第176話 誰よりも信じていた
イーニャの雰囲気が変わる。
先ほどまでイーニャは圧倒的な膂力を見せ、観客を魅了した。
しかし、ヴォルフは気付いていた。
弟子がまだ本気でないことを。
そして、今まさに五英傑にして【破壊王】の真の力が解放されようとしていた。
「おいおい……」
「今から本気ってことですか?」
リファラス兄妹は息を呑む。
会場にも、その空気が伝わった。
石舞台に向かって、大量に投下されていた歓声が止む。
息を呑み、両者の一挙手一投足を視界に収めた。
ヴォルフもまた構えを変える。
新刀【カグヅチ】を鞘に収めた。
その姿を見て、ワヒトの女王ヒナミは笑みを浮かべる。
「ヴォルフもようやく本気になりおったわ」
「ヴォルフ殿……」
エミリは祈るように見つめる。
決闘という名目で始まったが、誰もが楽観視していた。
この決闘には“死”がない、と……。
決着が着く寸前、審判であるツェヘスが止め、最後にはお互いの健闘を讃えて、笑顔で握手を交わす。
それが観衆の思い浮かぶ戦いの結末である。
まして、ヴォルフとイーニャが師弟関係であることは、すでに周知されている。
師弟同士の殺し合いなどあるわけがない。
そう思って見ていたものが、ほとんどであった。
しかし、今2人の間にある雰囲気はまるで異なる。
目をこらせば、両者の殺気が可視できるほど緊迫し、注意深く鼻を利かせれば、死の匂いが漂ってくるような空気を感じた。
それでも、誰も止めることはない。
見たいのだ。
この真剣勝負の行方を……。
ひゅっ……。
先に動いたのは、イーニャであった。
ぐるりと鎖を振り回す。
それに呼応して、鎖の先についた鉄塊が回転を始めた。
重い音を立てて、空を切り裂く。
空気を掻きむしるような音を聞く度に、観衆の心臓が凍り付いていった。
一方、ヴォルフは構えに変化はない。
足の幅を前後に広げ、極端な前傾姿勢を取っている。
それは1匹の狼を思わせた。
そこから感じる“ヤバさ”。
イーニャの口元に笑みが灯る。
「行くぜ! 師匠!!」
鉄塊が解き放たれた。
竜の顎門のようにヴォルフに襲いかかる。
だが、ヴォルフが逃げることはない。
そのまま鉄塊に走って行く。
「げぇ!!」
「ヴォルフ様!!」
ウィラスとアンリが、ヴォルフの無謀な行動に目を見張る。
「大丈夫よ」
落ち着いた声を上げたのは、レミニアだった。
すると、ヴォルフは柄に手をかける。
それを見て、ムラド王は思わず立ち上がった。
「真っ向勝負か!」
「はは……。相変わらず心の強いお人やわ」
クロエも感心する。
放たれた鉄塊は、イーニャの渾身の一撃に間違いない。
当たれば、バラバラになるだろう。
如何に、ヴォルフが【大勇者】の加護にあるとはいえだ。
だが、ヴォルフが怯むことはない。
今までこうしてきた。
死地に対して、迷わず突撃する。
それが、ヴォルフの信条だった。
いよいよ新刀【カグヅチ】が抜き放たれる。
午後の光を反射し、閃いた。
ぎぃぃいぃぃいいいいぃいいぃいい!!
甲高い音が耳をつんざく。
イーニャの鉄塊が竜の顎門であるならば、ヴォルフが放った刃は、龍の牙であろう。
竜対龍。
2つの力が、まさしくその咆吼のように睦み合う。
「【居合い】か……。お主が教授した技だな」
「はい。すでにヴォルフ様は使いこなしているようです」
「しかし、さて……。あの圧倒的な膂力に対応できるかの」
ヒナミは目を細める。
その直後だった。
「ぬっ!!」
ヴォルフは吹き飛ばされる。
中空を舞い、着地する。
そこからさらに後ろへと吹き飛ばされた。
「なっ!」
「ヴォルフ様が打ち負けた……」
リファラス兄妹が息を呑む。
一方、ヒナミは冷静に分析した。
「さすがは五英傑か……。いくらパワーアップしたヴォルフとて、あの膂力を打ち破ることはできんかったようだな。思った以上に厄介だぞ、【破壊王】は」
「それでも、拙者がヴォルフ殿を信じるでござるよ」
「お主はそういうじゃろうな」
ヒナミは「おー、あついあつい」とばかりに肩を竦めた。
石舞台上では、イーニャの攻撃が続いている。
一旦後退したヴォルフとの距離を詰めた。
走りながら、魔法で鎖を操作する。
再び振り回すと、まだ体勢不十分のヴォルフに襲いかかった。
さすがのヴォルフも回避を余儀なくされる。
鉄塊が石舞台にめり込んだ。
だが、イーニャの攻撃はそれでも終わらない。
魔法で操作すると、鎖を巻き取る。
己の身体を弾丸のように移動させると、一気にヴォルフとの距離を潰した。
「なっ!」
これにはヴォルフも舌を巻いた。
飛んできたのは、イーニャの蹴りだ。
【カグヅチ】を横向きにし、慌てて受けの体勢を取る。
十分な遠心力と、【破壊王】の膂力が加算された蹴りは、すでにSSランクになりつつあるヴォルフをよろけさせる。
ヴォルフの体勢が崩れるのを見て、イーニャは鎖を引く。
「おらぁ!!」
気合い一閃。
すると、ヴォルフの横合いから石舞台を抉りながら進む鉄塊が現れた。
「(まずい!!)」
刀で受けきる時間はない。
下手に受ければ、折角の新刀が曲がってしまう。
それだけは避けたかった。
ヴォルフは肘を上げる。
なるべく頭と脇を守るようにして、身体で受ける体勢を整えた。
その瞬間、衝撃はやってくる。
ゴスッ!!
「ぐっ!!」
ヴォルフは悲鳴を上げた。
一瞬、意識が飛びそうになるのをなんとか堪える。
衝撃に逆らわず、同じ方向に飛んでも、すべて相殺することはできない。
幸い、骨は無事。
だが、レミニアの強化魔法がなければ……といったところだった。
ヴォルフは顔を上げる。
初めてだ。
ここまで苦戦するとは思っていなかった。
「(ルーハスやクロエ、ヒナミが弱かったとは思えない。けど――)」
認めるしかない。
今、ヴォルフの目の前にいるのは、今まで出会ったどんな強敵よりも強かった。
その実力に驚いていたのは、ヴォルフだけではない。
「へぇ……。びっくりね。膂力だけで、ここまで人が極まるなんて。もしかしたら、わたしと同じSSランクかも……」
レミニアは己と同等の力を認める。
それでも――――。
「パパは負けない。だって、わたしのパパだから」
決して、娘は父の戦いから目を背けなかった。
そしてヴォルフもまた娘と同じ想いだった。
「(まるで……。レミニアと戦ってるみたいだ。けれどな……)」
決闘だろうと……。
模擬試合だろうと……。
俺は負けるわけにはいかない。
「娘の前で……。そして――――」
弟子の前で……。
「無様な姿を見せるわけにはいかない!!」
ヴォルフは【カグヅチ】を納刀する。
すると、その場ですっくと立ち上がった。
軽く横に足を開き、手は身体の横に、背筋を伸ばし、軽く脱力する。
その姿勢を見た時、目を剥いたのはヒナミだった。
「無の位じゃと……」
それはワヒト王国の剣術において、零の型といわれるものだ。
あらゆる型に精通し、あらゆる攻撃に対応できる。
そういえば、響きは良いだろうが、言ってしまえば自然体であった。
わからぬ者が見れば、戦いを放棄したようにしか見えない。
その動きを見て、観衆はヴォルフが観念したと思っただろう。
しかし、そう思わない者たちは、言葉と共に想念を送る。
「ヴォルフ殿」
「ヴォッさん」
「ヴォルフ様」
「ヴォルフ……」
「パパ……」
ヴォルフに縁あるものたちが祈る。
一方、イーニャは勝負を決めに来ていた。
当然だ。
すでにヴォルフの後ろは場外。
つまり、石舞台の縁にいて、すでに逃げ場などなかった。
「うりゃああああああああああ!!」
その気迫が響く。
膂力と魔力によって、鉄塊が連続射出される。
その姿は八ツ俣首の竜のようであった。
【オロチ】!!
イーニャは己が名付けた業によって、ヴォルフの退路を潰していく。
前後左右、あるいは天と地。
あらゆる方向に射出された竜の首が、ヴォルフに迫った。
それでも、ヴォルフは動かない。
まるで今が戦いの時であることを忘れたかのようだ。
終わりだ……。
そう。
観衆の誰もが思った。
ヴォルフの鼻先が、鉄塊の押し上げた空気によって歪む。
それぐらい近づいた時、ヴォルフのようやく動く。
その初動を、クロエは見逃さない。
「そや。【無業】の本質は、相手との距離……。それが短ければ、短いほど威力を発揮するんや」
【無業】
いよいよ、ヴォルフの【カグヅチ】が解き放たれた。
狼の牙が鉄塊の上を走る。
黄金色に剣閃は、巨大な鉄塊を真っ二つに切り裂いた。
コォン、と小気味のいい音が鳴る。
ヴォルフの横を勢いよく、2つに分かれた鉄塊が飛んでいった。
ワッと歓声が響く。
だが、それはヴォルフに向けられたものではなかった。
その鉄塊の先に現れたイーニャに向けてだ。
「読んでたのかよ!!」
ウィラスは叫ぶ。
ここにいる誰よりもヴォルフのことを信じていたのは、イーニャだった。
自分は確かに強くなった。
五英傑として活躍していた頃よりも遥かに。
今ならルーハスにも勝てるだろう。
それでも、イーニャは信じていた。
窮地に立っても、ヴォルフならくぐり抜けると……。
だから、読むことができた。
鉄塊を切ることを……。
ヴォルフはイーニャの師匠だ。
そして、レミニアと同じく親代わりに育ててもらった。
誰よりもヴォルフのことを知っている自負がある。
だから……。
「師匠は絶対に負けない! けど、あたいはその師匠に勝ってみせる!!」
鉄塊の先に現れたイーニャは、拳を振りかぶる。
彼女は軽々と重たい鉄塊を動かすことができる膂力を持つ。
そんな獣人の一発が、どれほどの重たさを持つか、もはや語るべくもない。
クリーンヒットすれば、打倒必至であろう。
そして、ヴォルフの体勢も十分とはいえない。
全力の【無業】を解き放ったのだ。
刀を逆手に持ち、抜き放ったままの姿勢である。
再び攻撃を繰り出すには、やはり一呼吸が必要だった。
しかし、その姿勢を見て、薄く微笑むものがいる。
ヴォルフの師匠でもあるクロエだ。
「ヴォルフはん、わかっておりますやろ。【無業】の本質を……」
その言葉が通じたのか。
もうイーニャの攻撃が間近に迫った中で、ヴォルフに動きが出る。
抜き放った刀を、重力に委ねるようにすとんと下ろした。
そのまま【カグヅチ】は再び鞘に収まる。
「なるほど」
ヒナミも顎に手を載せた。
「【無業】の本質とは、最短と最速……」
「それは決して、刀を抜き放つ時だけやあらへん」
「刀を納刀する時もまた……」
「最速・最短ちゅうことです」
2人の刀士の声が舞台上に届いたのかどうかわからない。
しかし、この時イーニャは肌身でその恐ろしさを感じていた。
まさにイーニャが殴りかかろうとした時――。
すでにヴォルフは次弾を抜き放つ準備を整えていた。
ヴォルフの動きを読み、最初の大技を出して、隙を誘ったのはイーニャだ。
だが、最終的にイーニャはヴォルフのカウンターに合わせることになってしまった。
ヴォルフの裂帛の気合いが響き渡る。
「連撃――」
【無業】!!
2度目の【剣狼】の牙が唸りを上げるのだった。