Little things console us because little things afflict us.―Blaise Pascal
朝、イーニアにできることは限られている。薬を調合するか、食事を申し訳程度に調達するか、ただ何もせず、無為に時間を潰すか。窓を開けて風をその身に受けながら、考えることは昨日のこと。どうしても、イーニアは昨日のことが頭から離れずにいたのだ。結局イーニアは、巻き戻された時間の中『選択肢を変える』ことを選んでしまった。別の行動をとることを選んでしまった。選んでしまった事実は、もう変わりはしない。それでもイーニアはまだ往生際悪く悩んでいるのだ。
このまま、本当に別の道を歩んでしまっていいのだろうか、と。なまじイーニアは己がしてきた行動、歩いてきた道筋に後悔が欠片もない。その為同じように間違え、そして罰を受けた方が良いのではという考えが拭い去れないでいる。
最初の間違えは、妹との出会いであるとイーニアは考えていた。何が正解かは、イーニアの中に答えなどないものの、それでも最初はあれなのだと確信していた。なぜなら神を自称する存在は言った。『初めに間違えた時間に戻ることを許された』と。ならば、あの出会いが間違えた最初のものということになるはずだ。それをイーニアは書き換えてしまった。それが良いのか悪いのかさえ判断することが難しい。
考えているうちに疲れてきたのか、イーニアは水差しからコップに水を注ぎ入れ一気に飲み干した。
「自分から死にに行くのは、きっとばからしい行為なのでしょうね…」
誰に言うでもなく呟いた独り言は、煙が掻き消えるように、薄くなって消えていった。
不足しがちな薬でも作ろうかと、イーニアがベッドから立ち上がった時扉をたたく音がした。叩かれたのはイーニアの部屋の扉だ。思わずイーニアの体は硬直した。部屋の扉が叩かれることに、あまりにも耐性がなかったのである。その硬直は、あの可憐な声が聞こえることでどうにか動き出した。妹の声だ。
「お姉様、朝食のお時間よ?」
今度はイーニアがひゅっと息を飲む番だった。
扉の前では「お姉様?」とあの可憐な声がイーニアを呼んでいる。何も知らない無垢な声音で、呑気そうに、イーニアを。
「朝食?」小さく漏れた言葉が聞こえたのか、妹の声が嬉しそうに跳ねあがった。
「ええ!いくら待っても、お姉様が来ないからわたし呼びに来たのよ!」
どくりと、鼓動が不規則に嫌な音を立て始める。何も知らない、白百合のような幼い子ども。その無垢さが、イーニアを切り裂くのだと知りもせずに。イーニアが感じているのは恐怖か、怒りか。
昨日、お前は見ただろう、と叫びたくなる衝動を必死で抑える。妹とその母親がホールで父親に紹介されていたとき、誰もイーニアを見ていなかった。侍女頭や執事長にすら、父親は母子を紹介しているにも関わらず、イーニアには一言も声をかけず、視界に映すことさえしなかったであろうと。
前はこんなことなかった。こんな屈辱的なことはされなかった。「どうかしたの?お姉様」と困ったような声が聞こえた。
感情が、子どもの姿に引きずられていることはわかっていた。けれど、どうして止めることができよう。八歳のイーニアは、まだ寂しいという感情が根強く残っていた時期だ。誰も自分を見てくれなくて悲しい。誰もお話してくれなくて寂しい。その感情が麻痺するのに、二年かかったのだ。期待はしていなかった。その感覚にも、慣れてはいた。けれど、感じずにはいられなかった、根強い『寂しさ』。それを、悪戯に揺さぶり起こされる。
このまま何も答えなければ、諦めて去ってくだろうとイーニアは思っていた。けれど、妹の行動力は存外桁外れだった。ガチャリと鍵の開く音がした。イーニアが気づいたときにはもう妹は部屋に入り込んでいた。そしてイーニアが拒む暇もなく手をつかまれ、部屋から引きずり出されてしまった。振りほどこうにも、どこにそんな力があるのか一向に振り払うことができない。
どうして部屋の鍵が開いたの。どうして鍵を持っているの。どうしてそう強引なの。どうして待ってくれないの。どうしてそう自分勝手なの。
どうして、どうしてこんなに苦しいの。
イーニアは激しく後悔した。違う行動などとらなければよかったのだ。そうすれば、このようなことにはならなかった。きっとイーニアは冷たい目線を一斉に浴びて、「どうしてここにいるのか」と問われるかもしくはイーニアだけ見えていないかのように、優しく妹に「待っていたよ、早くお座りフェネシア」と声をかけるのだ。そして妹だけ執事か侍女に手を引かれて席に座る。イーニアはいないもののようにぽつりと取り残される。妹は困惑するだろう。無神経なほど優しい子どもらしいから。けれどいずれ、イーニアの立場などそんなものと、扱い方を学んでいくのだ。
一人は平気だ。けれど
わざわざ引っ張り出されて無遠慮にかき回されることを、なぜ許容できようか。
食堂の扉が目前に迫り、イーニアが待ってと声をかける前に、妹の小さな手はドアノブを掴んでいた。軽い音を立てて扉が開くと同時に、朝食の香りが鼻孔をくすぐる。
そして、金糸雀は無邪気にさえずるのだ。
「お待たせいたしました、お父様、お母さま!お姉様をお連れしました!」
暖かだった食堂の空気が、一瞬で凍り付いたのが分かった。食堂にて給仕していた使用人は皆一様に顔をこわばらせている。イーニアは、やはりとそう思った。先程まで胸中を埋めていた恐怖も怒りも、部屋に一歩足を踏み入れた途端消えてしまっていた。今ここに立っているのは八歳のイーニアではなく、十八のイーニアであった。
イーニアは妹の手から掴まれていた腕を引き抜いた。とうの妹は感じたことのない空気にさぞ困惑しているのだろう。掴んでいた手がなくなっていることにすら気が付かない。「待っていたよ、フェネシア。さあ、席にお座り」聞いたこともないほど優しい声で、父親が妹を呼ぶ。イーニアなど、最初からいないかのように。こちらの方だったか、と予想を覆さない父親にイーニアは呆れた。義理母も、愛おし気に妹を見ているがその傍にいる子どものことは全く目に入っていない。
妹はイーニアと両親を交互に見回した。退くべきは、どう見てもイーニアであった。ただし、逃げ去るのは今のイーニアは望むところではない。
姿勢を正したイーニアは、ドレスに手をかけ完璧な淑女の礼で答えて見せた。数か所からはっと息をのむような気配がした。それほどに、イーニアのそれは嫋やかであり、上品であったのだ。八歳の子どもがするには、完璧すぎるお辞儀であった。してやったりと、内心でイーニアはほくそ笑んだ。もはや両親のことなど欠片もどうでもよい。侯爵令嬢であるイーニアを、くだらない理由で退ける人々。その中のわずかにでも意趣返しができたのなら、これ以上望むものなどありはしない。
用は済んだとばかりに、イーニアは踵を返す。妹が引き留めようとする気配を感じ、咄嗟にイーニアは口を開いた。
「さようなら、きれいなフェネシア」
まだ六歳の妹に、大人げない皮肉を混ぜてイーニアは微笑んだ。その微笑みは、酷く美しく、また冷たい微笑みであった。