第217話 そして伝説を斬られた……
ゆらっ……。
ヴォルフは動く。
軽やかな音を立てて流れる小川のように。
霧散した水が、空気の中に溶け込むかのように……。
「あっ……」
反応したのは、イーニャだった。
「また……。あの動きだ」
それはジフを倒した時に、一瞬見せたヴォルフの動き。
目が追いつかないほど早いわけでない。
魔法を使って消えるわけでもない。
その印象はあくまで溶ける。
周囲のものと、まるで同化するように身体が溶けて消え、そして――
ギィン!!
刹那にして、相手との距離を押しつぶす。
しかし、その攻撃すら今、ガズに止められる。
「今のも止めるのかよ!!」
イーニャは叫んだ。
エラルダもまた同様の思いだった
彼女が知るガズは、ほとんどあの玉座といえる場所に座っていた。
こんなにも激しく動いている彼を見るのは、これが初めてだ。
そのガズが、ジフを屠った冒険者と互角以上の戦いをしている。
よく知るからこそ信じるのが難しい。
そしてただただ固唾を呑み、祈るしかなかった。
側で見ていたミケも驚いていた。
まさかガズがこれほどの実力――いや、レイル・ブルーホルドがこれほどの実力者とは思ってもみなかった。
いくら【勇者】と言っても、所詮は200年前の伝説の存在。
あれから多くの技術や魔法が生まれ、魔獣のために国は様々な強化策を打ってきた。ロカロのようなベテランが、たくさんの優秀な冒険者を育て、生み出してきた例もある。
単純に技術というものは、時間の経過によって研磨されるものだ。
だが、今ご主人と戦っている相手は、そんな簡単な存在ではない。
確かに【勇者】
やはりレイル・ブルーホルド。
そして生きていた伝説……
あの【不死の中の不死】の心を射止めた男なのだ。
一筋縄ではいかなかった。
『ご主人、頑張れ!!』
幻獣最強と謳われる【雷王】ですら踏み込めない。
SSランク――――いや、SSSランクの領域かと思わせる激しい戦闘。
あの【大勇者】ですら、この戦いに立ち入れるかどうかというところだろう。
もはやミケがやることはただ1つだ。
声が枯れてもいい。
ただ精一杯、主人に声援を送るのみだった。
『ご主人、頑張れ!!!!』
相棒の声援を意識の端で聞きながら、ヴォルフは集中を切らさず、ガズと向き合っていた。
先ほどの一刀は防がれた。
だが、それは詮のないことと、ヴォルフは切り替えていた。
「(まだだ――――)」
動きだしは悪くない。
だが、刀を振り下ろす際、雑になった。
つい力を入れてしまったのだ。
あの動きに必要なのは、あくまで脱力。
しかし、すべてを緩めるわけではない。
ただ無力のままで切れる相手ではないからだ。
目の前にいるのは、大根でも人参でもない。
人であり、元天上族であり、そしてかつて【勇者】と呼ばれた男なのだから。
「(もっと……。もっとだ……。溶け込め……)」
空気に……。戦場に……。そして、この世界に……。
ゆらっ……。
再びヴォルフは溶けた。
「むぅ!!」
レイルは思わず唸る。
続いて、またあの凄まじい剣戟の音が鳴り響いた。
これも止める。
だが、水となったヴォルフは止まらない。
1度防がれれば、修正し、集中する。
それをひたすら繰り返す。
次第に、レイルは押し込まれ始める。
そもそも水になってから、レイルは1度たりとも反撃できていない。
「(もっとだ! もっと! スピードを意識するな。余計な考えは力みを生む)」
ヴォルフが考えるのは、水のイメージ。
そしてそこからたぐり寄せる。
あの黄金の一瞬を……。
「むぅうううう!!」
最初に見たのは、レイルの方であった。
気が付けば、自分の周囲が黄金色に輝いていた。
否――ただ輝いていたわけではない。
まるで穏やかな海のように黄金がたゆたっていた。
レイルは何か息苦しさのようなものを感じていた。
手が思うように動かない。
退こうにも、金縛りにあったかのように、己を制御できなかった。
「まずい……」
ぞくりと震え上がる。
かつて天上族として、このエミルリアに君臨し、ストラバールでは伝説となり、今またラーナール教団の教祖として君臨する彼が、ついに恐怖を覚えた。
「何がまずかった……」
反省したところで仕方がない。
レイルがミスをしたのではない。
答えは至ってシンプルだ。
今目の前にいる相手が成長した――ただそれだけなのだ。
そしてヴォルフもまた感じていた。
今、また自分があの感覚に至ろうとしているのを。
あの感覚を掴もうとしているのを……。
それはもはやあの【大勇者】の強化ですら、達成できない感覚。
きっとそれは、おそらく――ヴォルフが初めて手にした具体的な成果なのかもしれない。
すでにヴォルフの前に黄金色の道――いや、世界が広がっていた。
輝かしき伝説の世界……。
あの【大勇者】ですら到達なしえなかった。
SSSランクの世界――――。
それはヴォルフの努力の結晶……。
ヴォルフが諦めなかった歴史……。
さらに娘との絆が生んだ未来であった。
そしてヴォルフは初めて技名を口にする。
実に、彼らしい名前であった。
【我が娘】!!
瞬間、勝負は決まったといっていい。
ヴォルフは黄金色の空間に溶ける。
次瞬、その攻撃の初動を捉えたレイルは、やはり伝説であろう。
防御姿勢を作るまでは良かった。
だが、ヴォルフの斬撃がその前に、レイルを袈裟に切り捨てていた。
伝説の身体を深々と抉る。
瞬間、ヴォルフ達と同じ赤い鮮血が舞った。
「ぐあああああああああああああ!!」
勇者の悲鳴が響く。
歓声はない。
冒険者の中で伝説と謳われる【勇者】が斬られたのだ。
そこに何かを思わぬ人間などない。
事実、ヴォルフも勝ち誇るわけでもなかった。
ただ表情に空しさを押し出し、かつての英雄を見つめる。
しかし、直後レイルから聞こえてきたのは、広間を貫くような大笑であった。
「くくく……。あははははははははははは……」
「あんたの負けだ、レイル」
「ふふふ……。そのようだな。だが、それでいい。よくやった、ヴォルフ・ミッドレス。よくぞ私を斬るに至った。誇っていい」
貴様は、SSSランクに至った……。
レイルから聞こえてきたのは、対峙した相手への称賛だった。
だが、ヴォルフの表情は変わらない。
もっと他の場面で、その台詞を聞きたかった。
そう思わずにはいられない。
虫の息のレイルは、今だ地面に横臥することはなかった。
ヒューヒューと息をしながら、なおも喋ろうとする。
「しかし、おめでたいヤツだな、ヴォルフ・ミッドレスよ。まさか娘の名前を、その技に付けるとは……」
「なっ――――」
ヴォルフは思わず顔を赤らめる。
まさかそこに言及されるとは思わなかった。
だが、ヴォルフにとって文字通り、レミニアは目に入れても可愛い愛娘だ。
そこに最強の技名を付けることに、躊躇はなかった。
しかし、レイルの言葉は終わらない。
低く笑うと、こう言った。
「呑気な父親だ……」
その娘に騙されているとも知らずに……。
水の呼吸『壱の型――――ではありません!
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