カナカレデトロス
まだトバイアス様の告白の衝撃から完全には立ち直っていない私だが、今日はクラスメイトのビオネッタ様と王立植物園を散策する日だ。
「クラスメイトと出かけてくる」と言ったときのお父様、お母様、タリの驚きようは大変なものだった。みんな目を丸くして…お父様は到底植物園では使わないだろう額のお小遣いを渡そうとし、お母様はお祖母様から譲られた自慢の宝石をつけていけと言い、タリはパーティーに行くのと同じくらいの時間をかけて念入りに支度をしてくれた。相手が女性とはいえ、私が家族以外の誰かと、図書館以外に外出するのは、それほど驚きだったのだ。
上半身にレースをあしらった紺色のドレスで植物園に到着すると、まだ待ち合わせの時間まで時間があった。入口の前でドキドキしながらビオネッタ様を待っていると、見覚えのある男性が、美しい女性をエスコートしてやってきた。
これは…!トバイアス様に教えてもらった「笑顔で聞き役」以外のテクニックを試す、またとないチャンスだ。トバイアス様の言葉が蘇る。
「本をお渡しするとき、きちんとお名前を呼ぶと、たいていの方が喜んでくださいます。ですので、利用者の方のお名前はできるだけ覚えるようにしています。特に難しい名前の方は喜んでくださいますし、お名前の由来などの話題になって話が弾むことも多いですよ」
名前を呼んでもらうこと、覚えてもらうことが人にとってどれだけ大切で嬉しいことなのか、反応を試してみたい。彼ならば、きっと大きな反応を示してくれるに違いない。
何しろ彼は、ドゥロティコムス伯爵令息カナカレデトロス様。隣国デバリアにルーツのある名前らしく、とても発音しにくい。クラスではいつも「カナ様」「コムス伯爵令息」と呼ばれているので、きちんと名前を呼ばれるのは久しぶりのはずだ。
トバイアス様に名前の大切さを教えてもらって以来、私はクラスで最も難しい名前を持つ彼の名前を、何回となく口に出して練習してきた。さあ笑顔で…
「ドゥロティコムス伯爵令息カナカレデトロス様、ごっ…ご、ご機嫌よう」
名前に集中しすぎて簡単なところで噛んでしまったが、彼は目を見開いて私を見た。話しかけたのが今まで一度も会話したことがないクラスメイトの私だったことにもビックリしたのだろうが、それ以上に正式な名前で呼ばれたことが衝撃だったらしいことは、彼の言葉でわかった。
「イベリス嬢、私の名前を覚えてくださっていたのですね」
「ええ、クラスメイトですもの」
「でも、婚約者のレイジアですらカナ様と呼ぶのに…カナカレデトロスと呼ばれたのは本当に本当に久しぶりです」
その反応に私は満足したが、美しいレイジア様はムッとした様子で、少しカナカレデトロス様を睨む。婚約者として至らないとでも言われたと思ったのだろう。まずい。まずいまずい。二人の間に険悪な空気が流れ始めている。カナカレデトロス様にこう言う。
「レ…レイジア様は親しみを込めてお呼びになっているのでございましょう。愛しい婚約者でいらっしゃるのですもの。私も婚約者ができたら、愛称で呼んでみたいものですわ」
「それも…そうですね」
レイジア様の機嫌も直さなくては。
「レイジア様、ごっ…ご挨拶が遅くなりました。カナカレデトロス様のクラスメイト、トーウォール侯爵家のイベリスでございます。いつもカナカレデトロス様が教室でご自慢になっている通り、美しい瞳の持ち主でいらっしゃいますのね。お会いできて光栄ですわ」
「まあ、カナ様が私のことをご自慢に…?」
「ええ、とても。羨ましいほどですことよ」
嘘ではない。教室の隅にいる私にも、声の大きな彼の自慢話は聞こえてくる。彼は本当にこの婚約者がご自慢なのだ。
「嫌ですわ、カナ様ったら。あまりお友達に私のことをお話しになると恥ずかしいですわ」
ややこしい名前の婚約者を嬉しそうに責めながらレイジア様は立ち去り、私は胸を撫で下ろした。