第293話 剣狼の咆哮
ヴォルフの渾身の【無業】が唸りを上げる。
それは完璧なタイミングだった。
ヴォルフはこの技をこれまでの戦いで使っていない。
その技の発動を目の前で目撃しない限り、ハシリーの魔眼は発動しない以上、【無業】に【無業】を合わすこともできなかった。
つまり、それは千載一遇の勝機であったはずだった。
「どういうことですか?」
眉を顰めたのは、そのハシリーだった。
上段に剣を構えたまま、自分の懐に潜り込んだヴォルフを見下げている。同時に見えたのは、ハシリーの首元から胸にかけて、止まったヴォルフの刀だった。
獰猛な光を湛えた刃は、ハシリーを斬る寸前で止まっている。
その柄を握った男は、敵を前にして苦しそうな表情を浮かべていた。
「斬れない……!」
ヴォルフは喉の奥まで出かかっていた言葉を、そのまま吐き出した。
「形はどうあれ、君が今この世界の厄災の中心人物であれ……。ハシリー・ウォートは大事な娘の部下であり、保護者であり、そして友達だ」
「パパ……」
「それにだ。……俺は君がこんな大それたことをする悪人にどうしても見えない。何か理由をあるとしか思えないのだ」
そう言ってから、ついにヴォルフは刃を引いた。
切先を下ろし、力を抜き、自然体で目の前の女性を見つめる。
「ハシリー、本当の訳を聞かせてくれ。俺やレミニアに言ってないことが、君にはあるんじゃないのか?」
「本当の訳……ですか?」
「ハシリー、わたしも同じ気持ちよ。パパの言うとおり、あなたに何か考えがあるなら教えて!」
レミニア、そしてヴォルフがハシリーに訴えかける。
そこにミケも加わり、1本の剣を握った女性に詰め寄った。
その顔ぶれを見渡した後、ハシリーはようやく刃を下ろす。
……かに見えた。
ふっとハシリーが消える。
次の瞬間、ハシリーの姿はレミニアの前にあった。
下ろすかに見えた剣が再びヴォルフの娘に向かう。
まるでハシリーの憎悪がこもったような一撃に、ただただレミニアは息を呑むだけだった。
「レミニア!!」
『嬢ちゃん!!』
一拍遅れてヴォルフとミケが割って入る。
1人と1匹の強烈な防御陣はすぐに形成された。
だが、ハシリーの魔眼が光る。
【無業】
それは井戸の底から響くような声だった。
事実、暗闇から這い上がるようにハシリーの剣が伸びてくる。最速にして、最短の剣技が行手を阻むヴォルフとミケを切り裂いた。
「ぐわっ!!」
『ぎゃわ!!』
細腕が握った剣の一撃が、ヴォルフとミケを吹き飛ばす。
血飛沫が舞い、見ていたレミニアの顔にかかった。
「パパ!! 猫ちゃ――――」
突如レミニアの意識が断たれる。
赤い髪が真っ直ぐ地面に向かうかと思われたが、それを受け止めたのはハシリーだった。
レミニアを抱きかかえながら、振り返る。
すでに1人の男が立ち上がっていた。
珍しく目尻が吊り上がり、憤怒の表情を浮かべている。
その右脇腹からは大量の血が流れていた。
「初めて見ました。そんな顔できるんですね、ヴォルフさん」
「ハシリー……。娘を……レミニアをどうするつもりだ?」
「ぼくの予想ではレミニアが必要なんです。すでに魔力は抜け殻ですが、それでも天上族と人間のハーフ。器としては十分に価値がある」
「器?」
「そんなことよりも、いいんですか?」
そう言って、ハシリーは横のミケを指差す。
ヴォルフと同様に大怪我を負っていた。
むしろヴォルフよりも傷が深いように見える。
普段はやかましく、戦場となれば勇ましい【雷王】がピクリとも動かない。
「あなたの傷はルネットがかけた強化魔法で回復するでしょう。でも、そこの幻獣は違います。このままでは――――」
死んでしまいますよ……。
ヴォルフは息を呑んだ。
よく見ると息も浅い。弱々しく、風前の灯火を想起させる。
ミケはヴォルフにとって、かけがえのない相棒だ。
このまま放っておくわけにはいかない。
だが、ミケの治療を優先すれば、レミニアが……。
2つに1つ。
これまでどんな危機もヴォルフは乗り越えてきた。
それができたのは、レミニア、そしてミケのおかげだ。
その1人と1匹が今はいない。
いや、もうヴォルフに味方するものはいないのかもしれない。
「ハシリー、約束してくれ」
「何をです?」
「娘を……娘に危害を与えないでくれ」
「…………そんなの約束できるわけないじゃないですか」
ハシリーはレミニアを担いだまま、ヴォルフに背を向ける。
しかし、ヴォルフは追わない。
声もかけようとしない。ただハシリーに担がれたレミニアの顔を名残惜しそうに見るだけだ。
何も言わずとも、ヴォルフが誰を選択したかは明らかだった。
「ぼくは今からリヴァラスに向かいます」
「え? リヴァラス?」
「そこで最後の仕上げをするつもりです。追っても無駄ですよ。そのころには……」
すべてが終わっているはずですから……。
ハシリーは地を蹴る。
そのままゆっくりと空へと浮き上がると、東に――聖樹リヴァラスのある森へと加速した。
ヴォルフの視界から、ハシリーそして娘レミニアの姿がいなくなる。
完敗だった。
娘を守れなかったのだ。
ついにヴォルフはレミニアとの約束を違えてしまった。
ルーハスに負けた時とは違う。
負けても、自分の成長を実感することができたからだ。
でも、今は違う。
ただただ悔しさだけが込み上げてきた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
ヴォルフは吠える。
手負の狼のように……。








