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魔女の再編  作者: 紗音
第一章
2/16

Almost all of our sorrows spring out of our relations other people.―Arthur Schopenhauer

薬の調薬に関しても、フィクションということで実際にはかなり違っていると思われますので、ご了承ください…

 

 ある一人の女性の話をしよう。

 彼女は交易の要であるハイデン領の辺境伯の一人娘として生を受けた。辺境伯の爵位はアリストリス候。彼女はイーニア・アリストリスとして、緑豊かなハイデン領で暮らしていた。

 齢三にして、薬師としての腕を国王からも認められていた彼女が国王からの直々の依頼で薬を調合していたことは公然の秘密となっていた。彼女の薬師の腕がどうしても欲しかったのだろう国王は、彼女を当時六歳であった王太子ヴァレン・イル・ウェートルトの婚約者とすることを決めた。普通ならば婚約者候補とすべきところを、いきなり婚約者に確定してしまったことでまわりはざわめいた。しかし、一番困惑すべき立場であったアリストリス候は一も二もなく飛びついた。これにより、彼女は本格的に王太子の婚約者となってしまったのだ。

 これらを見れば、多少の懸念材料はあれ、彼女は実に幸せな侯爵令嬢として誰の目にも移ったであろう。


 しかし、現実は違った。

 彼女が八歳になった誕生日の二十日後、彼女は新しい妹を得る。母親が身ごもったわけではない。彼女の母親は彼女が二歳の頃に他界してしまっていたからだ。妹の名はフェネシア。父親と同じ柔らかく光る栗毛色の髪に、翠玉のような深緑の瞳。美しい彼女は、誰からも愛され、また誰をも愛した。まるで聖女のような子どもだった。

 彼女に妹ができる前から、彼女は屋敷の中で空気のような存在だった。侍女も付けられず、食事さえも忘れられることがあった。薬師としての才能があればこそ屋敷にいられるのであって、そうでなければとっくに彼女は飢え死にしていたに違いない。それほど彼女の存在が否定されるのには理由があった。とても、くだらない理由が。彼女の髪は白に近い白金。瞳は柘榴のような深紅の瞳。母親とも父親とも似つかぬ色を持った彼女は、人間とも思われない節があった。

 それが、妹ができてから顕著になった。空気のように存在を無視されるばかりか、ときたま彼女に聞こえるようにひそひそと彼女と妹を比べて嘲るのだ。「あんな化け物のようなもののそばに近寄るなんて、ぞっとするわ」「見てあの目。つりあがっていて、まるで鬼のよう」「薬師として優秀なのも、きっと人間じゃないからだわ。あんな化け物の作る薬のどこがいいんだか」と。

 八歳の子どもが、どうしてこれに耐えられよう。


 食事の時間、午後のティータイム、庭園での束の間の休憩。家族で楽しそうに笑い会う中に、彼女の居場所はない。妹だけがこの屋敷にいるたった一人の娘とばかりに、父親は妹に笑顔を向ける。

 居場所のない彼女の唯一こもれる場所は自室の隠し部屋だった。彼女に与えられていた部屋には、偶然隠し部屋がったのである。哀れな彼女は、自室に誰も来ないことを知っていてなお、誰でも扉を開けることができる自室にさえ、こもれなかったのだ。そして、隠し部屋に薬の調合方法を記した文書、貴重な薬草などはすべてこの隠し部屋に隠し入れ、誰にも見られないようにした。そうして国王からの依頼をこなしながら報酬として手に入った金銭で細々と生活していたのだ。そして彼女は隠し部屋から出ることが、日に日にできなくなっていった。


 元々交流の少なかった婚約者からも、次第に彼女の面影は薄れていった。彼女はそのことを知らずに、王太子が屋敷に訪れるたびに隠し部屋から出てきてはいた。それでも、近寄ることはできなかった。彼女はもう、人間というものが恐ろしく感じられるようになっていた。それでも王太子のことは少なからず彼女は思っていた。それもそうだろう。嫌われ者の彼女に、唯一優しく接してくれていたのが、王太子であったのだから。


 けれど、ある日彼女は妹と王太子が談話室で親しげに言葉を交わしているところを見てしまう。未婚の男女が言葉を交わす場合、必ず部屋の扉は開けたままにするのが常だ。その扉の隙間から見てしまった。王太子の妹を見る表情の、なんと愛しげであったことか。彼女はその時やっと、王太子の心にも既に彼女がいないことを知ったのだ。それは、彼女が十四の時だった。

 彼女は、心の支えにしていた王太子を失って、酷く困惑した。彼女はとても繊細な女だった。つりあがった眦、その強い眼力から、高圧的な雰囲気を醸し出す外見からは想像もつかぬほど。

 けれど彼女は王太子をもう一度こちらに振り向かせようなどということはできなかった。彼女は王太子だけでなく妹の表情もしっかりと見えていたからだ。その瞳からは、隠しきれぬほどの恋情がにじみ出ていた。二人は彼女が隠し部屋に逃げている間に、すっかり想思相愛になっていたのだ。どうしてこの二人の間に割り込めよう。


 まだ、その時は彼女は正気だった。けれど、その正気は長く続かない。王太子が彼女を見た。彼女の心臓は緊張でぞくりと粟立った。けれど、王太子の唇が音もなく『誰だ』と口にした瞬間、彼女はその場から駆け出した。鼓動は早鐘のように音を立て、彼女の内側からガンガン殴りつけて壊していった。

 まさか彼女も、いたこと自体を忘れられていたとは思わなかったのだろう。その事実はぐらぐらと不安定だった彼女の心をぽきりと折ってしまったのかもしれない。彼女は誰からも、いない存在なのだと彼女自身が自覚すること。彼女はひどく恐ろしかった。もう、彼女を彼女と認識する人間が、己しかいなかったことが。それは果たして、そこに存在していると、生きているということになるのだろうか。彼女は自問し始める。彼女が患った病は、孤独と言われるものだった。それは一瞬で彼女を侵し、壊し、そして満たしてしまった。

 そして病に侵された彼女はもはや憎悪なしでは立っていられなくなってしまった。


 あの子のせい。自分がこうなったのは、みんなみんなあの子のせい。父様が無関心になったのも、居場所がなくなったのも、婚約者がいなくなったのも、全部全部、あの子のせい!


 その感情は、所々間違っていた。彼女は最初から居場所など持っていなかったし、妹ができる前から父親は無関心だった。けれど、そうして妹を憎んで、行き場のない寂しさとむなしさを、彼女は必死になって埋めようとしたのだ。何しろ、彼女はまだまだ子どもだった。親の愛情が必要な、弱い存在だったのだ。

 自制心が壊れてしまった彼女は、一年隠れ部屋で書物と向き合い、取りつかれたように調合を繰り返した。食事は死なない程度にとり、それ以外の時間はすべて、調合に費やされていった。そしてついに、彼女は解毒剤の無い毒を作り出した。どの書物にも記されていない、解毒剤もまだない即効性の毒物だった。

 しかし、その毒が妹が口にすることはなかった。厨房に置いたままにされていた、妹に出される前のポットに毒をたらそうとして、彼女は一瞬だけ躊躇った。その一瞬で使用人に見つかり、取り押さえられた。彼女は抵抗しなかった。ただ何もかもに疲れてしまったかのように、長く息を吐き出した。

 おそらく、すんでのところで彼女は正気に戻ったのだ。何がきっかけかは、彼女にさえわかるまい。


 彼女は王宮の地下牢に閉じ込められ、そこで四年の時間を過ごした。その時から、彼女は今までの内気な性格からは想像もできない程、堂々と人を見つめるようになった。けれど、本来の彼女の性格を知っているものは少なく、魔女はとんだ傲慢な性格をしている、と周りのものには伝わっていった。

 そして、解毒剤が無いなどという危険極まりない毒を生み出した彼女は、危険人物…魔女として、国王として即位したばかりの王太子に、容赦なく断罪されることとなる。それが、妹への愛故に過剰な罰になってしまっていたかは、定かではない。しかしそう勘ぐってしまうほど、魔女としての告発、処刑は残酷な処罰であったのだ。



 彼女の最初の間違いは、ずっと、たった一人で耳をふさいでしゃがみ込んだことかもしれない。




 イーニアは悪い夢を振り払うように、勢いよく体を起こした。鼓動は長時間走り続けた時のように、トクトクと早い速度で脈打っている。イーニアは部屋を見回し、そして窓から外を見た。窓板から見えた空は白んでいるものの、日はまだその姿をほんの少し現すばかり。深く息を吐くことで、イーニアは鼓動を落ち着けようと何度も深く呼吸をする。心臓あたりの服を握った手は、握りすぎて白くなっていた。


 やっと呼吸を落ち着け、汗をかいていた体を拭った。長い髪を適当に後ろでしばりながら、イーニアが最初に向かったのは文机だった。上から三つ目の引き出しを開け、そこに入っていた日記帳のページをめくる。日記の最後の日付を見て、固く瞼を閉じた。その日付は、イーニアが妹と初めてあった、前日のものであったからだ。固く瞼を閉じたまま、忘れてしまいそうな呼吸を繰り返す。夢であってほしかったことだろう。まだ、この現実を受け入れたくはなかったはずだ。しかし、これは夢などではなく、幻覚でもない。死んだ後の世界などでもないのだ。


 あの時見た『やり直す』の言葉の意味が、日付によって確定してしまった。すなわち

 ――時間の、巻き戻しである――



 日記をもとの場所に戻したイーニアは、窓にゆっくりと近寄った。窓を開け放った途端、朝の冷たい空気が肌を刺す。未だ落ち着かない心臓を持て余しながら、その冷たい空気を肺一杯に吸い込む。イーニアはもう、あの引っ込み思案で内気な子どもではない。屋敷の冷たい空気に耐えられずに部屋から出られないような子どもではない。それでも、あの時の絶望が目の前を横切る。耳元で囁き続ける。耳障りな鳴き声となって、イーニアを落ち着かなくさせる。

 それでも、もう時間は巻き戻ってしまった。あの泣きくれた日々も、憎悪に濡れた愚かな日々もなかったことにはならない。なかったことには、決してしない。

 ハイデン領の緑豊かな空気が、イーニアの震えを少しづつ宥めていく。小鳥のさえずり、木々の擦れる音、風の騒めき。一つひとつを感じながら、呼吸を整える。


「本当ならば、このような事象は禁忌に他ならない。神が自ら定め、守らせてきた摂理を神自身が歪め、冒涜したのだから」


 イーニアは、この巻き戻された時間を幸運とは捉えていなかった。迷っていたのだ。未来を変えるよう動くべきか。前回、受けることの叶わなかった然るべき罰を受けるために、また同じように行動するか。

 なぜなら、イーニアは後悔はしていないのだ。自らの行いが間違いであると知っている。醜く、醜悪であったと自覚している。それでもなお、やらなけらばよかったとは思っていない。

 握りしめた手から力を抜くには、イーニアは不器用すぎたのだ。


 日が先程よりも高くなってきていることに気付いたイーニアは、部屋につるしてあったいくつかの薬草を手に取った。令嬢としてはいささか非常識な部屋だが、見る人もいない為かイーニアは全く気にしていない。

 薬草を順番に木製の薬研(やげん)ですり潰し、乳鉢でそれらを混ぜ合わせていく。練ばちでこね、形を作れば丸薬が出来上がる。ただし、とても力のいる作業であるし、集中力も大切だ。一つから三つのの丸薬を作るだけで、約二時間はかかってしまう。しかし、今回は丸薬にする前に手を止めた。塗り薬の形にとどめるためだ。振り子時計を見てみれば、既に十二の文字に長針がかかっている。薬を小瓶に詰め、外着に着替えるとイーニアは庭園へと向かっていった。




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