第253話 大勇者の望み
荒く吹きすさぶ風に、少女の髪は炎のように揺れていた。
足をやや開き、埃で汚れた手はだらんと下がっている。
細い肩幅と、背丈は年相応というよりはやや低め。
瞳を開いたまま、固まっている。
そのアメジストのような双眸に映っていたのは、ただひたすら絶望的な景色だった。
空に立ちこめる真っ黒な暗雲。
その下にあるのは、ただ瓦礫の山とまるで人魂のような炎だけであった。
こおっと風が吹きすさぶ度に、炎が燃え上がり、同時に少女の髪も翻る。
今にも折れそうになる膝をグッと堪えて、彼女は言った。
「嘘でしょ……」
彼女の名前はレミニア・ミッドレスと言った。
稀代の【大勇者】は周囲を見渡しながら、過去の風景と今を重ねる。
視線の先には、賑やかな街があった。
荘厳な王宮があった。
天を衝くような尖塔が立っていた。
そして、職場があった。
しかし彼女が見える限りの範囲には、何もない。
記憶と合致するものはなく、ひたすら荒野だけが広がっていた。
か細い糸で引っ張られるようレミニアは歩き出す。
自分が【疑似・賢者の石】の中に入って、気を失っていた時の状況を推理しようとするが、頭がうまく働かない。
赴任して1年。
ニカラス村の15年と比べれば、取るに足らない。
それでも、ここではたくさんの人と出会った。
ムラド王……。
ツェヘス……。
ラーム……。
アンリ……。
名前が出てくる者だけではない。
自分が面接して選んだ職場の同僚たち。
好きな玉蜀黍の素揚げをおまけしてくれる屋台の店主。
そして何より、まるで母親のように自分の面倒を見てくれた秘書……。
「ハシリー……! ハシリー、どこにいるの!!」
レミニアは声を荒らげて、秘書の姿を探す。
まるで迷子になった子どものようであった。
声をかけても返事はない。
本当に人がいるかどうかもあやしい。
いや、いるかどうかという問題ではない。
生きているかどうかもわからないのだ。
「魔力が濃い……」
レミニアは反射的に鼻を腕で押さえた。
よほど誰かが大暴れしたのだろう。魔力の残滓が鼻に衝くほど残っている。
レミニアが自分と同じSSランクの人間と戦ったとしてもこうはならない。
もはや神と神の戦いだ。
「まさか天上族が……」
そう気付いた時、レミニアはあることを思い出す。
振り返って、目で捜したがやはりいない。
アクシャル――あの天上族の姿がなかった。
「一体、誰がこんなことを……」
考えられる可能性は、いくつかある。
その中でも最有力なのが、ガダルフという賢者だろう。
あの男の異様さ、執念深さは、ストラバールにいる人間を超えている。
あまり断言したくないが、エミルリア側の種族、あるいは天上族ではないかとレミニアは睨んでいた。
そうでもなければ、レミニアや自分の母以上のペースで【賢者の石】に対抗する力を生み出すものはいまい。
もう1つはストラバールにいる悪意……。
これはレミニアが元々危惧していた存在である。
ストラバールは魔獣が現れるまで人と人の戦争が絶え間なかったと聞く。
それを再開したい何者かの策略……。
多くの英雄を抱えるレクセニル王国が、最初に狙われたのなら合点がいく。
他にも様々な要因が浮かんでは消えていく。
しかし、最大の問題は……。
「今のわたしに、その悪意を止める力はないということね……」
【疑似・賢者の石】のおかげで、レミニアの魔力は芯まで吸い上げられている。
本来魔力を回復させるにも、身体の中の魔力が使われるのだが、その魔力すらない状態だ。普通であれば、その魔力が吸収される前に身体の中にある弁が閉じられるのだが、【疑似・賢者の石】がすべて吸い取ってしまったらしい。
このまま一生、魔力が戻らない可能性すらあった。
「魔力がないことが、こんなに恐ろしいことなんてね」
子どもの頃から賢かったレミニアは、自分が他の子どもと違うことをすぐに理解した。
いや、他の子どもどころではない。
他の人間や、父親とすら違うことに彼女は気付いていた。
密かに、父親にすらわからないように思い悩んだことがある。
人と違うことが、才能と大量の魔力を保有している自分を恨んだことすらあった。
そこで興味を持ったのは、母親の遺稿だった。
読んですぐに謎は解けた。
自分はストラバールの外の世界からやってきた種族の子どもなのだと……。
人から見れば、それは希有なことなのだろう。
でも、レミニアにとってはあまり歓迎しがたいことだった。
レミニアは普通で良かった。
普通に子どものように遊び……。
普通に大人に甘え……。
普通に村で畑仕事をし……。
普通にパパと一緒に暮らす。
そんな子どもで良かったのだ。
だから、レミニアは15歳になるまで何もしなかった。
王宮で勤めるようになっても、彼女は英雄的な行動を嫌った。
1度力を振るえば、きっと世界を救う本物の【大勇者】になっていたにも関わらずだ。
【大勇者】だ、天才だと持ち上げられても、レミニアはさして嬉しくはなかった。
まるで自分が普通じゃないと言われてるみたいでいやだったからだ。
時々、レミニアはそれらの言葉を自虐的に使う。
そんな少女の願いはただ2つ。
普通のお嫁さんになりたい。
普通の女の子になりたい。
ただそれだけだった。
「わたしって結構我が侭よね。昔はこの力が忌まわしいって思ってたのに……」
魔力がなくなって、こんなに寂しいと思ったのは初めてだった。
少女は立ち止まる。
そこにいたのは、魔獣だ。
あの異界から来た魔獣ではない。
「ベイウルフ……」
大きな狼のような体躯をしているC級の魔物。
そしてレミニアには因縁浅からぬ魔物でもあった。
ベイウルフは普段森の深い場所に住んでいる魔物である。
だが、今日に限って辺りをうろついているのは、辺りに漂う姿濃い魔力のせいだろう。
ベイウルフは立っていたレミニアに気付く。
見える限りでは、3体しかいない。
長い舌から涎を垂らし、小さな少女との距離を詰めてくる。
「舐めないでよね」
レミニアは護身用と思って持ってきていたショートソードを引き抜く。
迫ってきたベイウルフに向かって、その刃の先を振り下ろした。
あっという間に、ベイウルフを倒してしまう。
レミニアは魔法だけではない。体術や剣術においても、天才的だ。
あのツェヘスをやっつけたこともある。
Cランク程度の魔物なら造作も無い。
魔力がなくても戦える。
絶望の色に染まっていたレミニアの心の中に、静かに火が点いた。
その時、声が聞こえた。
「助けて……」
と――――。








