The wisest mind has something yet to learn.―George Santayana .1
長くなりそうなので、1と2で分けることにしました
満月の夜。薄暗い厨房から温めたミルクを持ち出し、速足に自室に戻ったイーニアはバルコニーの床にそっとミルクを置く。しばらく置いたままの態勢でカップの中身を見ていると、どんどんと中にあったミルクが消えていく。
株植えをしていた時から。否、それ以前からイーニアは言葉にし難い違和感を感じていた。目が見えないはずのビャクダンが何故迷いなく紅茶を淹れられるのか。歩く動作もしっかりとしており、イーニアが密かに考えていた杖など必要もない。それに加え、毎夜なくなるこのミルク。
不思議だし、気味が悪いはずだ。一番イーニアにとって不可解なのは、これらに全く動揺していないことが分かってしまうからだ。目の前で無くなるミルク、ビャクダンの自立した生活。とても驚いているはずなのに、同時に受け入れている。けれど、この現象がなんなのかイーニアは理解ができないでいる。
そうしてじっと、中身のなくなったカップを見つめていたが、隙間風が首筋を通り抜け肌寒さに立ち上がる。バルコニーに背を向けた時、風とはまた違った空気の流れを感じた。
「あら。ちゃんと約束を守るなんて。やっぱり見所あるわね」
耳元で囁かれる声にぎょっとして身を翻せば、いつかの妖艶に微笑む魔女がバルコニーの手すりに座ってこちらを見ていた。
「…レディ。何の用かしら」
外向き用の口調でイーニアが答えれば、この間の気味悪さは夢か何かだったかのように、ころころと女は笑った。それは、イーニアがよく知る女の姿だった。本気だか冗談だかが、常に曖昧なこの魔女風情は前回も揶揄いついでにイーニアのところにやってきて、申し訳程度の知恵を与えて去っていくのだ。今思えば、女にとってイーニアは期間限定のおもちゃだった。壊れることが分かり切った、油の足りないブリキ人形。はっきり言って、イーニアはこの女は好きではない。さっさと帰らないものかと、相手をするのも億劫だったイーニアはさっさとベットに乗り上げ女に背を向けた。
「面白いわね、本当」
それでも、楽し気な女の様子は変わらない。女は続けて、レディだなんて気取るつもりはないわ。と話しかける。
「マダムとでもお呼びなさいな、キティ。私のことは、マダム・ジャレと」
「…私はキティなんて名前ではありません。マダム・ジャレ」
むっすりとして答えるイーニアに動じずに小さく笑い続けるジャレに、しかしイーニアは内心眉を跳ね上げた。前回は、レディと呼べと言っていたくせにと。
この女の名前はジャレット。イーニアはずっと女のことをレディ・ジャレットと呼んでいた。だというのに、この気安さは何だろう。何か企んでいるのではと、イーニアが落ち着かないでいると、さわさわと風が頬を撫でた。けれど視界の端に映るカーテンは、少しも揺れてはいない。
こつり、とヒールが床を打つ音がした。ジャレは背中を向けて座るイーニアの正面に回り込む。不機嫌そうな表情でわざとイーニアが見上げても、ジャレは機嫌を損ねなかった。むしろ、より楽し気に。いや嬉しそうに笑って見せる。顔を顰めたイーニアを見て、唐突にジャレはその眉間を人差し指でそっと撫でた。
何をと、口を開きかけたイーニアは思わずぎゅっと目を閉じた。ジャレが触れた眉間から目の奥に広がるように、燃えるような熱さが襲ったのだ。安心しなさいと、ジャレはひどく穏やかな声音で囁いた。
「『見る』回路が欠落しているようだったから、体中の魔力を使って回線をつなげてみたの。可哀想に。感じる力も、聴く力もあるのに。見る力がないばかりに、お前の固定概念が、彼らを理解することの邪魔をする」
「なんの、こと…」
「すぐわかるわ、キティ。ほら、そろそろいいでしょう。その目を開いて、よーく『見て』ごらん」
ジャレに言われるがままに熱の引いた瞼を開ける、と。ひゅっと、イーニアは息をのんだ。悲鳴を堪えるときのイーニアの癖である。それもそのはず、イーニアの視界には、見たこともない男性と、双子の幼女がうつり込む。先程までは、イーニアにとっていなかったものだ。
「お前は目に見えないものは信じないたちだろう。だから、彼らの存在を感じていながらも感知できなかった。何せ見えていないからな。それでも、健気なことだ。彼らはお前のそばをひと時も離れはしなかった」
ジャレは悪戯が成功したかのように、得意げに胸を反らす。そのままに、いたらない子どもを諭すような声音で立ち上がるようにイーニアを促した。双子の幼女はすぐさまイーニアの足に纏わり付く。タンザナイトのようなゆらゆらと変わる青い輝きを見せる髪色に、同色の瞳。大きなその四つの瞳は見開かれて今にも零れ落ちそうなほど。彼女らはぎゅっとそれぞれ足にしがみつき、じっとイーニアと目を合わせる。そして、至極幸せそうに笑みの形に口を緩めた。
静かにイーニアの前にやって来た青年は、乱れた髪に優しく手を伸ばし撫でつけるように整えると、双子と同じように屈んでまで目を合わせ微笑んだ。その拍子に、ドラバイトトルマリンのような茶色の髪が、さらりと青年の頬にかかる。瞳は琥珀のように澄んだ色。イーニアは混乱した頭で、目がちかちかするわと考えた。