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夏の終わりに

作者: 三白城侍

 俺は開けた窓のサッシにだらしなく寄りかかった格好で、閑静な住宅街の屋根を見下ろしながら煙草に火をつけた。

 夏の終わりかけの外の空気は存外に冷たく、まだ夏が終わり切れていない格好の俺の肌がその冷たさを浸透させていく。

 だが、夏と秋の狭間のこの時期はとても過ごしやすいため、俺は気に入っている。

 もうしばらくすれば寒さに負けて長袖を着だすのだ。いまはこのままこの中途半端な寒さを満喫するのも、乙なものである。

 空を見上げると、薄い雲に覆われた、薄らぼんやりとした月明かりがわずかに俺の目を刺してくる。

 それに抵抗するように吐き出した紫煙が空へと立ち上るが、やたては空気中に拡散して消えていく。

 その光景を見上げながら、俺はもう終わってしまった恋人の事を思い出していた。

 高2の頃から付き合っていた朱莉あかりがこの同棲しているアパートを1週間前に出ていったのは、俺に愛想が尽きたとか、俺の事が嫌いになったとか、別にそういう事ではなかった。

 相変わらず朱莉は俺の事が好きだったし、このまま結婚したいと事あるごとにプレッシャーをかけてきていた。

 俺が別れを切り出す、1時間前ですら。

 正直に言えば、うだつの上がらない3流企業に勤める歯牙ないリーマンの俺ではあったが、朱莉と同じ気持ちだった。

 彼女が家で待っていると思えば不思議とやる気も出てくると言うものである。

 けれど。

 実際問題、俺は彼女を支える為の、支柱にはなれなかったのだ。

 いつの頃からか、彼女の心の中には俺以外の何かが大半を占める様になり、俺はそれに気が付いていたけれどどうしょうもなかった。

 それは俺のふがいなさのような気もするけれど、それにしたってあんまりなんじゃないか、とどこかで思う。

 

 ――新興宗教。


 どこかの誰かが始めた、そんなものに彼女はいつの間にか染まっていた。

 彼女の勤め先のショップのお客さんから紹介され、どっぷりとそれにのめり込んでしまった。

 名前なんて興味がないのですぐに忘れてしまったが、それがいかに素晴らしいか、教祖様とやらがどれだけの人格者であるか、それを楽しそうに話すその姿に、俺は、なにかどうでもよくなってしまったのだ。

 もちろん、再三にわたってそれを辞める様に説得した。

 騙されているだけだと、俺の事が大切ならば、と、彼女が望んでいた結婚でさえ、辞めさせるための餌にしたのだけれど、俺が何かを言うたびに意固地になって行ってしまう。

 後々にネットで調べてみたら、俺がやったことはまるっきり逆効果で、なにか全身から力が抜ける様にその場にへたり込んでしまった。

 そして、なにかどうでもよくなってしまったのだ。

 相変わらず彼女の事は好きで、別れたくはないけれど、現在も将来も彼女の精神的な支柱にはなんとかという宗教が居座っている。

 なにか、白けてしまったのだ。

 

 おとなしくなった俺に対して、彼女はようやく理解してくれたのかと満面の笑みなり、そして今度は俺を勧誘しようとしてきた。

 相変わらずその宗教の理念の崇高さ、教祖様とやらがどれだけ素晴らしい人格の持ち主か、そして信者仲間がどれだけ強い絆で結ばれ、どれだけ満たされた生活にあるか。

 そして彼女はこう言ったのだ。


『私は今、すごく幸せよ。この幸せを、かっちゃんにも分けてあげたいだけなの』


 と。それはそれは全てが満たされているような、笑みを浮かべながら言い放ったのだ。

 後になって、それが聖人アルカイックスマイルみと呼ばれる物だと知ったのではあるが。

 その邪気の無い、心底幸せそうな笑顔は今思い出しても不気味だった。

 お互い20数年生きてきた中で、それなりに苦い経験も理不尽な体験もしているだろう大人が浮かべる笑みではない。

 そう思った俺は心がけがれているのだろうか。けがれているからこそ、彼女の語る宗教の素晴らしさとやらも理解できなかったのだろうか。

 俺は悩んだ。朱莉の事はそれでもまだ愛していた。そして変わらずに彼女の俺の事を愛してくれている。

 けれど、もう、俺の言葉は届かないし、響かない。

 彼女の頭は教義と教祖の言葉に支配され、それがすでに精神的な支柱となっている。

 だから、俺は。


「別れよう。もう、無理だ」


 俺が感じてる虚しさを、言葉にしてそっと吐き出したのだった。


 その後の事はおぼろげにしか覚えていない。


 ――なぜ、どうして、なんでわかってくれないの。


 そんなことを朱莉は言ってた気がする。

 だが、もはやそれは俺にとって雑音でしかなく、涙を浮かべた朱莉は路傍の石ころだった。

 

 気が付いたら持てるだけの荷物をまとめた朱莉が玄関に立っており、俺を睨むようにして、まるで俺の身を切るようにして言葉を投げつける。


「私、○▽◇※××様に身体を捧げるの。光栄な事なのよ」


 なにか勝ち誇ったような、けれどどこか寂し気にそう言った朱莉に「そうか」とだけ返すと、一瞬だけ傷ついたような顔を見せ、玄関の方を向くと、もう二度と振り返ることはなく彼女は去っていった。

 心なしか、身体が震えていたのが印象に残っている。


 俺は紫煙を燻らせる。

 あの時、俺は確かに朱莉に対し失望を覚え、もう二度と戻ってこない時間に対して寂しさを覚えた。

 俺の中で朱莉の占める場所は急速になくなり、吹っ切れたはずだった。そのつもりだった。


 ――けれど。


 夏の終わり。

 出てき始めた秋の虫たちがわずかにその声音を震わせている。

 僅かに感じている寂寥感が、俺の中で大きくなり、気が付くと頬が湿っていた。


「はは、後悔でもしてるのかね」


 指先で拭いながら、ため息を吐く。

 いつの間にか煙草がフィルターギリまで到達していた。

 俺は灰皿に押し付けて火をもみ消すと、空を見上げる。

 すると、先ほどまではぼんやりとした雲に覆われていた月が、顔を出していた。


「ああ、月が綺麗だなぁ」


 1人の部屋で、そう呟く。

 帰る言葉は、なにもない。


「月が、綺麗だなぁ」


 もう一度呟くうちに、月は今度は分厚い雲に隠れてしまった。

 周囲を見渡すと、いつの間にか雲が垂れ込め、空気がより一層冷えている。

 風に吹かれて煙草の匂いが散り、代わりに湿った水の匂いを感じた。


「明日は雨か……仕事だりぃな……サボろうかな……無理か」


 俺はのそのそと窓を閉めると、年中引きっぱなしの布団の中にもぐりこんでいった。


 明日も仕事だ。

 歯牙ないリーマンの俺は社会の歯車となって働くしかないのだ。

 待ってくれている女性でもいれば、やる気も出るんだけど……ないものねだりをしてもしょうがない。


「おやすみ」


 その言葉は、俺一人が住むアパートの壁に吸い込まれていくだけだった。

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