Without haste, but without rest.―Johann Wolfgang von Goethe
バルコニーに置いておいたミルクは、中身がすっかりなくなっていた。蒸発するような季節でもない為、イーニアは何とも言い難い心境で空のカップを片付けた。その後、昨日と全く同じ着飾りを施した使用人らの背中に舌を出しながら昼用の装いに急いで変えて、王宮から来た迎えの馬車に乗り込んだ。朝から無駄な体力を使ったイーニアは既に満身創痍であった。
この王宮は何百年も前に建てられ、今もなおその美しさを損なわず、王都を彩る一つの要素となっている。ハイデン領にあるイーニアの屋敷もむしろ城と言わずなんという、と言わんばかりの絢爛さであるが、この王都にそびえるように建つ王宮はまた格別である。華麗に装飾が施された屋根は圧倒的な存在感を誇る。そしてこの城は四つの大きな塔から構成していた。
日がよく当たる塔には国王や王妃が住まう部屋が主として置かれ、その他に近衛騎士が駐屯している塔、文官らが主に仕事している塔など、塔によって特色が異なる。塔をつなぐ廊下にも部屋がいくつもあり、主に客人らをもてなす部屋として活用されている。
そして、この城の一番の特色はいたるところに作られた二重螺旋の階段であろう。この階段のおかげで鉢合わせることなく上り下りが可能になっているのだ。
イーニアは庭園のテーブルの一つに礼儀よく座りながら、内心なんて無駄にお金をかけた城だろうとある意味関心してしまっていた。この荘厳さを維持するために、どれだけ民草の血と汗と涙で稼がれた税が消費されているのか、と。
見せかけだけ繕って、中身は腐り落ちているというのが王宮、延いては王族という生き物だ。前回国王の依頼を受け薬を調合していた際にも、人には言えないような種類の薬もたんまりあった。それを八歳の子どもに既に要求している時点で、おさとが知れるというものだ。イーニアも馬鹿ではないので、今はそういう依頼が来ると変わりに栄養剤をそれと偽って届けている。断るとそれはそれで面倒なので、ばれる心配がない依頼はこれで突き通すようにしている。
目の前に出された紅茶を一杯のみ終わろうというところで、ざわりと人だかりが揺れる気配がした。そちらの方にイーニアが目を向けると、王妃が優雅な足取りでやってくるのが見える。
王妃のドレスは深い紫からスカートの裾にかけてグラデ―ションして色が薄くなっているものだ。装飾品は小ぶりなものの、一つひとつがとても高価な宝石をあしらっていることがイーニアには分かった。光の反射がその宝石は特徴的で、見る人が見ればすぐにその宝石だというのがわかるだろう。イーニアは表情に出さずに辟易した。ここでも、権力がある人というのはこぞって身を着飾る物に贅をかける。
イーニア自身も侯爵令嬢ではあったが、環境が環境なため無駄な出費は見るだけで吐き気がした。昔は羨んだそれだが、着飾ろうが何をしようが、中身を伴わなければ醜悪なのだということに気付いてからは、羨むことさえなくなった。
凛とした声で挨拶がなされる。従僕に手を引かれ、王妃が席についた。
お茶会の始まりである。
「お久しぶりです、ニア」
席から立ち上がり、挨拶すべき人物を探していたイーニアだが、どうやら相手方のほうがイーニアを見つけてくれたらしい。振り返れば、婚約者である王太子が穏やかに微笑んでいた。イーニアが淑女の礼であいさつを返せば、それを後ろで見ていた王妃は満足そうに微笑む。
「本日はお招きいただきありがとうございます、王妃様。お久しぶりです、ヴァル」
昔、婚約が決まり顔合わせをした時、気安く接することができるようにとお互い短縮名で呼ぶことを約束したという過去がある。そのため、その時から王太子はイーニアをニア、イーニアは王太子をヴァルと呼んでいる。滅多に顔を合わせない二人だが、時たま手紙をやり取りすることもある。もちろん、イーニアは本心でやり取りなどしていないし、王太子もそうであろう。親が決めた相手とは言え、いや相手だからこそ。密なやり取りを交わす必要はないのだ。何より、イーニアはこの先ずっとこの王太子と過ごすことなど想像もしていないし、するつもりも皆無であった。
なぜなら、王太子はきっとまた妹を愛するだろうと考えていたのである。それに加え、イーニアは自分の容姿が、決して可愛らしいとは言えないことを分かっていたし、そもそも王宮に仕える気など毛頭なかったのだ。
愛想笑いすらできないまま王太子との会話は進み、そろそろ話を切り上げようかと一瞬目線をそらした時、それは目についた。王太子の指先から細く赤い線が滴っていたのだ。イーニアは嫌なものを見たと思った。見つけてしまったら、指摘しない訳にはいかない。このまま指摘せずに王太子が恥をかくような事態になったら目覚めが悪い上に、最初に話したイーニアが気づかなかったのかと責められるかもしれない。
溜息を飲み込み、そっとイーニアはポケットの中身を確認した。包帯と傷薬くらいなら常備していた筈だが、果たしてどうであったろうか。爪先にこつりと小瓶の感触があたる。
「ヴァル、少しお耳を貸してくださいますか?」
「はい、何でしょうか。ニア」
素直な王太子はイーニアの言葉にその身をそっと寄せる。王妃は他の招待客の相手で忙しい。これなら誰かにばれる心配は少なかろう。なにより、イーニアは茶会が始まる前に他の招待客から見えにくい死角のテーブルに陣取っている。ここでなら、そのまま手当てしても問題ないだろう。
「どうやらお手を怪我されているようです。差支えなければ、手当てをしたいのですが」
王太子もやっと指先についた血に気付いたらしい。恥ずかし気に頷き、袖のカフスを片手で外した。イーニアは王太子の袖をまくり上げ、テーブルに置いたままの水をハンカチに垂らす。湿らせたハンカチで傷口を拭い、手早く薬を塗って包帯を巻いた。これで問題ないだろう、と捲り上げた袖をを戻しながら顔を上げたイーニアはその瞳を、一瞬興味深げに瞬かせた。目の前にあるその表情が、大変珍しいものであったのだ。
王太子はじっと手当てし終わった傷口を見つめていた。それ自体は珍しくもなんともない。珍しかったのは、その表情であった。いつも頬笑みをたたえ、自分よりずっと年上の女性を射止めてしまうその口元には、笑みがなかった。ただ無表情に自分の傷口を眺める王太子の姿、そしてその瞳に映る色の薄さ、無感情さに、イーニアは彼の本当の人となりを垣間見た気がした。
その夜、イーニアが滞在する王都の別邸に一通の手紙が届けられる。
手紙には、茶会での礼が短く書かれたメッセージカードと栞が同封されており、桃色のバラとカモミールの押し花が色鮮やかに装飾されていた。差出人はヴァレン・イル・ウェートルト、と書かれていた。