裏切り者たち
恋愛は、その二人を取り巻く交友関係を切る鋏にもなり、新たに、再び絆を結べる両手となったり、様々に変容する。そのすべてに、人間が確証もないのに一番好きな言葉「信じる」という要素が含まれている。信じた側か、信じられた側か、どちらかが裏切り者となるのが、青春時代の恋の到達点なのだろうか。
*
蓉子は歌うことが得意だった。好きだというよりは、小さいころから父の影響で合唱や音楽に携わっていたのも有り、ある種生活の一部となっていたのである。しかし中学生になると、仲の良い友達同士でカラオケに行くことがブームになり、行事の打ち上げなどでも参加せざるを得ない時期を迎えた。
「蓉子も歌いなよー。」
「私、こういうの苦手で…。」
最近の音楽にも疎いし、と大勢で行くときには一曲くらいしか歌わないことが多かった。テレビで流行りの曲を選び、皆と一緒に歌えるようなものを選ぶ。小さめの声で歌うと、男子が面白がって「もっと声出せー!」と騒いでくる。女子はそれをみて面白がる。
(これでいい。)
目立たないように、空気を壊さないように、笑いがとれるように。他人の目を気にしては駄目とよく言うけれど、深入りしたくない場所での生き方は、これが正しいと信じている。
転換期は高校二年のころだった。
仲の良い友達の恵美に好きな人ができた。恵美は可愛いし明るいクラスの中心的な存在だが、出席番号の関係で入学式の頃最初にできた友達で、大人しい私とも一緒にいてくれ、クラスの輪に入れてくれる優しい子だ。そんな恵美が好きになったのは体育祭の時に同じ委員会になり親しくなったという野球部の瀬戸君だと教えてくれた。
「こんなこと、蓉子にしか話せなくて。他の子に話したらすぐに広まっちゃうから…。」
恥しそうに告白する恵美が可愛くて、私はその恋が実るように応援することを決めた。
もしサッカー部やバスケ部のチャラチャラした人だったらどうしようと思ったが、真面目で人望のある瀬戸君と恵美はとてもお似合いだろうなと思った。
席替えがあり、私は瀬戸君の隣になった。恵美から何か言われるだろうかと思ったけれど、恵美はむしろ話すきっかけになりやすいと喜んだ。休み時間のたびに私の席に来て、隣の瀬戸君にもさりげなく話しかけていた。なんとなく私も混ざっていたが、恵美の邪魔をしないように、消される前の黒板を急いで写す作業を続けた。
「田中、さっきの数学写せたか?」
「え、じ、実は式が途中で消されちゃって…。」
恵美がトイレに行っている時、瀬戸君が私に話しかけてきた。一対一で話すのはこれが初めてかもしれないと変に声がどもってしまう。すると瀬戸君は引き出しから大きな字で「数B」と書かれたノートを差し出してきた。
「汚いけど、写していいよ。さっきのところ難しかったし途中式ないとわからないよな。」
『ありがとう、借りるね。』
『大丈夫、あとで恵美に借りるから。』
どちらで返しても他方に申し訳がない気がして、戸惑っているとチャイムが鳴った。瀬戸君はさっと私の机にノートを投げて、気づかないふりをして朝礼をかける。私はぺこりと頭を下げて、早く写してしまおうとペンを走らせた。
「ということがあったので…恵美ごめん。」
「何それ!一々謝らないでよ、隣の席だしそのくらい優しい瀬戸君が私は好きなんだから。」
恵美は軽快に笑い飛ばした。それもそうか、と私も笑う。テストが終わったばかりで部活生は部活を再開している放課後。生徒会に入っている恵美と私は生徒会室で委員会の書類をまとめていた。
「ここからだと野球部見えないから残念だな。」
「試合の応援とか行くのはどう?」
「彼女じゃないのに無理だよ!」
小声で話していると、副会長からの視線を感じた。私たちはさっと顔をもどして、18時ごろまで作業を続けた。
私と恵美の家は近い。中学はギリギリ違ったが、それを知って以来私たちは近所の安いカラオケにしょっちゅう行くようになった。恵美には私の歌をきいて貰いたい、そう思って、一番好きなラブソングを歌ったのを覚えている。
恵美の反応は、それはもう照れくさくなるほどだった。「蓉子の歌が大好きだ」とか、「毎週聴きたい」とか。恵美も私とよく行くようになってからカラオケが大好きになり、最初の頃よりとても上手になっている。私たちは二人で行くときには採点をして遊んだりするが、他の子が混ざると恵美は私を誘わない。
「蓉子が歌とても上手いってことは私だけが知ってたいんだ。」
いつになく真面目な顔で言われた言葉が脳裏に張り付く。冷房の効いたカラオケから出て、自転車を押していた帰り道で恵美は言った。風が温風のように吹いて髪が顔に張り付く。
「私も、恵美にだけ聴いてほしい。それに楽しくしているカラオケの空気壊したり、妬まれたりしたくないし…。」
にっこりと笑った。放課後はサラサラの髪をおろしており、そのせいか恵美はとても大人っぽく感じる。
私たちは自然と手を握って、帰る。
金曜日の今日も生徒会の後にカラオケにやってきた。そこでマイクを持った恵美が、エコーをかけながら話を切り出す。
「あのさ、来週の日曜日、野球部休みなんだって。」
「へえ、遊びに誘ったら?」
「うん。そのつもりでもう誘ってあるの。それでご飯食べたりカラオケに行ったりする予定なんだけど…。」
いまいち恵美の意図が読めなかった。相談に乗るまでもなく流れも計画も完璧だから。
「蓉子にもカラオケに来てほしいの。」
どうして、言わなくても通じたようで、自嘲気味に微笑んで恵美は続けた。
「私、蓉子のことが好きなの。それはね、蓉子の歌を初めて聞いた時だった。だから、瀬戸君を好きな自分がまだ信じられなくて、確かめたいの。瀬戸君の隣で蓉子の歌をきいても、私は瀬戸君が好きなのか。瀬戸君が蓉子の歌をきいて、蓉子を好きにならないかどうかを。」
私にだけ歌ってほしい、そういった去年の恵美に訪れた転換の瞬間だった。
あの時の恵美との約束を破ることになる。そしてもし恵美が懸念している方向に事態が進んだら、私たちの関係も壊れてしまうかもしれないと思った。でも私は、ここで断ることそのものが、恵美への裏切りだと考えて、同様にマイク越しに「わかった」と答えた。
声はいつになく小さいものだった。
*
恵美に好きな人ができて、デートすることになったが私もカラオケに誘われた。恵美のためだけに歌うと決めたカラオケに、3人でいくことになったのだ。彼への愛を確かめるためだという。いいように恵美に利用されているなんて全く思わない。でもあの頃の約束がなくなる日がついに来てしまったことに、前日まで私は良く眠れない夜を過ごしていた。
やがて当日になり、途中からカラオケにだけ参加することになった私は昼ご飯をファストフード店で安く済ませて携帯を開く。こまめに連絡をくれて実況していた恵美だが、先ほどから連絡がない。うまくいっていないのだろうかと不安になったその時、画面に恵美のアイコンとともにメッセージが表示される。
『告白された』
恵美からするつもりで計画していたのだが、瀬戸君も今日告白するつもりだったのだろう。途中から私が来ることを知っているから、先にするだろうなと私は予想していた。恵美には誤算だったようだが。
十分後に再びメッセージが来て、着いたようなので残ったポテトを口に突っ込み席を立ちあがる。
外は私と反対に気持ちの良い湿気のない天気だった。風は少し冷たい気がした。
「わ、私が混ざってごめんね瀬戸君…。」
「いや、全然いいって!た、メグの親友は特別だと思ってるし、俺も仲良くしたいし…。」
「私達付き合うことになったの蓉子。」
「知ってる、おめでと。」
恵美のことをメグって呼ぶのはきっとさっき決めたことなんだろう。瀬戸君は恥ずかしそうに目を泳がせている。私はこれから恵美が行う確認で、この関係がブツリと切れてしまうのを恐れているのだろうか。背中から冷たい空気が入り込む感覚に襲われる。立ち話もなんだしと、恵美が率先して私達行きつけのカラオケで受け付けを済ませる。
「瀬戸君、どんなこと言われても、恵美のこと好きでいてあげてね。」
「当たり前だろ。なんでそんなこと…。」
私が瀬戸君に小声で話すと、恵美が急にこちらを振り返った。心臓が激しく鳴って、一瞬止まったかと思った。
「私、二人とも愛してるよ。それでもいいの。」
恵美の意味に気づいたのか瀬戸君が息をのむ。背中で手を組んで上目遣いで語りかける恵美は、怖いのに、綺麗だった。
カラオケは何事もなく終わった。
偽らずにいつもの歌を披露すると、恵美は聞き入ってうなずいていたし、瀬戸君も私をからかったりしないで純粋に褒めてくれた。この二人となら気持ちいい声が出せると思った。恵美も瀬戸君も歌い、何巡かして、恵美がデンモクを弄るのをやめた。判断が下るのかと、私は覚悟を決めたつもりだった。そういう時、決まって恵美が先に話を切り出すのである。
「瀬戸君、私たちとこうやって歌ったりするのってとても落ち着くと思わない?」
「え?た、確かに気が楽で二人ともうまいしすげえ楽しいよ。」
蓉子もそう思ってるんでしょ。その声に、彼女に心を読まれたのかと疑う。
「私は瀬戸祐樹君を一番に愛してて、田中蓉子も同じように愛してる。瀬戸君は私を一番で、蓉子も友達として好きだよね。」
恵美の言葉に瀬戸君は黙ってうなずく。
「蓉子は」
瀬戸君二は聞かないのに、私には確認してくるんだ、と身体がこわばる。この方程式から考えると、私は二番目になってしまうと思った。恵美の一番から、二番になってしまうのだと。認めたくない。三人で仲良くしよう、そういった平和的結末を望んていたはずなのに、今はそれが酷く汚い狡いことのように思えた。
手を取るのか鋏を持つか、物語の決定権は必ず「信じられている」方にあるのだといつか聞いたことがある。ならばこの結末を作れるのは、今この場を支配しているのはもしかしたら私なのだろうか。
ぞくり。
なぜだか口角が上がり、同時に恵美への愛が、今までせき止められていたものが決壊したように外に出ていく感覚を味わう。
二人の顔は見えない。
私にとって、深入りしたくない場所での生き方は楽だった。いくらでも偽って、邪魔にならないようにすればいいから。
だけど深い場所はとても息をするのが難しくて。偽れないし、邪魔になる。邪魔もしたくなる。醜い。酷い自分が抑えられなくなる。
でも大丈夫だよね。何を言われても彼は恵美のことを好きでいると言ってくれたから。
私が何を言っても、大丈夫だよね。
駄目だわ。
正直に生きなさい。
裏切りたくない。
裏切りたいんでしょう。
「うん」
――ある時ふとその場所を壊したくなる。
――ある時偽らない自分が囁く。
――愛する人を巡って生まれる黒い感情が。
「恵美、私はね」
Fin.
信じられると裏切りたくなる、愛ゆえに。
そういうコンセプトの物語です。
ありがちな、親友が恋人にとられるという話ですが、恵美はどちらも愛しており、蓉子も恵美を愛しています。瀬戸君は自分に正直でまっすぐで、そういう女の子の感情が理解できていないただの好青年です。だからこそ蓉子も悩み、葛藤します。
最終的に恵美とどうなったのか、その後についてはご想像にお任せいたします。
ハッピーエンドはないと思うので(どの結末でも)、難しい所ですよね。
信じることは簡単ですけど、とても確証のない、いわば究極の無意味だと私は考えています。相手の采配ですべて決まってしまいますから、どうしようもないからです。それでも親友ならば信じてしまうもの。でもそこに愛が生まれたら?
愛しているからこそ、裏切ってみたくなる、そういう黒い感情が、好きすぎると生まれると思います。そんな感情を今回蓉子に与えてみました。
ここまで読んでいただきありがとうございました。