第290話 そして戦争は始まった
明日で発売1週間になります。
編集さんからは4巻よりもさらに好調とのご報告を受けております。
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ヴォルフの胸の中にレミニアがいた。
息はある。直後紫色の瞳が開かれると、目があった。いつもなら父親と視線を交わすだけで笑顔になる娘だが、今日は違う。
どこか請うような目で、怯えていた。
大丈夫、とヴォルフは娘の小さな背中を叩く。
やがて同時に起き上がったミッドレス親子は、周りに見渡した。
すぐにポンと煤混じりの砂の中から現れたのは、ミケである。
綺麗な銀毛は真っ黒になり、ケホケホと咳をしていた。
こちらもヴォルフたち同様に無事だ。
さらに視線を遠くに移した時、ミッドレス親子は息を呑む。
レクセニル王国王都の周辺は、美しい平原が広がっている。麦や豆など穀類を育てるのに適していて、秋には一面に黄金色に染まる。
しかし、そこにあったのは植物どころか生命の息吹すら感じられない光景だった。
植物は根まで燃え尽き、岩は溶け、大地は黒く炭化している。ところどころひび割れており、マグマの胎動を感じさせるように紅々と光っていた。
焼け野原……。
それとて表現として生ぬるい。
赤黒く冷えたレクセニル王国平原を見て、ヴォルフたちは息を呑む。
その縁に立っていたのは、ハシリーだ。
白い髪は黒の大地にあって、妙に映える。
(今思えば、あの白い髪になる前は一体何色だったのだろう)
元から白なのか、それとも黒、赤、あるいは目と同じ水色……。
色が変わったのなら、彼女の壮絶な人生を窺える。
でも、それはもう今さら考えてもどうしようもないことだ。
振り返ってみれば、ヴォルフとハシリーは接点があまりない。
レミニアの秘書という以外に、存在感を感じたことがこれまでなかった。
だからこそ、彼女の話に耳を傾け聞いた。
もしかしたら、この絶望をひっくり返せるかもしれないからだ。
でも、その絶望は自分以上だった。
そして、その歪んだ考えは想像以上だった。
あの髪の色が苦労の証というなら、さもありなんと思う。
(果たして俺はハシリーを斬っていいのだろうか?)
ヴォルフの中に迷いが生まれていた。
(ハシリーがやろうとしていることは間違っている。でも、その人生は否定できないし、その絶望にも同情の余地がある。彼女を歪めてしまったのは、周りの人間たちだ。それでも俺は彼女を斬るべきなのだろうか)
ハシリーをここで斬れば、戦いは終わるだろう。でも何か違う。
ついにヴォルフは立ち上がる。
ハシリーと視線を交わした【剣狼】は言った。
「俺は君を救うべきなんだ」
瞬間、ヴォルフの側頭部に蹴りを入れられる。
瞬足の蹴りに、ヴォルフは受け身も入れられない。
無様に土を舐めるしかなかった。
「パパ!!」
レミニアの悲鳴が響く中、蹴りの残心を解いたハシリーは再びミッドレス親子を睨む。
「救う? これだから英雄は……。何もわかっていない」
「な、なにが……」
ヴォルフは立ち上がった。
その眉間から鮮血が流れている。
「ぼくがいつ救ってくれなんていいました? そもそもぼくの話を聞いていましたか? ぼくはあなたのような英雄が嫌いだ」
「だが、俺は君と戦いたくはない」
「それはあなたの一個人の感想ですよね。……いや、ちょうどいい。戦いたくないというなら、そこに何もしないで立っていてください。ぼくがこれからやること、見ていてくれたらいい」
「それはできない」
「何故ですか?」
「俺は世界を救いたい。そして、その中には君も含まれているからだ」
斬って救える命ならそうする。
でも斬ることが救いでないなら、抜いた牙を下げる。
ハシリーを救いたいというヴォルフの気持ちに嘘偽りなどなかった。
「世界を救うために、この世を否定するぼくを救いたい……ですか。初めて会った時、素朴で無欲な人間かと思いましたが、意外と強欲なんですね。そういえば、ムラド陛下にも色々とお願いしてましたっけ」
「難しいことはわかっているさ。それでも、君は娘の元秘書だ。たとえ今まで人の皮を被っていた獣だとしても、娘を悲しませたくない」
「結局娘のためですか? まったくあなたたち親子は本当に虫酸が走る。で――――どうするんですか? ここで一生、説教でもするつもりですか?」
「それで君が納得するなら、そうするさ。でも、君がそれでも俺と戦うことを望むなら」
ヴォルフは再び構える。
「戦うさ。ハシリー、君を救うために」
「パパ……!」
父を見て、レミニアは目を輝かせる。
娘としても2人がこれ以上争うところは見たくない。さりとて、大好きな父が傷付けられるのはもう見たくないし、ハシリーが傷付けられるのも納得がいない。
短い間とはいえ、苦楽をともにしてきた秘書だ。
ただ命を奪う決着だけはしてほしくなかった。
「その言葉……。随分矛盾してるって思いませんか?」
「俺は娘と違って、頭がよくないんだ。口も上手い方じゃない。……でも、1つ誇れることがあるとすれば。誰よりも剣を振ってきた自負だけはある」
「色んなお題目を並び立てたところで、結局戦うんじゃないですか……。それに――――」
呑気にぼくと戦ってる暇なんてないと思いますよ。
「どういうことだ?」
「さっきの傷……」
「え?」
ハシリーが示したのは、先ほど蹴りを入れた側頭部だ。どうやらそれに近いこめかみ部分が切れたらしく、今も鮮血が流れ続けている。だが、ほぼほぼかすり傷に近い。
本来であれば、この程度の傷など【時限回復】で治されるはず。今のヴォルフにかけられているのは、ルネットの強化魔法ではあるが、当然【時限回復】も付与されている。
(何故……?)
「簡単なことですよ」
ドォオオオオオオンンンンン!!
遠くで砲声あるいは、大規模な魔法が使用されたような音が聞こえた。
ミッドレス親子とミケは周りを窺う。
人の気配はない。
しかし、今まで2人と1匹が気づかなかったことにようやく気づいた。
ハシリーが焼き払ったレクセニル平原の奥。
その地平の向こうに、煙が見えた。
その下では炎が揺らいでいるようにも見える。
さらには爆発音のようなものが聞こえた。
「な、んだ?」
「ちょっと……。何が起こってるの?」
「わかりませんか?」
戦争ですよ……。
「「え??」」
ハシリーの言葉に、ミッドレス親子は同時に振り返った。
ハシリーは冷酷な視線を地平の彼方で揺らぐ赤い光に向けて、続けた。
「魔獣の脅威は薄れ、レクセニル王国は死に体……。何よりガーファリア陛下がレクセニル王国に侵攻した。それが呼び水になったんでしょう」
魔獣が現れるまで、ストラバールのどこでも領土を巡って戦っていた。
それまで世界は一致団結して、魔獣と戦ってきた。だが、それは共通の敵がいるからに他ならない。
領土を広げ、軍事的な強さを見せつけ、己の国民の優位性を示す。その君主の野心が消えることはない。
そもそも新たな敵を欲した国は、魔獣によって経済的に困窮する国々は、他国を乗っ取り、人を乗っ取り、資源を乗っ取ることにずっと飢えていたのだ。
それがバロシュトラス魔法帝国の侵攻によって、連鎖的に巻き起こった。
今や危急の時にあるレクセニル王国は、格好の的になったというわけだ。
「あの中にもきっと英雄になろうと、必死に武勲を立てようとしている兵士がいるんでしょうね。……英雄を求めて、泣き叫ぶ人がいるんでしょう。何者かになるために期待し、何者かに救いを求めるために期待をする。こんなことの繰り返しだ。だから、人間はおろかなんだ。だから、ぼくはこの世界に期待しないし、英雄など望まない。ぼくの望みはただ1つだ……」
みんな、死ねばいい……。








