歳がコスプレしてるっていう設定なんだけど、この設定を聞いて結論が変わるかい?」
「後出しの設定を聞いても、結論は変わりませんね」
「なるほど。つまり君は、実際の年齢よりも、見た目の方に重きを置くタイプと言えそうだね。じゃあ、もう一つ。実際にも、背が高くて大人っぽい小学生はいるし、背が低くて童顔な大人の女性もいるけど、どちらが好みだい?」
「それは……」
刹那は返答に窮した。自分がロリコンであることを前提とすれば、小学生を選びそうなものだが、見た目の好みという問題もある。選ぶには情報が足りないと感じた。
「まあ、実際に相手を見てみないことには答えなんてでないよね。でも、言いたかったのはまさにそこなんだ。年齢は分かっているのに見てみないと選べないなら、ロリコンってなんなんだろうね」
「それがピュグマリオンとどう関係するんですか?」
お前は似非ロリコンだと言われている気がして、刹那は岡崎の問いに答えず、話を本題に戻した。
「ピュグマリオンも同じさ。彼は本当に、彫像が好きだったのか」
ようやく、刹那にも岡崎の言わんとするところが分かってきた気がした。
「もし、ピュグマリオンが彫像を愛していたのなら、アフロディーテが彫像を人間に変えた時、怒り狂うか、絶望するか、少なくとも人間の女と一緒に幸せに暮らすなんてことはない……」
刹那が論理的に結論を導く。
「そうだよね。僕の考えも同じだ。ピュグマリオンは、別に人間を愛せないわけでも、彫像を偏愛していたわけでもない。単に、自分の周りに、自分の理想とする容貌の女性がいなかっただけだ。だから、自分で好みの女性の彫像を作ったら、それがたまたま美の女神にそっくりだった。つまり、彼は、彫像ではなく、ただ自分好みの人間の美女が欲しかったんだ」
「つまり、ピュグマリオンコンプレックスは……」
「ピュグマリオンの本質を無視したラベリングだね。まあ、ロリコンと同じで、そもそも学術用語でもない俗語なんだけどさ」
岡崎が肩をすくめて笑う。
「本質を無視したラベリング……」
刹那は岡崎の言葉を繰り返した。
「じゃあ、もう一度聞くよ。ロリコンって、なんだろう?」
「……『ロリータ』の主人公、ハンバート・ハンバートは、9才から14才の少女の中に、稀に、成熟した大人の男を魅了するような性的魅力を持った少女がいるといい、そうした少女を『ニンフェット』と呼びました。だから僕は、『ニンフェット』を追い求めるのがロリコンだと考えています」
凜子が言うところの、「原理主義的」な刹那のロリコン論である。
「成熟した大人の男と一般化しているけど、単にハンバートの個人的な見解、或いは嗜好とも受け取れるよね。『ロリータ』は僕も読んだけど、作中にもそれが一般論であることを裏付ける根拠はなかったように思う。そもそも、君の理想とする『ニンフェット』は、果たしてハンバートの『ニンフェット』と同じなのかな?」
「少なくとも、映画の『ロリータ』のロリータがニンフェットだとは思えないですね」
刹那が肩をすくめて言う。スタンリー・キューブリック版もエイドリアン・ライン版も、ロリータ登場のシーンで観るのを辞めたくらい、刹那の『ニンフェット』ではなかった。
「だろうね。結局、『ロリコン』なんていうのは、それこそ妖精と同じで実在するかどうかもわからない自分の理想の美少女を、追い求めるロマンティストだというのが僕の見解さ」
「確かに、そう言われると、ピュグマリオンと同じですね」
刹那が苦笑する。
「それが、いい歳して小さな女の子を性的対象とする変態、という偏見に満ちたラベリングをなされてしまった。これも、ピュグマリオンが、人形に欲情する変態というラベリングをされたのと似ているね」
「つまり、パラフィリアとしてのペドフィリアやアガルマトフィリアと、ロリコンやピュグマリオンコンプレックスは区別すべき、ということですね」
刹那が納得したように頷きながら言う。
「そうそう。だから、他人にとやかく言われる筋合いはないんだけど、そもそもが悪意あるラベリングなんだから、君みたいに無防備に公言するのもどうかと思うんだ。他人には、君が、『偏見を持って気持ち悪がってください』と言っているようにしか見えないからね」
思い当たる節がありすぎて刹那は苦笑した。
「でも、どうしてこんな話を僕に? ロリコンを自称する痛い奴なんて放っておけばいいでしょう」
刹那の問いに、照れたように岡崎が頭を掻いた。
「なんか他人事と思えなくてね。僕は学生時代、とある魔法少女のアニメにハマってしまっんだ。それで、友人に薦めまくっていたらロリコン認定されて、女子からも気持ち悪がられた。当時の一般人にとっては、アニメヲタクもロリコンも、気持ち悪いという意味では同じだったんだろう。今はその手のヲタ趣味も随分市民権を得たけどね……。それで、自分なりに、自分はロリコンなのかと自問したんだ」
「アニヲタとロリコンというのも、似て非なるものというか、異母兄弟というか、複雑ですよね。包含し合うこともあれば、同属嫌悪のようにいがみ合いもしますし」
「そうだね。僕の場合も、自分がアニヲタなのか、ロリコンなのか、自分でもよくわからなかった。最初僕は、自分は二次元コンプレックスではないかと疑ったんだ」
「二次元コンプレックスという場合、対象は、実写のポルノも含みますよね? 専門用語ではピクトフィリアだったと思いますが」
「そうだね。でも僕は、主に実写のポルノを対象としたピクトフィリアと、例えば日本のアニメや、もっと言えば、例えばエロマンガのようなものを愛好するのとは性質が違うように感じているんだ」
「確かに、実写ポルノはあくまでも現実に存在する人間への欲望を満たすための代替手段ですが、アニメや漫画は空想の産物ですから、同列に語るのは無理がある部分もあるでしょうね」
刹那が同意を示す。
「話を戻すと、僕の場合は、そもそも二次元だけが対象ではなかったんだ。そのアニメキャラのフィギュアも、たまらなく好きだったからね。アニメキャラが三次元の造形になっても愛することができた。逆に、幸か不幸か、実在の女子小中学生一般には、大して興味はなかったんだ。昔のインターネットは、今よりずっとカオスで、児童ポルノがそこらにごろごろ転がっていたけど、まったく魅力を感じなかった。そんな僕は、ロリコンなのか? 確かに、僕の好きな魔法少女は十四才だったけど、設定の年齢や、それがアニメキャラだったことはあまり関係ない。単に、そのキャラが僕の理想に限りなく近かったから好きになったというだけだ。現実の女性に興味が持てず、自分が創造した理想の美女を愛したピュグマリオンのようにね。でも、現実問題として、僕はロリコン野郎扱いされて暗い学生生活を送るハメになった」
岡崎の言葉に熱が籠る。
「その学生時代の同級生たちを憎んでいるんですか?」
「僕が憎むのは、本質を無視した無責任なラベリングだよ。でも、どんなに文句を言ったって、それを行う人間がいなくなるわけじゃない。だから自衛のためには、何が好きか、っていう自分自身にとっての根源的な部分は軽々に他人に見せない方がいいというのが僕の結論だ。特に、自分の嗜好が偏っていると自覚しているならね」
岡崎の顔には、自嘲めいた笑みがあったが、その教訓は刹那に十分に伝わった……と言うよりそれは、先日、刹那自身が響優希に語った内容とほぼ同じであり、刹那の考えと一致する。
ただ、刹那は別にロリコンであることを吹聴して回っているわけではない。単に秘密主義を徹底できていなかっただけだ。他人に興味がなく、誰も自分の嗜好に興味はないと思っていたから、これまでは敢えて隠す必要もなかったのだ。それが学園中に知られてしまったのは、桃香や李香のような美少女に好かれるという、本来有り得ないような事態が起こったためだ。それでも、岡崎から見れば、刹那も優希も同じように危うく見えるのであろう。
「ご忠告、ありがとうございます。高校生活では既に手遅れですが、大学に行くときには覚えておきます。もう遅いですし、これで失礼します」
一礼して、出ていこうとする刹那に、岡崎が声をかけた。
「あ、最後に、深山先生には気を付けて。彼女は、僕たちのような男の、敵だよ」
刹那は立ち止まって岡崎を睨みつけ、もとい、見つめたが、岡崎はそれ以上何も言わなかった。刹那はもう一度会釈して、今度こそ美術室から出た。