第50話 大司祭の帰還
お待たせしました。
新章を改めて開始させていただきます。
※ ちょっと長めです。
琥珀色の茶が、白鬚の中に吸い込まれていく。
やがて口からカップを離し、受け皿に戻すと、ムラド王は満足げに息を吐いた。
緑色の瞳が、目の前に座った男に向けられる。
やや緊張気味のヴォルフは、作法に戸惑いながらも、豪快に茶を啜っていた。
「騎士団とうまくやっているそうだな」
「おかげさまで。最初は戸惑いましたが」
「お主のおかげで、騎士団に対する疑問の声も少なくなった。礼をいうぞ、【剣狼】」
「俺は何もやってませんよ。ウィラスや騎士団員たちが頑張っただけです」
「変わらずお主は謙遜家じゃの。過ぎれば、嫌味に取られるぞ」
「これが性分でして」
再びヴォルフは茶を口に付けた。
深緑の森に漂う空気を吸ったように、喉が爽やかになる。
王の執務室で茶を楽しんでいると、不意にノックが鳴った。
秘書官が静かに入ってくる。
一礼をすると、口を開いた。
「謁見の最中、失礼いたします、陛下」
「なんだ? 仕事ならまだやらんぞ。今は休憩中じゃ」
「陛下に謁見を申し出ている方がいらっしゃいまして」
「待たせておけ。今は、ヴォルフと茶を楽しみたいのだ」
「それがヴォルフ殿にもお会いしたいと」
「何者じゃ?」
「マノルフ大司祭様です」
すると、ムラドは椅子を蹴った。
怒り出すのかと思いきや、王の顔は絶世の美女を迎えるがごとく、締まりのないものになっていった。
「それを早ういえ。通すがよい」
秘書官は頭を下げ、部屋から出て行く。
代わりに入ってきたのは、白地に金の刺繍が入った司祭服を纏った若い男だった。
その姿を認めると、王は「おお」と歓声を上げ、自ら出迎えた。
「マノルフ猊下、ご無事でしたか!」
強く抱きしめる。
王に熱烈な歓待を受けた男は、少し困った顔を浮かべた。
「ムラド王よ。大変光栄ではありますが、人の前にて。お控え下さい」
「はは……。すまんな。つい――」
ムラドはようやく手を離した。
すると、マノルフは傅く。
「ご心配をおかけし申し訳ありません。このラムニラ教大司祭マノルフ・リュンクベリ、無事帰還いたしました」
王から差し出された手に、縦に1回、横に2回、印を切る。
信徒がよくやる仕草なのだが、その意味までは知らない。
ラムニラ教は、レクセニル王国で唯一認められている国教だ。
聖天ラムニラを唯一の神と崇め、世界的にも有名な宗派の1つ。
『1つ善行を行えば、10の善行が返ってくる。1つ悪行を行えば、100の悪行が返ってくる』という教えは特に有名で、他の宗派にも影響を与え、国の道徳授業にも使われている。
その教え故か、積極的な奉仕活動を行っている。
熱心なラムニラ教信者である王は、そのために予算を割き、国を挙げて支援を行っていた。
その大司祭……。
王と抱擁するほどの仲なのは驚きではあるが、さして不思議ではなかった。
「紹介しよう。ヴォルフ・ミッドレスだ。余を守ってくれた英雄だ」
「おお! おお! あなたがムラド王を守ってくれた恩人ですか」
今度はマノルフが熱烈にすり寄ってくる。
ヴォルフの前に立つと、例の印を切った。
「あなたに聖天の加護がありますように」という一言を付け加える。
「す、すまない。俺は宗教の作法が疎くて」
「問題ありません。……それよりも、聖天のお告げ通りだ。あなたはとても心優しい方でいらっしゃる」
マノルフはジロジロとヴォルフを見つめた。
それどころか、骨格を確かめるように肩や腕を触る。
【剣狼】の胸が少し高鳴った。
目の前にいるのが男であることは十分理解している。
だが、その中性的な顔立ちは美しい女のようにも見えた。
三角の司祭帽から伸びる波立った金髪。
女性のような白い肌となで肩。
痩躯であることは、ゆったりとした司祭服からでもわかる。
すっと通った鼻筋は横から見ると、余計に異性を想起させた。
何よりも青水晶の瞳が揺らぐ度に、魅了めいたものを感じる。
「実はな、ヴォルフ。司祭は革命の折、行方不明になっておったのだ」
王の言葉を聞き、我に返る。
やや曲がった背骨を立たせると、横を向いた。
「実は、我が教院も襲撃を受けまして。多くの信者が聖天の御許へと旅立つこととなりました」
「教院が?」
ラムニラ教の教院は王都の北東にある。
かなり立派な教院で、その規模は総本山に次いで大きい。
「報告は聞いておる。巻き込んで申し訳なかった」
「これも聖天がお与えになった試練なのでしょう」
微苦笑を浮かべる。
ムラドはさらに質問を続けた。
「――して。今までどこにおった」
「実は、他国の知人のところに身を寄せておりました。革命が終結したと聞き、急ぎ戻ってまりました」
ヴォルフは少し首を傾げる。
揚げ足をとるつもりはないが、すでに革命が終結して30日も経つ。
急いでいた割には、随分遅い帰還に思えた。
(きっと……。かなり遠い場所か、辺境に隠れていたのだろう)
それはともかく、マノルフからは「いい人」オーラが立ちのぼっていた。
国教の代表者、何よりも王が認めている御仁だ。
若くとも、人間として完成されているのだろう。
少し話をしてみても、内容に棘もなく、声を聞いているだけで落ち着いてくる。
だが、ヴォルフはこの手のタイプが苦手だった。
そもそも宗教家というものがすでに駄目なのだ。
ヴォルフが信じる神は、竈と井戸、森の神。いわゆる民間信仰にあたる。
何より、己の優しさを押しつけてくるような雰囲気が、一線を引いてしまう要因だった。
(悪い人間とは思えないが)
王と談笑するマノルフを見て、最終的にそう判断した。
「陛下……。俺はこれにて」
「何をいう……。もうちょっとゆっくりしておれ」
「折角、マノルフ様がご帰還されたのです。積もる話もあるでしょう。それに、俺はこれから騎士に稽古をつけなければならないので」
「……そうか。ならば仕方ないな」
肩を落とす。
少し悪いことをしたと、ヴォルフは胸中で反省した。
すると、マノルフが1歩進み出る。
「では、私がお見送りいたしましょう」
ヴォルフは当然断ったのだが、マノルフは「是非に」と食い下がった。
王の進言もあり、仕方なく言葉に甘えることにする。
ルドルムの正門を向かう道すがら、司祭は口を開いた。
「ヴォルフ殿。改めて感謝を。王を救っていただき……いえ、私の良き隣人を救っていただきありがとうございます」
「俺は当然のことをしたまでですよ」
「【勇者】ルーハスを前にして、怯むことなく刃を向けたと聞きました。その勇気、聖天も讃えることでしょう」
(こういう何かと神様と結びつけるのが、俺にはしっくり来ないんだよな)
ヴォルフは苦笑する。
人の心は神のものでもない。
己自身のものだからだ。
「どうでしょうか? ラムニラ教に入信してみては」
「い――!!」
「ははは……。冗談ですよ。あなたは聖天を疑っておられる」
「いや、それはその……」
癖毛を掻いて誤魔化す。
正直者のヴォルフにとってもっとも苦手な作業だった。
「ですが、もし聖天の御手に助力を請うならば、いつでも仰ってください」
「考えておきますよ」
ヴォルフは引きつった笑みを浮かべるので、精一杯だった。
「マノルフ様!!」
水が飛び散るような女性の声がルドルムの廊下に響き渡る。
聞き覚えのある声に、ヴォルフは顔を横に向けた。
走ってきたのは、セラネだった。
息を弾ませ、薄い胸を上下させている。
いつも無感情である瞳は、光り輝いていた。
「おお。セラネ」
手を広げる。
セラネはその胸に飛び込んだ。
眼には涙を浮かんでいた。
「ご無事で何よりです!」
声を弾ませる。
騎士団では決して見せない華やいだ表情に、ヴォルフは本当にセラネかと疑った。
「ははは……。そう甘えるでない、セラネ。人前だぞ」
セラネはくるりと後ろを向く。
どうやらヴォルフの存在に今気づいたらしい。
軽く手を振ってやると、セラネの顔がみるみる赤くなっていく。
慌ててマノルフから離れると、頭を下げた。
「も、申し訳ありません。ヴォルフ様」
「べ、別に気にする必要はないよ」
少々戸惑いつつ返答する。
なにげに初めてセラネに名前を呼ばれたからだ。
何故か心がざわついた。
その感情を隠すように、ヴォルフは話題を変える。
「2人はお知り合いですか?」
「セラネは敬虔なラムニラ教の信者でして。まあ、それ以外にも縁があって、こうして親しくしております。……そうですか。今は、ヴォルフ殿のところに厄介になっているのですね。役に立っていますか、セラネは?」
「女性とは思えないほど、勇敢です。男達が肝を冷やしてますよ」
これは本当だ。
相変わらず、闘志むき出しというわけではなかったが、着実に戦歴を増やし、勝ち星を拾っている。資料を見てみないことには、はっきりしないが、下の上といったところだろう。
新人としてはまずまずの成績だ。
「それはいけない。セラネの婚期が遅れてしまう」
「司祭様……。私の身体はすでに聖天様のものです」
「その心意気は良いのですが、実際家族を持つことは良いことですよ」
司祭らしく信者を諭す。
まるで親子のようだった。
良い雰囲気の2人を邪魔したくないと思ったヴォルフは、マノルフに断りを入れて、自分は退散する。
ふと振り返ると、マノルフとセラネが廊下に響くほどの声で談笑していた。
「(俺の取り越し苦労か……)」
生娘のように笑う部下を見て思う。
ヴォルフが考えている以上に、マノルフはよく出来た人物なのかもしれない。
温かい気持ちを抱いたままヴォルフは正門をくぐる。
客将を待っていたウィラスは腰を上げた。
王との謁見の話の後、マノルフのことについて話す。
途端、ウィラスの顔が曇った。
「そうか。あの司祭……帰ってきたのか?」
「何かあるのか。マノルフ殿が……」
ウィラスの表情は暗い。
むしろ怒っているようにすら見える。
何度か逡巡した後、こう呟いた。
「ラムニラ教大司祭マノルフ・リュンクベリ……」
大将が要注意人物として上げた男だ……。
◇◇◇◇◇
ヴォルフが正門の方へ消えていく。
廊下にマノルフとセラネだけ取り残される。
普段なら忙しそうに廊下を歩く下臣がいるはずなのに、この時2人以外誰もいなかった。
神の悪戯か。何か作為的な状況を感じさせる。
つとセラネはマノルフに振り返る。
その顔から優しさが消滅していた。
マノルフはふっと息を吐く。
大きく振りかぶった。
バチィ……。
鋭い平手打ちがセラネの頬に突き刺さる。
たちまち少女の顔が腫れ始めた。
「今のお前と私は赤の他人なはずだ。何故、接触してきた」
「す、すいません。……でも、私はマノルフ様が――」
もう1度マノルフは腕を振り上げた。
今度は逆側を殴る。
情け容赦のない一撃に、唇が切れた。
鮮血が糸のように垂れる。
だが、マノルフは謝るどころか、セラネの黒髪を掴み、声を荒げた。
「お前は、聖天の教えに逆らうのか」
「も……申し訳ありません」
セラネは声を振り絞る。
その目には涙が浮かんでいた。
すると、物音が聞こえる。
「誰ですか?」
1人の下女が観念して、物陰から出てきた。
なにも見ていない、と怯えた表情で首を振っている。
首にはラムニラ教の象徴がぶら下がっていた。
信者なのだろう。
普段穏やかで優しいラムニラ教の大司祭。
それが見たこともない顔で、女を折檻していた。
ショックであったことは間違いない。
「セラネ……。わかっていますね」
「まさか殺――――」
「違います」
マノルフは優しげな顔を浮かべる。
その表情によって、何万人もの信者が救われてきた。
まさに神の化身――その尊顔だ。
しかし、セラネは歯を鳴らす。
その神に近い顔こそ、もっともマノルフが恐ろしいことを考えている時なのだ。
「聖天の御許へと送るのです」
すると、セラネはふわりと立ち上がった。
司祭との再会に輝いていた目はたちまち輝度を失っていく。
手甲の下に仕込んでいた短刀を逆手に握った。
ゆらりと動く。
「k――――」
女の悲鳴が王宮の廊下で消失した。
◇◇◇◇◇
自主練も終わり、水場で汗を拭おうとやってきたエルナンスは足を止めた。
水場の縁に手を掛け、セラネが項垂れている。
頭から水を被ったのか、濡れ鼠になっていた。
「セラネさん。これ良かったら」
エルナンスはそっと布を差し出す。
そこでようやくセラネは、人の気配に気づいた。
バッとその場から立ち退き、距離を取る。
いつものセラネの動きではない。
何か異常な修練の元で培った反射行動のように見えた。
「ご、ごめん……。脅かすつもりはなかったんだ。だけど、そのままじゃ風邪を引くって――――セラネ、その頬をどうしたの?」
言い訳を並べながら、エルナンスは尋ねる。
セラネは慌てた様子で、腫れた頬を隠した。
「何かあったの? 僕で良ければ、相談に乗るけど……」
「あ…………。う…………」
何か言おうとした瞬間、セラネは走り去っていった。
一瞬、香った強烈な匂いにエルナンスは眉を潜める。
血の臭いがした。
確定申告ようやく出せた……(虫の息)








