鬼姫由仁
嗤っている……そう、私はこの光景を視て嗤っているのだ。
どうして?と自分に問うが分からない、ただただ愉快だと、この惨劇を視てそう感じているのだ。
見下ろす大地は真っ赤に染まり無数とも思える程の人間が……いや、かつて人間だった肉の塊が倒れている。 首が、両腕も両足も切断されたそれらは大人の男達だけではなく、女性や子供……赤子らしきモノもあった。
――私は誰?――
答える者はいないだろう問いかけだったはずが、どこからともなく聞こえた女性の声がそれに答えてくれた。
――何を言っている? 私は……――
それは私自身のものにも、まったく知らない誰かの声のようにも聞こえた……。
「……またあの夢かぁ……」
煩い目覚ましのベルが響く中で徐々に意識がはっきりとしてくる、ゆっくりと上体を起こすと目覚まし時計の音を止めたのは、ほとんど習慣的な行動だ。
「……まあ、ただの夢ってわけでもないんだろうけど……」
どこか自虐的に呟く少女の名は朱鷺坂由仁、日本の一般家庭で暮らす十四歳の中学生である。
「ま、いいか」
重くなりかけた気持ちを振り払うように明るく言うと、パジャマから制服に着替えるためにベッドから降りた。
標準的なセーラー服を身に纏った由仁は次に壁に掛けられた鏡を見ながら自身の黒髪をくしでとかしてから、腰より少し上くらいまで伸びた髪を首の後ろあたりでまとめて赤いリボンで縛る。
最初は上手くできずに母親にやってもらっていたものだが、今ではすっかり手慣れたもので十秒もかからない。
「うん、完璧♪」
明るく笑ってみた少女の表情が次の瞬間に凍り付いたのは、銀色の瞳の少女が惨忍そうな笑いを浮かべて自分を視ていたからだ。 だが、次の瞬間にはそれは愕然とした茶色の瞳を持った少女の顔に戻る。
「…………」
由仁は目を閉じ大きく深呼吸した後、再び笑顔を作り、そしてどこか逃げるように鏡の前から立ち去り自室を出て行くのだった。
由仁の通う中学校は家から二十分くらいの場所にあり、特にレベルが高いという事もない普通の学校である。 その中で優等生でもなければ落ちこぼれでもないというのが由仁という生徒であるが、目立たない地味な生徒というわけでもない。
彼女の美少女といっていい容姿は、ゲームかアニメであれば学園のアイドルというレベルであり男子生徒の注目を集める。 だがそれを意識することなく自然体で振舞ってもいるため、女子生徒から嫌われているというわけでもない。
「鬼姫?」
昼休み、一緒に弁当を食べていた友人の八雲泉子が口にした言葉に首を傾げる。
「昨日、図書館で借りた本によるとね、大昔にそう呼ばれて怖れられた鬼の女がいたんだって?」
「あなたも好きよねぇ、そういうの……」
オカルト好きというべきなのか、泉子はとにかくUFOだとかUMAとか心霊現象だったりとその手の事に興味津々なのである。
「で、その鬼姫ってのがさ、とにかく残酷で小さな村を戯れで一人残さず皆殺しとかやったんだって。 もう女子供も赤ちゃんまで容赦なくよ!」
由仁の表情に一瞬影が差すのには、小学校からの付き合いである泉子は見逃していた。
「まあ、でも所詮は伝説……作り話でしょう?」
「とも言い切れないわよ? ひょっとしたらとんでもなく残酷な野盗とかがいてさ、それが鬼として伝わったとか? あるかもよ?」
中学にもなって一方的に信じるのではなく客観的な視点で物事を考えられもするようになった友人に「ああ、それはあるかもね」と頷く由仁。
「それに本当に本物の鬼がいたってのもね? そっちの方が夢があるでしょう?」
「いやいや……女子供も皆殺しにするような鬼に夢って言われても……」
呆れた顔で言った後に、空になった弁当箱の蓋をした。
午後の授業も終わり、部活にも入っていない由仁は真っ直ぐに帰宅する。
特別何かがあったわけでもない普通の中学生としての一日、このまま高校生になって大人になり社会人となれば変化はしていっても、本質は何も変わらない平和な日々が続いてほしいと願う。
「……って、そうもいかないみたい」
由仁の進路を塞ぐように一人の少年が立っていた。 年齢は十代半ば、由仁と同じくらいだろうか、短い茶色の髪の少年は、しかし制服姿ではない。
何より普通の人間ではありえない強いオーラを放っている。 比喩ではなく由仁には相手の持つ力がそのような形で見えるのだ、もっとも常にではなくある程度意識すれば”視える”のだが。
「朱鷺坂由仁さん?」
「そうですけど?」
由仁が肯定すると「悪いけど、僕と一緒に来てくれないかな?」と言った声は穏やかではあったが、彼の瞳には有無を言わさないぞという風な凄みがあった。
「言っておきますけど、うちは身代金を取れる程にお金ないですよ?」
「あの由姫がそういう冗談を言えるようになってるのか?」
挑発するかのような言い方に「はぁ……あの時のサムライ……さんですか」と観念したように溜息を吐いた。
そんな二人がやって来たのはとある廃工場の中だった、由仁には何に使うのか分からない機械の残骸がいくつか放置されていて、ガラスの砕けた窓から入ってくる光もどこか頼りない。
「僕の名は吉比桃太、前世は……は今更いいか」
「知ってるみたいですけど、わたしは朱鷺坂由仁、ごく普通の中学生ですよ?」
心の中で、今はですけど……と付け加える。
「”君”に恨みはないんだけど……死んでもらうよ!」
タイルの床を蹴って跳び出した桃太の右手には、いつの間にか一振りの刀が握られていた。 躊躇なくその刀を振るうその動きも、そして横に跳んで回避する由仁の動きも素人のそれではなかった。
「いきなりとか……」
「鬼姫と何を話せと?」
更に斬り付けられるのを回避しながら「こっちも言いたい事ってあるんです!」と言い返しながら、自分の代わりに真っ二つになった何かの機械をちらっと見た。
「昔のわたしがした事は”知って”ますけど、それって流石に時効ですって!」
「そうだとしても!」
反撃の意志を見せない由仁に「君がこの時代で同じ事をしない保証はない!」と三回目の攻撃を仕掛けるのには、僅かな迷いがあるように見えた。
「してもいないのに殺されるとか!」
今度も避けたつもりだったが、制服の袖が僅かに切られていた。
「まだ反撃しないのかっ!?」
「現代の日本で殺し合い出来ないですから……」
言い返しながらも、これは話し合いで解決出来る雰囲気ではないかもと思い始めていた。 下手に家まで押しかけられて両親に迷惑をかけたくもないと相手の思惑にのったはいいが、少し予想が甘かったようである。
「抵抗しろよっ!」
声が僅かに震えているのは苛立っているのか、何かを怖がっているのか……どちらにしてもこのまま無抵抗とはいかない。
「分かりました……わたしは親不孝する気ないですから」
そう言うと右手を後ろへ回しリボンを解く、シュルリという音と共に纏まっていた髪が広がった。 同時に由仁の額から尖った物が飛び出す、それは肉や皮膚を突き抜け内から生えてきたという風にも見えた。 最終的に十五センチ程になったそれは、まるで一角獣めいた白い角となった。
変化はそれだけではない、少女の黒髪は地に着くほどまで伸び、桃太を見据える瞳の色も茶色から銀色へと変わっていた。
可愛らしい少女から恐ろしさを含んだ美しき少女へと、目の前で変貌を遂げたその光景に桃太は思わず息をのむ。
「ようやくか!」
「仕方ないです、こうしないと収まりそうもないんですから……」
もっとも変身したはいいが、この後はどうしよう?というのが本音であるが、それを知らない桃太は気合の声と共に攻撃を仕掛ける。 それを今度は避けようともしない由仁、だが少女の身体を簡単に斬り裂ける刀身は寸前で黒いモノに受け止められた。
それは何かの武器ではない、直径二センチ程に束ねられた由仁の黒髪だった。
桃太は驚く事はせずに「……能力は変わってないか!」と後ろに跳んだ、それは反撃がくるのを警戒しての事だが、その反撃はこなかった。
「そうらしいです……いったい何の役に立つんでしょうねぇ……」
「その髪で何百人何千人という人間を斬り刻んでいて言うのか!?」
由仁の表情が沈む、今朝も視た夢を思い出させる言葉だった。
「……今やったら大量殺人ですから……まあ、やりたくもないですけどね」
かつての自分だったら違っただろう、”彼女”にとっては人間など気まぐれに殺す玩具でしかなかった。 だが”朱鷺坂由仁”は違う、前世がどうであれその力と記憶が戻ってしまったとはいえ、十数年間生きてきた時間は紛れもなく人間としてなのだから。
「今はそうかも知れない。 だが、君が”由姫”に覚醒すれば……僕のように完全に前世の自分を取り戻せば……」
だからやるしかない、例え”由仁”には何の罪もないと分かっていてもだ。
桃太自身は元より退魔師の家の生まれであり、そのための鍛練も積んできた。
だが数年前から段々と”昔”の記憶がよみがえってきて、自分が倒すべき鬼もまた転生していると知った。 それは知識というよりも本能的に存在を感知したというべきものだが、ともかくいくつかの手段を用いてそれが由仁である事を突き止めてやって来た。
しかし、最初こそ自己暗示めいた思い込みと勢いで攻撃出来ても、やはり無抵抗の女の子を殺すなど容易に出来るわけもない。 かつてとはまた違う鬼の姿になった今でも、変身前の普通の少女を見てしまえば抵抗を感じないはずはない。
そしてその事実は、自分がかつて由姫を倒したサムライではなく現代を生きる”桃太”であると気が付かせるのに充分だった。
「そうなのかな?」
「……え?」
「確かにわたしもあなたも”前世”はあったんだろうけど、人だろうが鬼だろうが死んだヒトが蘇るのかな? 命ってそんなに簡単で安いモノなのかな?」
それは由仁が自分自身に言い聞かせてる言葉でもあった、由姫は死に今こうして生きているのは由仁であるから、あんな人を殺して愉快に哂える鬼などであるはずがないのだと。
「君は……?」
構えていた刀を降ろした少年の問いかけに、由仁はニコリと笑うとその姿を変えていく。 地に着いてた髪の毛は腰あたりまで縮み、額の角もまた短くなり消えた。
「わたしは由仁……朱鷺坂由仁ですよ?」
邪気をまったく感じさせない少女の笑顔にドキリとするものを感じた桃太は、これ以上はこの少女を殺そうとは出来ないだろうと自覚する。
「……今日はもう引き下がる……どうするかはじっくり考えたい」
まだ諦めていないらしい少年の言葉にやれやれと肩をすくめながらも、ひとまずはこれでいいかな?と思う由仁であった。
――何故殺さない?――
殺せるわけないでしょう、相手は人間なんだから……と言い返す。
――何故私を否定する?――
わたしは由仁です、由姫じゃありません。
この世に生まれた瞬間は、あるいはそうだったのかも知れない。 しかしこの十四年間生きてきた自分は間違いなく由仁であるはずだ。
――否定は出来ぬさ、由仁の中には由姫いる――
それは本能的な部分では分かってはいたが、理性はそれを認めたくはなかった。
人間である由仁には、由姫という鬼姫に変貌するというのは、ただただ恐ろしい想像である。 今の自分が消えてしまう、それは死とどう違うのであろうか?
――まあ、いい……いずれ嫌でもそうなる時がこよう――
そう言って笑う由姫の声は、段々遠くそして小さくなっていった……
「……そんな事になんか……」
気が付いた由仁の目に飛び込んできたのは見慣れた部屋の天井であり、感じているのは布団にくるまれていると分かる暖かさであった。
いつの頃からだったのか、最初は夢に見ていただけだったと思う。 だが、やがて忘れていた事を徐々に思い出していくように”由姫の頃の記憶”が自分の記憶へと溶け込んできた。
少しづつゆっくりだったからだろうか、気が付いた時にはその記憶が自分の前世のモノだと理解し受け入れてしまっていた。 そして今ではかつての力とその使い方まで自分のものとしていた。
もちろんこんな事を誰かに、例え両親であっても相談出来るはずもない。
だから一生誰かに話す事もなく、同時にこの力を何かに使う事もなく”朱鷺坂由仁”として生きていくのだと思った……いや、そうしたいと今でも思っていた。
桃太との遭遇から一週間経った日の朝、由仁が慌ててる様子で「いってきます~!」と玄関を跳び出したのは、時間的にヤバイからである。
だが、「……ずいぶん遅いんだな?」という男の子の声にギョッとなって立ち止まり振り返れば、そこにいたのは学生服姿の桃太だった。 しかもこれから登校するかのように手提げの学生鞄も持っていた。
「……ナンデ?」
呆然と少年の生真面目そうな顔を見つめる由仁。
「実家に帰って父さんや母さんと君の事を話し合った結果、ひとまず監視という事でいいだろうってさ」
「監視って……」
まるで犯罪の容疑者みたいな扱いに愕然となる……まったく分からない話でもないが、やはりそれでもだ。
「そんなわけで僕は今日から君の同級生だ、よろしくね”朱鷺坂さん”?」
昔からの知り合いであるかのような気軽な挨拶をされた、確かにある意味そうではあるのではあるが……とそんな事を考えかけて、次の瞬間には何と言うかトンデモない状況になったと思い至る。
「な! なななな何なのよそれぇぇぇえええええええっっっ!!!!?」
少女の驚きの叫びが、朝の住宅街に響き渡ったのであった。