幸せを見つける達人
思いついたままに書きました。
ぶぎぶぎ……と踏みしめる小さな音が耳に届く。慎重に、けれど慣れた足取りで寒さから一刻も早く抜け出したいと足を動かす。
何だか少し足先の感覚がなくなってきた。早く家に帰って炬燵に入りたい。あぁ、でもそしたらきっと急に温めたせいで足先が痒くなってくるかも。それは嫌だなぁ。
くだらない事を考えて、はぁと深く息を吐く。真っ白に色づいた息はちょっとした寒さのバロメーターだ。
目の前に広がるのは真っ白な雪に覆われた銀世界。街路灯と家々の明かりが夏の頃よりも幻想的に見えてくる。冬の空は星も良く見えて、何だか感傷的になってしまう。
いや、感傷的になるのは目の前の景色のせいではないかと思い直し、安藤 希は再び重い溜息を吐いた。
安藤 希、26歳、独身、OL六年目。只今不幸連鎖の真っ最中。
半年前に交際三年、結婚を考える程大好きだった彼の浮気が発覚し、文句を言うことなく振られる形でお別れ。その傷が癒えぬ間に友人達から次々と結婚の報告を受け、祝福しつつも若干へこみ。やけ酒するためにワインバーへ行けば、お気に入りの服にワインを零し服はおじゃん。会社では機嫌の悪かった上司に八つ当たりのように些細な事で怒られ、家に帰って唯一の楽しみであるドラマの録画を見ようとしたら録画されておらず。そして今日、駅前で元カレが自分よりも数段可愛い女の子と腕を組んで歩いているのを見るという。
「もう……なんて日だっ!」
良いことなんて一つもない。悲しい、寒い、腹が立つ! 心に燻っているモヤモヤとしたものを誰かにぶつけたくなるけれど、そんなこと実際はできない。
この静かで幻想的な世界をぶっ壊したい。喚いてやろうか! ……いや、やめておこう。その後が虚しい。やっぱりいつものようにクッションにパンチの小刻み連打をおみまいしよう。あれは意外と腕が怠くなるくらい疲れて発散した気分になれる。
そんな他人が聞いたら哀れな目で見返されそうな事を考えていた希の耳に、ピキピシ……と薄い何かが割れる音が聞こえてくる。思わず音のする方へと顔を向けた希は、そのまま固まってしまった。
視線の先にいたもの。それは、地面にできた薄い氷の膜にゆっくりと靴の先を近づけ、勢いをつけて踏み割っている男。
朝、会社へと向かう際、登校する小学生が小さな水たまりの上に薄く張った氷の膜をバシバシと踏みつけて割る光景をよく目にする。希自身も小さい頃は好きだったことをよく覚えている。氷が厚すぎると割れず、薄すぎると音がしなくて味気ない。ちょうどよい薄さの氷があると少し嬉しかった気がする。
割りたい気持ちに共感はできる。できるが、目の前の男はどう見ても同じ年代くらいのいい歳した大人。それも今は夜。何だが不気味だ。
このご時世何があるかわからない。関わるのは危険だ。そう判断した希は慌てて視線を外そうとして、ふっと足元から視線を上げた男とばっちり目が合った。男との距離数メートル。逃げたところで足元は雪で滑りやすいし、それほど走ることに自信のない希では、すぐに追いつかれるだろう。
どうしたものか。ここは何も見てませんよ〜的にスルーするのが無難か。よし、そのまま通り過ぎよう。そう決めて歩き出した希に「うわぁ、見られた……恥ずかしすぎ」と両手で顔を隠しながら唸る男の声が届いてきた。
見られたという確信が男にはあるようである。いや、間違ってはいない。ばっちり楽しそうな男の姿を希は見たのだから。
「……だ、大丈夫ですよ。私もよく割って遊んでました。意外とハマりますよねぇ」
通り過ぎようとしていたはずの希の口からフォローの言葉がこぼれた。何故かはわからないが、なんだか男が可哀想に思えたのだ。この寒空の下、羞恥心で顔を真っ赤に染めた目の前の男が。
「え、あ……なんかすみません」
氷を割っていた事に対してなのか自分の言葉にフォローの言葉を返してくれた事になのか、男が小さく頭を下げる。
向き合った男は、160センチの希が顔を少し上げなくてはいけないくらいの身長で、ぱっちりとした二重に小さな鼻、薄めの唇、帽子からは黒髪が見え隠れする、イケメンというよりは可愛らしく、モテモテというよりは地味に数人から告白されているだろうみたいな、女性に警戒心を持たせない顔立ちだった。
「いえいえ……では」
お互い居た堪れず、軽く頭を下げあってその場を去る。不思議な人を見てしまったなぁ、と思いつつ、何だかいつの間にか沈んでいた気持ちが少しだけ浮上した気がした。
* * * * *
あの日から、時々、希はあの男を見かけるようになった。
看板から垂れ下がる氷柱に雪玉を当て、一発で命中したことに小さくガッツポーズしていたり。
雪が結構積もり歩きにくい道を、自分より前に歩いた人が残した足跡に合わせて歩いていたり。
寒い冬の日にアイスを食べていたり。
まるで小学生みたいだ。学生なのかな、と思っていたがスーツの日が多いので働いているのだとわかる。同じ町に住んでいても、今までは気にもとめていなかったのに、あの日のインパクトのせいか、いると突然目に飛び込んでくる。そして、何だか毎回面白い。いつしか彼をよく見かける場所にいくと、さりげなく辺りを探す様になってしまった。
そして今日、またも薄い氷の膜と戯れる彼を見つけてしまった。この道はバス停もある結構車通りのある道なのだが、今は人がいないようだ。それで意気揚々と氷を割っているのかもしれないが、残念ながら自分がいる。
なんかまぬけすぎないか。希は可笑しくて笑いを堪えることができなかった。希の笑い声で人がいることに気づいたのか、彼はハッと振り返り希の姿を確認すると「うわっ、やっちゃった」と目元を大きな手で覆い隠す。それが尚更可笑しくて、希の笑い声は大きくなった。
「大丈夫ですよ。ハマりますよね、氷割り」
「……また慰められちゃいましたね」
彼の言葉に希はきょとんとした。どうやら彼は希があの日に出会った人だとわかったらしい。それがなんだか少し嬉しかった。
「言い訳じゃないですけど、氷割りしたのは子供の頃以来で、この前は氷見たら懐かしくて、つい……。今は、まぁ……ついのつい」
「ついのつい? ふふふ……でもわかります。私もこの前、つい懐かしなって氷割り、しちゃいました」
「それはよかっ、た?」
よかったよかった、と頷き返せば、彼はへらっと大きな目を細めて笑った。
それから彼とは道でばったり出くわせば挨拶をし、たまに話しもする仲になった。彼の名前は石神 隼人、同い年で高級時計の販売店で働いているらしい。シフト制で休みが決まっていないから見かける際にスーツだったり私服だったりとバラバラだったようだ。
久しぶりに早く仕事が終わった今日、最近見かけなかった彼と出くわした。休日なのか私服姿の彼と挨拶を交わし、たわいもない話をしながら歩く。
近頃は、彼を見つけて話すことが細やかな楽しみとなっている。彼と話している時間だけは、嫌なことを忘れていられたからかもしれない。
「わぁ、楽しそうだな」
彼の視線の先には大きな公園があった。大きな山のある公園は真っ白な雪に覆われ、遊具もすっぽり雪に隠されている。公園から聞こえるのは色とりどりのスキーウエアを身につけた子供達のはしゃぐ声だ。
「ありゃケイドロしてるな。懐かし〜」
確かに懐かしい、と希は思った。ケイドロとは警察役と泥棒役に別れ、警察が鬼ごっこの鬼の要領で泥棒を捕まえ牢屋に見立てたスペースに入れる。泥棒は警察の目を盗み、捕まった泥棒を助ける。警察が泥棒全員を捕まえたら終了だ。今思えば、泥棒が勝つことなどないルールである。
「ただでさえ雪の中を遊ぶと疲れるのにケイドロとか……子供は元気ね」
「言い方がおばさんくさい」
くくく、と笑う彼をひと睨みする。会う時間がそんなにあった訳ではないが、同い年という事もあってか自然とお互い敬語はなくなり、友人のようなやりとりに変化していた。希にとっては珍しい。
希は子供達へと視線を戻した。その先では警察役の子供二人が泥棒役の一人を挟みうちにしている。
「私、いっつも警察役だった」
「俺は泥棒役」
そんな気がする、と希は忍び笑う。泥棒役の子が捕まって、彼は「あぁ、捕まっちゃった」と残念がった。
「いつも囮役だったんだ。牢屋から警察を離すための囮。まぁ、足が速かったのもあるけど、囮役を押しつけやすいキャラだったんだろうなぁ」
「押しつけやすいキャラ?」
「かなりお調子者だったから。囮役なんてギリギリまで引き付けるから捕まってなんぼでしょ? だから笑って流せそうなタイプを選ぶ。でも正直、たまには救う役をやってみたいと思ってた」
今ではいい思い出だけど、と笑う彼から希は目が離せなかった。希はケイドロが好きだった。でも、楽しいからとはちょっと違う。
「私は進んで警察を選んでた」
「なんで? 警察を欺いたり、隠れて逃げたり、泥棒の方が人気だったよね?」
「私、足がそこまで速くなくて。鬼ごっこなら何度も狙われて鬼にされるけど、ケイドロは役が変わらないし、警察は誰かと協力して捕まえたりしていいから誤魔化せるじゃない? 要は自分の欠点を誤魔化したかったの」
子供の遊び、なんて侮ってはいけない。子供達はそれなりに真剣で、自分のせいで捕まえられないなんて知られたらどう思われるか。そう考えると遊びを盛り下げないためには警察を選ばざるおえなかった。
ケイドロだけじゃない。希はなんだかんだ見栄を張って、誤魔化しながら生きてきた。
人間関係は広く浅く。自分の本音を語るまで仲良くなるにはそれ相応の時間がかかるし、集団でなら知らない人にも話しかけられるのに、一人となるとなかなか話しかけられない。人見知りというより、ただ怖がっているだけだ。
相手の求めているものを敏感に感じ取り、嘘をつかない程度に相手に合わせる。学校でも会社でもそう。先生や上司の求める人間を周りが不快にならない程度に演じ、自分の欠点を隠しつつ好感を持ってもらう。
嘘ではないけど本当でもない自分。それが窮屈だとは思っていない。他人と衝突することもないし、気が楽だから。でも、そうする必要のない人にもしてしまうことがある。
「自分を誤魔化し慣れると困る事もあるんだねぇ。私、カレと喧嘩したことがないの。浮気されてポイッと捨てられた時でさえ、言いたいことが言えなかった。胸の中にはぶつけたい言葉が溢れかえってたのに」
始まりは、好かれたいという些細な感情だったのだと思う。カレの求める彼女になれるよう、カレの些細な言動に注意を払い、自分の気持ちを抑えることはしばしばあった。別にしんどくなかった。我慢できないことはさりげなく伝えたことだってある。
だけど、まさか浮気されたのに心の中のぐちゃぐちゃとした感情をぶつけられないまま終わるなんて思わなかった。そんなところでまで良い子ちゃんでいる自分に己自身が驚いた。だから半年以上経った今でも心の中にモヤモヤとしたものが残っているのだろう。
「って、ごめん。こんなこと言うつもりなかったのに。はははっ! 不幸のおすそ分けしちゃうところだった」
我に帰った希は、黙って聞いていた彼に慌てて謝る。もちろん大袈裟に笑うことも忘れない。これこそ今まで自分が身につけたスキルの一つだ。
「小さな幸せ見つけてみなよ」
「……小さな幸せ?」
「そうそう」
いきなり何故ポエマーのような台詞をはくのか、と希は失礼なことを考えたが、彼は冗談を言っているつもりがないようだ。
「些細なことでいい。本当に小さな幸せ。今日は晴れたとか、仕事が早く終わったとか」
「ほんとに小さっ!」
「いいのいいの! これは練習なんだから」
彼は言う。幸せを見つけ出す練習なのだ、と。嫌なことがあったなら、小さくてもいいから幸せを見つけて掻き集めてみる。嫌なことが大きくても、幸せが集まって大きさが上回ればどうでもよくなる。
いつか悪いことよりも良いことを見つけられるようになる。
「……幸せを見つける?」
「そうっ! 俺なんてもう達人だよ!」
ドヤ顔で胸を張る彼を見ていてふっと思い出す。
「もしかして、氷柱を雪玉で落としたり、人の足跡辿ったり、アイス食べてたり?」
「見てたのっ!?」
「たまたま見かけたの」
恥ずかしそうに項垂れているのが少し面白い。そんなに恥ずかしいと思うわりには堂々とやっていた気がするのだが。
「まぁ、そうだね。氷柱に一発で当たったら嬉しくない? ゴミ箱にゴミを投げ入れた時みたいな。足跡はまぁ…ズボンの裾濡らしたくなかったからラッキーって。アイスは当たりがあたってつい……」
なんだか言い訳のように言葉が萎んでいく。小さな幸せを人に話すのは照れるらしい。たしかにちょっと自分の中にしまっておきたいものかもしれない。
「なんか、ごめん」
「いや……じゃなくて! ほら思い出してごらん!」
小さな幸せ。
この前可愛いと思った靴がセールで買えたこと。
テレビをつけた瞬間、好きなアーティストが登場する番組だったこと。
去年気に入った期間限定のお菓子を今年も見つけたこと。
実家から送られたきた蜜柑が甘かったこと。
滑ってコケそうになったけど、なんとか持ち堪えられたこと。
思い出せと言われ、思いつくかなぁと心配だっけれど、意外と小さな幸せってあるものだ。まぁ、人には恥ずかしくて言えないけれど。
「どう? 結構あるでしょ?」
ふわっと大きな目を細めて笑う彼の笑顔が可愛いと気づいた。
「そうだね。結構見つけられた」
「よくできました」
その言い方が優しく大人っぽくて、ドキッとする。
あぁ、今日早く仕事が終わって彼に会えた。これは小さな幸せ? それとも大きな……
「どんな幸せ見つけたの?」
「そんなの言えないよ! 恥ずかしすぎる」
「俺のは知ってるのに!? なんかズルっ!」
「ズルくないズルくない」
「くそぉお」
外は寒くて、息も真っ白になるほどなのに、体がホカホカ火照ってる。幸せを見つけたおかげなのか、彼と話しているおかげなのか、心が軽い。
「達人になれるよう頑張ってみる」
「うん。精進しなされ」
「なにそれ」
笑いが次から次へと溢れてくる。こんなに笑い続けたのっていつぶりだろうか。きっとこれも、小さな幸せ。
* * * * *
あれから小さな幸せをたくさん見つけた。もちろん嫌なこともあるけれど、以前よりも引きずらなくなった気がする。
そして何よりも駅前から家までの道のりで小さな幸せに出くわさないか毎日が楽しみになっていた。今日も今日とて、幸せを運んでくれる彼の姿を駅前で探す。
だが、希が見つけてしまったものは不幸を呼び込む男の姿であった。隣には例の可愛らしい女性が当たり前のようにいる。
地面に縫い付けられたように足は動かず、奥底に眠っていたはずの感情が今にも動きだそうとしているのを感じ、希は今だに引きずる己自身に腹が立った。
もうあんな男忘れてしまえよ。あんな浮気をするような男と結婚なんてしなくてよかったじゃないか。
小さな幸せに変換しようとしても、あの頃の出来事がフラッシュバックしてきて上手くいかない。
情けなかった。彼が幸せになれる方法を教えてくれたのに。彼と出会えたのは別れたからだと何度も言い聞かせてきたはずなのに。
その時突然、ポンッと背後から肩を叩かれた。思いもよらない出来事に希の身体が大きく弾む。錆びた機械のように振り返れば、心配そうな表情の彼が立っていた。
「ごめん。呼んだんだけど気づかなかった?」
「あ、ごめん。気づかなかった」
彼はそのまま希が先ほどまで見つめていた方へと視線を向けた。咄嗟に見ないでと口を開きかけたが、それより早く「もしかして元カレ?」と聞いてくる。隠しても仕方がないので希は小さく頷いた。
「もう引きずってるつもりはなかったんだけどね」
困っちゃうよねー、ははは……と笑おうとして失敗したらしい。彼は全く笑ってなかった。
「ねぇ。まだ彼のこと好き?」
「それはない」
だって私はいつも貴方を探してるから。小さな幸せを運んでくれる貴方を。
「じゃあさ、仕返してやれ」
「いやいや、何を言ってる」
「見せつけてやればいい、私は幸せだって。文句言ったり、泣き叫んだりするよりも、何倍もスッキリするよ」
足のすくんでいる私がどうやって見せつけるのさ、と言いたいけれど、彼にそんな事を言ったらと思うと口を噤んでしまう。やっぱり人はそう簡単に変われない。
「スッキリする……前に進めるよ、自分が。もし、立ち向かうための幸せが足りないのなら、俺も手伝う」
「……え?」
唖然としながらも、真っ直ぐ見つめてくる彼の真剣な眼差しから視線が外せない。
「俺の幸せ、分けてあげる。ここ最近見つけまくりなんだ。今日もまた、見つけた」
すっと差し出された大きな手。思わずその男らしい手を凝視してしまうも、そのまま顔を上げれば照れ笑いした可愛い笑顔の彼がいた。
「俺とじゃ幸せ、増えないかな?」
「ううん……そんなことない。だって、石神くんは幸せを見つける達人なんでしょ?」
「そう! 俺は達人だから、安藤さんが辛いときはたくさん幸せ見つけてあげる。いや……幸せにしてあげる」
さっきまで手袋をしてたのか石神の温かな手が希の冷たい手を包み込む。少しずつ温められていく感覚を感じながら、また生まれた小さな幸せを希はギュッと噛みしめた。
もう恐れることはなにもない。
「んじゃ、いっちょ幸せ見せつけにいきますかっ!」
「はい! 達人!」
「よろしい!」
なんたって私には、幸せを見つける達人がついている。
お読みいただき、ありがとうございました。
地域では『ケイドロ』ではなく『ドロケイ』と言うところもあるとか。
作者も泥棒より警察役がすきでした。
氷割りも、たまにしたくなります。
あ、雪国出身なのがバレてしまいましたね!笑