When one door is closed, many more is open.―Bob Marley
イーニアが初めて男の住処にたどり着いてから数日が立った。あの日から、度々イーニアは男の家に入りびたり、勝手に持ち込んだ茶葉を淹れてくつろぐ、ということを繰り返していた。淑女としてはあるまじき行為だが、ここだけは、イーニアは魔女であったことも侯爵令嬢であることも忘れてゆっくりできた。
何より、家主が全く拒まないことがイーニアの行いを助長させていた。その家主の男はというと、イーニアが淹れた紅茶を毎回呑気に味わっては、イーニアの傍でなごんでいる。
男はとてもマイペースな性格なようで、いくらイーニアがこの家に勝手に入ろうが、植えてある薬草を勝手に収穫しようが、その薬草を乾燥棚に勝手に干そうがまるで頓着しなかった。物音で何をやっているかは分かっているだろうに、外が一望できるように作られた、大きめの窓近くに設置されたソファに座りながらイーニアが何かしているのをただ聞いているだけ。むしろ、楽しんでいるきらいがある。
初めてイーニアがこの家を訪れたあの日、男は作業が終わると立ち上がり、家の中にのそのそと入っていった。イーニアを無視することに決めたのだろうと思い、立ち去ろうと思ったのだが、振り返った男は家の扉を開けたまま、イーニアを手招いて見せる。困惑気味のイーニアをソファまで誘導した男は、大きめのブーツをいとも容易くはぎ取り、あまつさえ靴擦れの手当てまでして見せた。呆然としながらも短く礼を言った後、名乗ったイーニアに、男もまたビャクダンと名乗り返した。不思議な名前だとイーニアがもらせば、男も頷いた。東の方に生息している植物が由来らしい。名は体を表すと聞いたことがあるが、確かにマイペースで温厚な性格は植物を連想させる。
「レディ。今日は何か食べてきたか」
お互いに名乗り会った日から、男はイーニアをレディ、またはレディ・イーニアと呼び、イーニアは男をビャクダンと呼んだ。畏まったようにイーニアの名前を呼ぶくせに、男は至極平坦に話す。ちぐはぐな印象は拭えないが、イーニアも男と接するうちにそれに慣れてしまっていた。男の問いにノーで返せば、テーブルに大皿に入ったスープがことりと置かれた。緑やら赤やら黄色やら紫やら、よくわからない色合いがごちゃ混ぜの見るからにおいしそうに見えないこのスープは、唯一ビャクダンがまともに作れるものだった。色合い的には全くまともじゃないそれはしかし、味はひどく真っ当なのだ。つまりおいしい。
毒々しい色合いのスープを遠慮なく飲み干したイーニアは、ビャクダンがじっと見ていることに気が付き首を傾げた。イーニアの視線を感じたのだろう、照れくさそうに腕をかいた男はどうも、自分で作ったスープを飲んでもらえることがとても嬉しいらしい。さもありなんとイーニアは頷いた。毒々しい色のスープを飲み干そうと考える輩は、相当飢えているか自殺志願者以外他ならないだろう。ちなみに、初めてイーニアがこのスープを飲んだ時は前者であった。
運悪く何日も食事がとれなかったため、こうなれば毒でもなんでも飲み干してやる、と自棄になっていたのだ。口に入れた瞬間広がった暖かさと爽やかな旨みのことは、今でも詐欺だと思っている。そのせいか、男はイーニアが訪れると決まって尋ねるようになった。「腹は減ってないか」と。そのおかげでイーニアは飢えずに済んでいるし、男も作ったものを食べてもらって嬉しいでお互いにとって良いことなのだが、ふとイーニアは餌付けされている気分になることがある。
イーニアは、この男と過ごす時間が柄にもなく気に入っていた。自分の自室で調合するときよりも、ずっと。けれど、そのことに危機感を覚えてもいた。前回は全くかかわったことのなかったこの男と関わることで、また面倒なことになりはしないか、と。妹と関わった時に実感した後悔など、できればもう味わいたくなどないのだ。
それにしても、と食器を片付けながらイーニアは考える。この男、目も見えないのに今までどうやって生活してきたのだろう、と。視覚が使えない代わりに他の嗅覚や触覚、全般的に感覚が優れているらしいことは、見ていればわかる。しかし、それでも案外広いこの家でどうやって怪我をせずに過ごせていたのか甚だ疑問である。
男といえば、もの言いたげな視線などものともせずに、もしくは全く気付かずに、イーニアが淹れた紅茶を飲みながら、ほのぼのと外の風景を眺めているのであった。