青空と君と俺と
ルシアのとの微妙なバトルを終えて、席につく。授業開始のチャイムが鳴るまではあと2分ほど猶予があったが、杏はすでに席についていた。
俺が席につくと、携帯から目を離した杏と目が合う。宝石のようにキラキラと輝く杏の瞳に、情けない顔の俺が写る。
「真中くん、具合悪いの?」
「ぅえっ!?」
杏の下に謎のメッセージ欄が見えた気がしたが、そんなものは一瞬で消えた。頬に熱が集まってきて、喉が乾く。
具合をきいてくるということは、おそらく杏は俺を心配してくれている。
なんてことだ。俺なんかの体調を心配して杏の気持ちがかげるなんて。
「だ、大丈夫。佐藤さんはお元気ですか?」
「さっきの授業中、不思議な顔してたから。私は今日も元気だよ。ありがとう」
杏は微笑む。安心したように、少し戸惑う心を誤魔化すように優しく笑う。画面の向こうで、俺に向けてではなく他の誰かに向けて笑っていた彼女が俺にだけ微笑む。
「真中くんは池田くんと仲良いんだね」
杏は茶色い絹のような髪を耳にかけながら、俺に問いかける。杏から話を広げてくれているというだけで、心の奥の方がぎゅうぎゅうと締め付けられているような気持ちになる。
「池田はな…気さくでいいやつです」
天気の話するみたいに自分がどうやって死んだかを振り返るくらい、気さくで気楽なやつです。とは言わずに、杏の顔を見つめる。
ほのかに色づいた頬と、自然な色で光る唇。瞳にかかる長い前髪。全てゲームの世界通りだった。
「そうなんだね。池田くん何個もバイト掛け持ちしてて、偉いよね」
池田がバンドを掛け持ちしているという設定は、杏にデートアイテム(バイト先のレストランのチケット、バイト先の遊園地の招待券)を自然な形で杏に渡すためだということを誰も知らない。
池田の努力のもと、杏と男たちのデートが成立しているのかと思うと涙がでてくる。
「杏はバイトとかしてないの?」
「私はしてないよ。夏ちゃんはしてるんだけど」
夏ちゃんというのはツインテールの杏の友達だ。他にも杏に絡んでくる女はいるが、だいたいが杏と攻略対象のやつの話をきいてくるので、夏ちゃんがそれを追い払うというのがテンプレである。俺も夏ちゃんに同調して、何度かモブの女ども追い払いたいと思ったものだ。
「夏ちゃんが体調を崩してて休んでてね、今ちょっと寂しいんだ」
杏が困ったように笑う。そんな寂しい時に俺のせいでルシアとも変な雰囲気になってしまって、申し訳なさしかない。
だが、杏のセコムのような存在である女友達も杏の幼なじみもいない今こそが、杏と近づくチャンスだ。
だが、俺は杏のトラウマの相手。軽々しく誘うことはできない。
「夏さんいないなら、俺たちと昼飯食べようよ」
いつのまにか俺の横にいた池田は何本めかのパックジュースを飲みながら、杏を軽く誘う。さすが、立ち絵でパックジュースを飲んでいるキャラだ。その消費量たるや、立ち絵といえど軽々しく使い回すなとゲーム会社に言ってやりたい。
しかし池田。さすが、乙女ゲーム屈指のサブキャラのいいやつ。そのサポート力たるや、もはや名人芸だ。
こいつのおかげで、杏とご飯を食べることができるのだ。
「え?お邪魔していいの?」
「い、いいです。ありがとうございます。食べましょう」
「おーじゃあ、屋上で」
高校の屋上というのは、現実世界では入ることはほとんどできないが、ゲームの世界では何の障害もなく利用することができる。
4月、5月の設定なのだろう。屋上は全く肌寒さがなかった。杏はベンチに座って、細く小さい膝の上にピンクを基調とした弁当箱を広げていく。
池田はジュースを買ってくると言って、先ほど去っていった。おそらく、しばらくは帰ってこない。はずだ。
さりげなく、杏の隣に座るが彼女は気にすることもなく、幸せそうにご飯を口に運んでいる。
「佐藤さんはさ、月永と幼なじみなんだよね」
語尾に疑問視をつけることができなかったのは、俺も一応小学校からの幼なじみだからそんなことを気にすることはおかしいことだと思ったからだ。ただ、そう話題を提供することでしか、杏に俺の聞きたいことを聞くことはできない気がした。
杏は気にすることもなく、ただ月永の名前を聞いた時、少し杏は気まずそうに目をそらした。
「ルシアは私のこと多分…ウザいと思ってると思うから。」
「えっ」
「ほら、私ってどんくさいから。ルシアはなんでもできるし…私のこと、きっと幼なじみだから、色々気にかけてくれてるんだと思うんだ。本当は重荷になってるんだと思う」
杏の話を聞くのは初めてだった。ゲームの中でも杏の気持ちはそんなに語られない。ただ、俺が選んだ選択肢に対しての杏の考えだけが画面に表示されるだけだった。
だから、杏がそんな風に月永との関係を考えていることをしらなかった。
いつも俺の示した選択肢の方に向かって歩いていく杏のそんな一面を俺は初めて、知ることができた。
「杏は月永と幼なじみじゃなかったら、仲良くなってないと思う?」
「え?」
「うまくいえないけどさ、家が近いとか歳が近いとかそういうのだけじゃない気がするんだ。そういうのはきっかけで、仲良くなったのは杏とルシアがお互い、仲良くしたいと思ったからだろ」
うまくはいえない。幼なじみという言葉でキャスティングされているルシアと杏が幼なじみじゃなければ、なんて可能性はこの世界には存在しない。でも、小学生の頃から一緒だった今は俺になっているこの存在が、その立場になりえなかったということは、きっとそういうことなのだと思う。
杏とルシアだから、ここまでお互いに支え合って生きてきたのだと思う。
「それはルシアは私が幼なじみじゃなくても仲良くしてくれたかもってこと?」
「うまくはいえないけど、そんな感じ」
杏は安心したように微笑む。少し、泣きそうに瞳を細めてそれでもその瞳からは涙が溢れることはなかった。
きっと、杏は泣くことはない。こんなところで泣くように彼女はプログラムされていないからだ。それは、俺のような本来関わることのないモブの言葉が杏に与えるものなどないのだと示しているようだった。
けれど、杏は俺の言葉に安心したように泣いていたような気がした。
「ルシアと喧嘩しちゃったの…私は今まで、ルシアの言う通りにしてきたから。でも、それじゃダメなんだなって思ってる。でも、それは決してルシアに対して嫌だとかそう言う感情があるからじゃないの」
「わかるよ、杏ちゃんは優しくて頑張り屋だから」
購買の袋に入ったたくさんのジュースとお菓子を杏の前に差し出すのは、いつのまにか現れた池田だった。
杏はそれを受け取って、俺の方をみて涙を一筋、流してまた優しく微笑む。
「真中くん、私のこと杏ってよんでくれたね」
「えっ無意識に。ごめんなさい」
「ううん、嬉しい。あの頃みたいに杏ってよんで」
杏の示すあの頃は、俺の知らないあの頃だ。俺の知ってるあの頃は、杏が書いたラブレターをバラバラに破り捨てたのが俺ということだけだ。
でも、杏はそれ以外も知っているのだろう。それはきっと、俺が一生知ることのできないゲームのどこにも触れられることのない杏だけの思いだ。
「あの時はごめんな。杏」
杏は困ったように微笑む。そして、「気にしないで」と杏の唇が動く。
杏はきっとこのルートで、過去のトラウマである俺と決着をつけた。きっと、この後ルシアのもとへと向かうのだろう。
俺のもとに杏はくることはない。それが正解のはずなのに、死にたいくらい悲しいことに思えた。
池田は俺の考えなどお見通しなのだろう。そっと、俺の膝に彼の気に入っているパッケージのジュースを置く。
脇役同士、こんな役割がお似合いなのだろう。