第105話 幕前
新章『剣聖の王国』が開幕です。
早速、あのキャラが登場です。
ミツルミ・ムローダは物音に目を覚ました。
月の位置はまだ低い。
障子紙を通して、明るい月光が見える。
天井に視線を戻せば、一級の絵師に描かせた龍が己を睨んでいた。
上半身を起こす。
側に硯石と筆が置かれ、書きかけの書がそのままになっていた。
どうやら書を書いている途中に、寝入ってしまったらしい。
最近、年のせいか突然睡魔に襲われることがある。
こんなことではいけないと思うのだが、やはり寄る年波に勝てないらしい。
だが、刀作りは娘に譲ったが、ミツルミの腕はいささかの衰えもない。
ムローダ家の当主も、いまだ自分にあり、まだまだ枯れるつもりはなかった。
不甲斐ない己に向かって、深いため息を吐いた。
水一杯、と思い、寝床を出ようとする。
そこではたと気付いた。
布団が敷かれていたことに。
(娘だな……)
心の中で呟く。
すると、縁台をトタトタと歩く音がした。
障子の向こうで、見覚えのある後ろ髪が揺れていた。
「エミリか」
「失礼します」
障子戸を開け、現れたのは戦装束をした娘の姿だった。
ワヒト人特有の長い銀髪。
肌も白く、雪原に置き忘れたかのような赤い瞳を、ミツルミに向けている。
具足を装備し、腰には己が鎚った刀を差していた。
「どうした? 何やら騒がしいな」
「は。 実は――」
「オーダム家のじゃじゃ馬が、また城でも抜け出したか?」
娘の顔が曇る。
どうやら図星だったらしい。
「ヒナミ姫様に困ったものだな。もうすぐ婚礼の儀があるというのに」
「父上……。ヒナミ姫は10歳。まだまだ子供でござる。結婚も、ワヒトの国主となるのも、まだ早いのではありませぬか?」
「仕方あるまい。姫様の両親――前王と王妃は相次いで身罷られた。昨年は飢饉に見舞われ、多くの兵士を魔獣戦線で失い、ワヒト王国は今どん底だ。貴族――大名の不満も膨らんでおる。一刻も早い政情安定が望まれているのだ」
「しかし、10歳で結婚など……」
エミリは下を向く。
ふと彼女の脳裏に浮かんだのは、1人の男の姿だった。
ヴォルフ・ミッドレス。
無名でありながらアダマンロールを斬り、盟友でもあった【英雄】ルーハスすら打ち倒してみせた壮年の冒険者。
だが、騎士団を率いて、ラムニラ教の神殿を襲撃。
その責任をとって、自刃したと伝え聞いた。
信じられない話だが、何度かレクセニル王国と連絡を取ったが、間違いのない事実らしい。
聞いた時には立っていられないほど、ショックだった。
今はだいぶ落ち着きを取り戻しているが、まだエミリの中では無念がくすぶり続けている。
だからこそ、新しい国主となるヒナミ姫には、姫が本当に好いた殿方と結婚してほしいと思っていた。
「変わったな、エミリ」
ミツルミは煙管の箱を近くに寄せる。
葉と火を入れると、ぷかりと煙をふかした。
キツい紫煙の匂いが、部屋に立ちこめる。
人間50年という言葉がワヒトにある。
国の平均的な寿命を表したものだ。
齢50を越えたミツルミだったが、今でも煙草だけはどうしてもやめられなかった。
「レクセニル王国で何があった?」
「それは――でござる」
「好きな男でも出来たか?」
「――――ッ!」
エミリの顔がかぁっと赤くなった。
室内は薄暗くはっきりとは見えなかったが、ミツルミが一瞬、にやりと笑ったような気がした。
「別に悪いことではない。現にレクセニルから帰ったお前の【刀匠】としての腕は、めきめき上がっておる。男が女を知って変わるように、女も男を知って変わる。それも良い経験だろう」
「だったら、父上。姫もまた――」
「だが、お前と姫では立場が違いすぎる……」
「…………」
「忘れてはおらんであろうな。」
あれはワヒト王国最強の【剣聖】であることを……。
エミリは息を飲んだ。
父のいうことは、間違っていない。
ヒナミ姫は10歳。
だが、その剣の腕は天賦の才能を持ち、ギルドの判定もSクラス相当。
ワヒトを統べると同時に、国で1番強いものに贈られる【剣聖】の称号を、10歳の身でありながら、有しているのだ。
「それでも拙者は納得できませぬ。そもそもヒナミ姫の両親である前国王と王妃が相次いで身罷れたのは、不可解でござる。お2人とも健康に気を遣い、前国王はヒナミ姫様が生まれると聞いて、お煙草もおやめになられた。それがいきなり病死など――」
「それ以上はいうな、エミリ」
ミツルミはぎろりと睨む。
眼光に見えない剣圧を乗せ、娘を黙らせようとした。
エミリは一瞬怯んだように見えたが、言葉を続ける。
「父上は市中で、国王の崩御をなんといわれているのかご存じでござるか?」
「何?」
「大老ダルマツが、前国王と前王妃を暗殺したといわれているでござる」
「放言だ。捨て置けばよい」
「ですが、前国王と前王妃の喪が明けぬうちに、ダルマツ家の当主の息子ノーゼとヒナミ姫様がご成婚されるというのは、あまりに出来すぎでござる」
「先もいうたであろう。今はワヒト王国の政情安定が何よりも不可欠なのだ」
「父上は大老家に肩入れしすぎでござる!」
「肩入れして何が悪い。我の刀に初めて目付をしてくれたのが、ダルマツ家だ。以来、我々はダルマツ家の庇護の元、刀を鎚ってきた。大恩がある大老家に尽くす。それがムローダ家のお役目だ」
エミリは目を伏せる。
何をいっても無駄だ、と唇を噛んだ。
「お前はお前の役目を果たせ」
「本当にそれが、ムローダ家のお役目なのでしょうか?」
「なに……?」
「失礼します」
答える前に、エミリは下がった。
たん、と障子戸を閉める音が響く。
ムローダ家の家臣たちを連れ、エミリが屋敷を発ったのを、音で確認した。
途端、静かになる。
ミツルミは書きかけの書画に向き直った。
が、その寂れた腕が動くことはついぞなかった。
皆様、書籍は買っていただけましたでしょうか?
さて、『剣聖の王国』なのですが、最後まで書ききっておらず、
ちょっと手探り感があり、度々修正する可能性があります。
加えて、最近の暑さで執筆が遅れていて、
極端に更新ペースが落ちるかもしれませんが、更新は続けて行くので、
今後ともよろしくお願いします。