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夢を患う者

作者: にゃんこ姫

冷たくも生暖かい陽射しで彼は目覚める。朝は彼にとって心安らぐ時である。というのも蚯蚓がやってこないから----。朝は蚯蚓が来ないほんの僅かな時間だ。朝は黒い表面に光の斑点があるだけの異様な世界を、灰色の光あふれる世界に変える。しかし彼にとってはそのちょうど逆のようである。彼にとって一日は無限に辛く、永遠のように長い。彼は寝床から起き上がった。

彼の朝食はいつも同じである。ホットコーヒーとバターをパンの上に塗っただけの質素なものだ。パンを食べながら彼は感じる、蚯蚓の気配を。外からは陽射しとともに、小鳥の囀りが聞こえる。彼にとってはそれは安らぎを与えるものだ。というのも、彼は光を、音を欲しているのだから。それは蚯蚓の歩みを止めてくれるものである。コーヒーから立ち上る湯気を彼は見つめる。まるで……いや、考えないようにしよう。それは蚯蚓の進行を進めるものであるから。無音の室内に彼がパンを食べる音だけが響き渡る。昨日の暖房のためか、部屋の空気がどんよりとしている。彼は椅子から立ち上がり、窓へ向かった。

白い半透明のカーテンを開き、窓を開けると針のような冷たい空気が肌に突き刺してくる。彼は窓から顔を出し、道路を見下ろした。黒いスーツに水色のネクタイをして、黒い鞄を持ってまっすぐ前を見て歩くサラリーマンの姿、紫色の服にベージュのロングスカートを着て赤いリードでチワワを散歩させるアフロヘアーの中年の女性の姿、真冬にもかかわらず半袖に短パンで白い息を荒々しく吐きながらランニングをする若い男性の姿を無心に見る。何も考えないことが少しでも蚯蚓の歩みを止めてくれるのだ。それでも蚯蚓は確実に近づいている、いや、むしろ彼の方から近づいているのかもしれない。彼は椅子に座り直すと、今日は何をすべきかと考える。彼は何をするかについての権利は持っていない。なすべきことをなすまでである。彼は椅子から立ち上がり、ハンガーに掛けてある外套を手にとった。外套を羽織り、ボタンをかけ間違えないように慎重にかけると、目的もなく家を出た。目的がないことこそが目的であるかのように。

彼は家からそう遠くない距離にある喫茶店で憩うことにした。艶のある重厚な木製の扉を開けると、「いらっしゃいませ」と若い女性の店員が言う。軽く会釈をし、カウンターにあるメニューを見る。左上の隅にいかにも喫茶店らしいスタンダードなメニューがある一方で、パフェの鮮やかな色彩が目に映える。冷えた喉を温めるためホットミルクティーを注文する。お釣りなくちょうど四二十円を渡すと、長テーブルの突き当りの席に座った。今まで意識していなかったが、曲が流れていることに気づく。しっとりとした、昭和を思わせるような曲である。彼は一度周りを見渡したあと、カウンターから彼の座る席の二つ隣りの後ろまで続く本棚にあるものの中で適当に目についたものを読むことにした。とにかく、蚯蚓の存在を意識しないことが蚯蚓の進行を止めるのである。

絵本が所狭しと並んでいる。「白雪姫」、「ぐりとぐら」、「グリム童話」……。この棚はどうやら子供向けの本が並んでいるようだ。彼は隣にある本棚に目をやった。こちらは大人向けである。官能小説や自己啓発本、哲学書などが並んでいる。誰が手に取るのだろうか、二冊ある「百科辞典」が幅広くスペースを占領している。「死に至る病」を手に取る。彼自身が選んだのか、あるいは何者かに選ばされているのかは彼にはわからないが、とにかくこの本を読もうと思ったのだ。本を左手に提げながら、席に戻った。店員がこちらへ向かってくる。カップが一杯だけ載ったお盆がまるで宙を舞うようにこちらへ向かってくる。店員はミルクティーが入ったカップを、日常の地震が起きたぐらいではこぼれないくらいの量のミルクティーが入ったカップを、丁寧にテーブルの上に置いた。しばらくして、ミルクティーを手にし飲もうとした途端、すぐ後ろを店員が通る。左手はカップが二杯載った円いお盆を支えている。右手には何も持っていない。店員は彼のすぐ後ろで曲がり、円テーブルの席の方へ向かった。

店内にはゆったりとしたクラシック風の音楽が流れている。オレンジ色の灯が照らす店内の雰囲気にちょうどあっているように感じる。ふと彼が思いだすのは、自宅近くを流れる川の姿である。岩間を荒ぶる龍のように下った後、時間が止まったようにゆっくりと流れる水。彼の中を流れる時間とはちょうど逆のようである。彼の意識は下流から上流へ流れる川の中で溺れているのであり、無意識は意識から引き裂かれ、上流から下流へ流れる川の中で溺れているのである。

さて、と思いながら彼は本を読み始める。意識が本に向けられる。本に語られているものの塊が、文字の裏側にある本が伝えようとするものの塊が意識に浸透していく。塊は文字という媒介を通じて、彼の意識に到達する。もちろんすべての塊が意識に浸透することはできない。文字による媒介の過程で不純物が混ざることもある。しかしそれでも確実に、塊は文字に濾しとられながらも、彼の意識に到達しているのである。しばらくすると症状が出る。文字を見つめる。文字の形を見る。文字の形を追う。文字を見つめなければ……。読み方が構造化する。構造的に読む。これは彼の望んだことではない。だが、そう読まずにはいられないのだ。彼は本を閉じる。もう読んでいても仕方がない。蚯蚓が彼の意識をそれ自身に写したためである。彼は彼自身に巣食う蚯蚓の存在を思う。彼は読むことに集中できない。彼は構造をつかむことに集中してしまう。その読み方では本が記号の集合体と化してしまうことは彼も知っている。だが彼はそうせずにはいられないのである。人々は言う。考えすぎだと。気にしなければよいと。抑え込めばよいと。しかしこれらの人々は大きな誤解をしている。蚯蚓は決して実体であり、包括できるようなものなのではない。いわば波なのである。この決定的な認識の差異により彼と人々との議論は無駄に終わるのである。蚯蚓の這いずるが聞こえる。いや、聞こえるのではない、見えるのである。もう何物も蚯蚓を止めることはできない。蚯蚓は盲目的な無敵の侵略者と化したのである。蚯蚓は意識にまで入り込む。蚯蚓は意識を包み込みながら侵食する、侵食しながら包み込む。蚯蚓の媒介を経て、彼は意識を、意識そのものを感じる。それはのっぺりとした混沌の塊とでも、秩序的に構成されたニューロンが生み出す混沌の塊とでもいうべきものである。意識の姿、意識の音、意識の味……。意識が五感によって感じられる。意識が意識によって感じられる。ありとあらゆる妄想が、蚯蚓の接触によって溢れ出す。目の前にあるもの、聞こえるもの、どれが現実でどれが幻か。彼は妄想に引き裂かれそうになる。人間はあらゆる矛盾の綜合である。彼は辛さのあまり、自己自身を脱け出したいと思う。しかし、それが彼にはできない。彼が自己自身を脱しようとすればするほど、彼はますます自己自身であるのだ。蚯蚓は止むことを知らぬように流れ続け、意識を侵食し、彼を蝕んでゆく。蚯蚓は想像と不安である。それが不安を纏った想像なのか、想像を纏った不安なのかは彼にはわからない。とにかく何でもないような想像が彼を不安に陥れるのである。確かに蚯蚓は存在しない。そう、蚯蚓は幻なのだ。しかし、蚯蚓は幻の存在である。すなわち彼にとっては存在しないというちょうどそのことが、存在しているということなのだ。彼は蚯蚓に蝕まれながら、ただただじっとしていた。

「どうしたんですか、そんな真剣な顔して」若い男の声が、彼を現実へと呼び戻した。

「いえ、なんでも。少し考え事をしていただけです」彼は咄嗟に返事をした。彼は自分が何をしていたかは知られたくなかった。彼はそのことを恥ずかしいことだと思っていたからである。

「隣、いいですか」若い男が言う。彼は返事をせず、数回頷きながら視線をミルクティーの方に向けた。彼は誰とも話をしたくなかったが、なぜだか少し嬉しく感じた。それはただ単に話をすることで蚯蚓のことを意識しなくてすむからではない。ただ純粋に関係性の中に彼自身を置くことで、彼自身を相対化したかったからである。彼自身が孤独でなくなることで、彼は底知れぬ安らぎを覚えることができるのだ。

「ここにはよく来るんですか」若い男が尋ねる。

「ええ、まあ」彼は慎重に返事をした。彼は蚯蚓に対抗するため、慎重に話さざるを得なかったのだ。

「その本、私も読んだことありますよ」若い男は本を指さしながら言った。

「そうですか、どうでしたか」

「難解な本ですが、奥が深いです」彼の眼には興味がないとは言わせない鋭い眼差しがあった。

「ところで、神は存在すると思いますか」若い男は神妙な面持ちで尋ねてきた。

「いいえ、存在しませんよ。神は弱い人間が作り出した虚構です」

「そうですか、私は存在すると思いますよ」彼はどこか虚しげな様子で返事をした。

「どうしてそう思われるのですか」

「実は私、キリスト教徒なんです」彼は少し驚く。というのも、彼はいままで宗教というものに触れたことがなかったからである。なるほど、それならば何を言っても無駄であろうと彼は思った。

「それにしても、今日は特段に寒いですね」特に話したいわけでもなかったが、微妙な空気を変えるために、彼は彼の方から話した。

「そうですね。でも、私は北海道から来たのでむしろ暖かく感じました」彼はしまったと思ったが、すぐに若い男が話す。「今回、外資系企業との交渉ために北海道から来たんです。この交渉が成功すれば、私の会社はこの先しばらく安泰でしょう。ああ、いい忘れてました。私、実は乳製品関係の会社を経営してまして、このたび大手の方からの受注の依頼が来たんです」彼はひどく感心した。この年にして会社を経営しているとは、なかなかのやり手だ。思えば身嗜みがどことなく高級感を漂わせている。若い男は続けて話す。

「良かったら我が社のチーズを試食してみませんか」彼は特に問わる理由もなかったので快く返事をした。若い男は鈍く光る黒い鞄から、透明な包み紙に覆われたキャンディーの形をしたチーズを一つ取り出した。

「どうぞ」彼はそれを受け取り、両端を引っ張って包み紙を外し、チーズを口へ運ぶ。それは豆腐のように柔らかかったが、粘り気があった。彼は若い男に向かって数回頷いた。

「そうですか、それはよかったです。ああ、なんだか商品の宣伝みたいになっちゃいましたね、すみません」若い男は微笑しながら頭を少し下げる。彼は視線をカップに向けながら左手でそれを持ち、口に近づけた。カップが鋭い音を立てて皿の上に置かれた。

「今回は一緒に居させていただきとても楽しかったです。機会があればまた」彼は丁寧に会釈をした後、彼から去っていった。彼は再び一人になった。またいつ蚯蚓がやってくるかも分からない恐怖に耐えながら、彼は再び本を読み始めた。蚯蚓はいつの間にか去っていた。またすぐに来ることは分かっていたが、彼はこの僅かな貴重な時間を、できる限り有効に使いたいと思う。簡単に速読できるような本ではなかったが、彼は理解を後回しにして字面を追った。

「お客様……あの、……お客様」

その声で彼は本から引き剥がされた。

「申し訳ございませんが、当店はもうすぐ閉店の時間になります」

彼は周りを見渡した。彼と店員以外、人影はなかった。

「あっ……すいません、すぐ出ます」

彼はそそくさと支度をすると、本を本棚に戻し、足早に店を出た。

なんだったのだろう。彼は自身が過去に置いてきぼりにされたような気分だった。冷たい風にさらされながら、彼は家路につく。

尻尾を垂直に立てた三毛猫がこちらを見ている。おそらく野良猫だろう。黄色と緑色が混ざった宝石のような瞳に月の光が反射して神々しく光っている。彼はふと思い、外套のポケットにしまっていた菓子の袋を開け、中身を放り投げた。三毛猫はゆっくりと動き始めたと思ったら素早く近づき、匂いを嗅ぐような仕草をした後、くるりと回って走り去っていった。彼はその菓子を踏み潰した後、体を震わせながら家に入った。別に寒かったからではない。終焉を見たからである。今日もまたどこかで何かが終わる。明日はまたどこかで何かが始まるだろう。

彼は中華街で買った肉まんを食べながら、海へ向かった。数羽のカモメが濁った銀色の手すりに留まっているのが見える。遠くには男女二人が互いに寄り添って座っているのが見える。彼は海を眺める。波打ち際では波がきたり引いたり、円環の時間が流れている。彼は円環の時間を生きる人々を思う。こちらがだめならあちらで、あちらがだめならこちらでというような、あちらとこちらを置き換えれば何ら変わらないようなシーソーゲームの中で居心地の良さを感じ佇む人々を思う。水平線には、高層ビルを海に移したような豪華客船の先には、太陽の光が海に反射して輝いている。無数のカモメが輝く翼を羽撃かせているようにみえる。振り返ると横浜ランドマークタワーが見える。天を貫く孤独の巨塔の中ではおそらく零か一かのディジタルなデータを受け取り、喜ぶ子供たちがいるだろう。動物を模った風船をきゃっきゃと言いながら受け取る子供たちがいるだろう。

人々は現実の限界性の故、あるいは退屈性の故、仮想世界を切望する。それは少なくとも、より自己の欲求通りに動く、理想の世界である。ヴァーチャルな世界ではもはや現実性を必要としない。自己が可能性=神として存在するのである。しかしそれは有限の可能性であるが故、結局は自己自身に対して絶望しなければならなくなるのである。

彼は海を見捨てようとした。正確に言えば海に映る世界を見捨てようとしたというべきだろうか。しかし彼が見捨てようとした世界はまさに彼が必要としていたものであった。彼は矛盾が巣食うのを感じ、悪寒に震えた。

家路の途中の電車の中で、彼は思索に耽っていた。

戦後以来のコスモポリタニズムの終焉----世界は平和と戦争の狭間にある。最近ではロシアがクリミア半島を編入し、冷戦の再来とも言われている。ミクロ=カオスであり、マクロ=コスモスであるのは自然の摂理であり、人間の活動がカオスとコスモスの両義性を持つのはこの中間に位置するからだという考えは確かに理にかなっている。しかし彼の考えは異なっていた。彼はカオスとコスモスという対立的な構造を崩し、コスモスはカオスの一側面にすぎないと考えていた。物事はすべて、原始ではカオスであり、コスモスは不安定な、カオスの一形態に過ぎないと考えていた。電車の窓から見える天に対抗するかのような摩天楼を見上げながら彼は思う。我々はどこへ向かっているのか。終わりのない経済発展の末に何を見るのか。全世界を生活装置で覆うのか、あるいは月や火星に居住する時が来るのか。「征服」を目的とする西欧思想に飲み込まれる世界の行く末を思いながら、彼は身震いをした。

昼間の明るさに負けず、懸命に輝く月が見える。可能性が見える。反射される無数の光の筋は、新たなる可能性であった。可能性に投企しない者は愚かである。可能性と現実性との対話が主体性を弁証法的に高める。それは目標を持つことである。現存在における現実性と未来存在における可能性との対話、あるいは現存在における可能性と未来存在における現実性との対話が主体性を高める。しかし自己自身の現実性を自己自身の可能性に投企することはできない。なぜなら自己自身の現実性とは自己自身の可能性そのものであるからである。

彼は感じる、掴みどころのない灰色の、都会の現実性の集合体を。ここでは人は自己自身の可能性を固定し、自己自身の現実性によって生きる。換言すれば、自己の可能性を中心にして生きる。それは有機的な個人の群体ではなく、無機的な集合体である。それは排除性と染色性を併せ持つ逆説的な集合体である。そこではもはや個人としての概念はなく、ただ集合体の一員としての概念のみが存在する。機械論的な価値観の潮流は今や機械的に還元しえない人間存在そのものにまで及んでいる。

国会議事堂の前に人が集まっているのが見える。おそらく何らかのデモだろう。この辺りでは毎週のようにデモが行われている。都会から疎外された人たちが、何かをを掲げながら行進している。彼らはこの運動の中で、自身の可能性を動かしている。可能性の固定による現実性の流動との断層を、ここで修正しているのかもしれない。都会とはそういうところだ。理想が具現化し、現実が抽象化するところである。一部の者がそれに虚しさを感じ、抵抗しているだけである。彼自身もまた、その中の一人である。大衆は彼を気違いと罵り、精神病棟に入れたがるが、大衆は自身が集合体に埋没し、無機質な思想に染まり、形のない夢想に耽っており、大衆社会という精神病棟に入れられていることに気づいていない----形容すべきようのない愚か者!

彼は侮蔑の表情を浮かべながら天を仰いだ。それは大衆に対するものであるとともに、自己自身に対してのものでもあった。いや、むしろ大衆を愚かだと思う自己自身の愚かさの方が大きいのかもしれないとも思うのである。月が太陽の光を、星々の光を反射して黄色く輝いている。彼は思う。広大な宇宙で唯一無二の実存である自己。実存である自己とはどういうことか。実存とは存在ではないのかもしれない。ただ実存は確かに存在する。それはおそらく、関係性の結節点としての自己を包むヴェールのようなもの、それこそがある見方において関係性と区別されて実存として見られるのであろう----その見方こそが彼が求める生き方に外ならない。突然、外套のポケットに入れたスマートフォンが振動する。

画面には「新着:一件」と書かれている。

メールにはこう書かれている「あのときはごめんなさい。あなたと会えなくなって初めて気づいたの。もし許してくれるならもう一度お願いします」鋭くも柔らかい、朱い閃光が彼の胸を貫いた。それは彼の胸に再び火を灯したのである。しかし彼はすぐには返信できなかった。というのも、彼には切断された糸を編み直すだけの気力がなかったからである。彼の心には光を遮る巨大な影があるのだ。彼の心は巨大な影の中で、宙に浮いているのである。灯された火はいまや影に飲み込まれてしまった。彼は目を瞑りながら、スマートフォンを外套のポケットにしまった。それ以後、彼は彼女に返信することはなかった。

朝が来る。いつもと同じだ。一筋の光が彼の眼を照らす。漆黒の世界が、朱色の世界に変わる。彼は眼を開ける。いつもと同じなどない。いつもは過去だ。今は現在である。昨日のことを思い出す。あのことは正しかったのか。きっとそうであろう。彼はそう思わずにはいられなかった。彼は寝返りをうった。眩しさが消える。彼は居心地の悪さを感じた。再び寝返りをうち、一筋の光を浴びる。一筋では足りなかった。彼は無数の光を欲していた。

家を出ると、三毛猫がこちらを見ている。朝方に現れるのは彼には珍しく思えた。三毛猫は手足を体の中に埋め膨れた湯湯婆の形状をしており、先端では尻尾がまるで行き場のないような様子でに左右に行ったり来たりしている。ときおり目を瞑り、今にもあくびをしそうな表情をする。彼は猫とにらめっこをする気にはなれなかった。それでも彼は猫を放っておくことはできなかった。それは猫の内から生じて彼に伝わる受動的なものなのか、あるいは彼自身の内から生じるもの能動的なのかはわからないが、猫には彼を惹きつける何かがあった。彼は心が揺れ動くのを感じ、立ち去ることも、近づくこともできないでいた。

突然猫が慌てた様子で回れ右をして走り去っていった。一瞬彼は途方に暮れたが、原因はすぐにわかった。その直後、彼の右側を猛スピードで黒いワゴン車が突き抜けていったのである。彼はもう少し猫を見ていたかったため腹を立てたが、青空のような虚しさがすぐにそれを打ち消してしまった。彼はその虚しさを解釈してみた。

それは部外者の叫びであろう。都会は人間だけの世界である。人間のみが住むようにテラフォーミングされた世界である。動物が安住するならば、道具と化さなければならない。人間に利益をもたらして初めて「家族の一員」などと美辞麗句を与えてもらえるのである。道具化は人間自身にも及んでいる。人間が道具と化した存在。それこそ可能性の固定された、現実性としての人間なのかもしれない。近年の厳罰化は人間を不良品と考える側面の表れであり、親が望んだ特徴を持つ子供を憧れるのも人間を所有物と考える側面の表れであろう。彼にとって小さな部外者は、人間に対して警告をしているように見えたのである。

彼は川沿いを散歩することにした。上流から下流へ向けて流れている水。地球の重力のなすがままに流れる水。それでいて掴みどころのない存在であり、あらゆるものを巻き込みながら流れる。長い時間をかけて海から蒸発し、雲となり、雨となって降り注ぎ、再び川となる。大衆もまた、いや、人間もまた……。円環の時間の流れは自然の摂理であろうか。彼は横浜で見たあの波打ち際の光景を思い出す。彼は下流に沿って歩き出した。彼から見れば川は止まっているように見える。彼は大衆の一員である。彼は外套のポケットに手を突っ込んだ。

しばらく歩くと干からびた光景が目立ってくる。この辺りは住宅地から遠いためか、手入れが行き届いていない。初夏になるとセイタカアワダチソウの群生が高く聳え、向こう岸が見えなくなってくる。しかしそのおかげか、多くの昆虫の住処になっている。彼も昔は、夏にはオオカマキリを飼うのが年中行事となっていた。毎日のように川へ出かけ、ショウリョウバッタやモンシロチョウを捕まえては虫籠に入れていた。今では夏でも川辺に人の姿はほとんど見ない。有機的な自然の中から無機的な構造の中への移行。都会ではルールや枠組みに縛られた構造的な遊びがみられる。すれ違う人はスマホに目を向けながら歩いている。近くの公園では少年野球の試合が行われている。都会では自然的な遊びはみられない。都会の人々には混沌性を極限にまで排除し、何物も秩序化された世界のみが与えられるのである。鋭く冷たい風が彼の頬を赤く染める。夏は虫のさざめきで時間を感じるが、荒涼とした光景の広がる冬は、風で時間を感じる。ときどき犬を散歩させる人にすれ違うが、挨拶もせずにすれ違う。互いに相手を個人としては見ていない。大衆の構成物の一つとしか見ていない。

車が間を開けずに通る橋が見える。彼は橋の隣にあるバス停のベンチに座った。彼の前にはバスを待つ人が三人いる。一人は男性で、外套のポケットに両手を入れながら俯き加減にじっとしている。一人は女性で、手鏡を見ながら口紅を丁寧に塗っている。一人は男性で、左手にスマートフォンを持ち、画面を見ながら佇んでいる。数分後には客で半分ほど埋まったバスがやってきて、三人を乗せるだろう。バスは彼をおいて走り去り、彼はまた一人取り残されるだろう。いや、もうすでに取り残されている。もし今ここで、彼がベンチの前に倒れ伏しても、誰も気づかないだろう。あるいは気づこうとしないであろう。彼の構造内で終結する出来事には誰も興味を持たないのである。もし今ここで、彼がナイフを取り出し、目の前の女性の脇腹に刺したなら、二人は女性の鋭い叫び声を聞いた途端、外套に染み込む血を見た途端、慌てふためきながら逃げるか、あるいは何やってんだなどと叫びながら彼を取り押さえるであろう。彼らの構造内の出来事しか彼らは興味を示さないのである。彼の構造と彼らの構造を隔てる壁がある。構造が世界に拡散してゆく。世界は構造によって仕切られている。いや、むしろ世界こそが構造である。構造は構造を創造し、構造によって創造される。彼は彼と彼らを隔てる無限に薄く、無限に厚い壁を見ていた。

気づけば三人は彼の目の前から消えていた。バスの姿ももう彼の見える範囲にはなかった。車の行きかいがなくなる。一瞬だけ、辺りから音が消えた。蚯蚓が姿を表す。それは今までにない速度で、彼を襲ってきた。彼はたちまちのうちに蚯蚓に飲み込まれてしまった。すべてが歪み始める。光が、音が、彼自身が、すべてが歪む。世界が反転しては、元に戻る。道路の真ん中で、得体の知れないものが通っている。彼は恐怖に慄いたが、なぜだかそれが愛しく思えた。彼は右手を伸ばした。手はそれを掴んだ。何も掴めなかった。彼はふと左手を見た。道路が見える。彼は気づいた。体が透けていると。目玉が頭から落ち、鶉の卵のようにベンチの上をころころと転がった後、道路にべたっと落ちた。彼はベンチから落ちた。地中に体がめり込む。体が暗闇に落ちてゆく。彼は恐怖を感じながらも、ひどく心地よかった。終焉を見たからである。それはいつの日か家の前で感じた、あの震えの感覚に似ていた。周りがざわざわしている----気がつくと数人が彼を囲んでいた。既に夜になっていた。彼は流れゆく時間の中で彼だけが取り残されているように感じた。

「大丈夫ですか」中年の男が尋ねる。彼は朦朧としながらもなんとか頷いた。

「よかった、どうしたかと思いましたよ」男はほっとしたような表情をして、溜め息をついた。

「救急車を呼びましょうか」若い女が言う。

「いえ、大丈夫です」彼は絞り出すように返事をした。

「ちょっと、どうしたのこんなところで!」突然バス停に並んでいた若い女性がやってきた。半年前に別れた彼女だった。

「いや、なんでもないよ……」

「なんでもないわけないでしょ。ちゃんと話してよ」彼は抵抗をあきらめ、全てを話した。

「そう……。私に分からないことだけど、あなたがとても辛いのはよくわかったわ」彼女は彼の短い話からすべてを悟ったようだった。

「とにかく、こんなところにいてもしょうがないから、家に帰ってからにしましょ」彼には抵抗する術がなかった。二人は人影のなくなった川沿いを、半年間の出来事を話しながら歩いて行った。家の前に来たとき、三毛猫が団子になっているのが見えた。

「あぁぁ、猫ちゃんだ、可愛い!」彼女はお構いなく猫に近づき、背中を撫でていた。

「ねえ、餌あげてもいい?」

「え?ああ……うん……」彼は一瞬躊躇ったが、考えてみるとと特に断らない理由もなかったので、そう返事せざるを得なかった。彼女は鞄に入れていた蟹蒲を右手の掌に載せた。猫は満腹のアフリカ象のような足並みで近づき、もったいなさそうに食べていた。彼女はその様子をじっと眺めていた。

「何やってるの、鍵を開けて」彼女は不貞腐れた顔で彼に言う。彼は言われるがままに鍵を開けた。彼女はまるで新築の自分の家の如く彼の部屋に入る。それはどこかふてぶてしくもあった。

「ああ、もう!やっぱりあなたは私がいないとだめね」彼女たった今彼が起きたばかりのようなベッドの上に放置されたパジャマと、テーブルの上の食べかけのカップ麺を見て言った。彼女はベッドを整理し、カップ麺を片付ける。部屋には愛らしくもよそよそしい空気が流れていた。彼女はベッドに腰を下ろした。

「ねえ、ここに座って」彼女は右手でベッドの上をぽんぽんと叩いた。彼は言われたとおりにそこに腰を下ろす。部屋の中を虚ろに見渡した後に彼女は言う。

「ねぇ、もうわかっていると思うけど……」

「何?」彼は溜め息をつきながら返事をする。

「もうっ、鈍いわね」彼女はあきらめたように思いをすべて話した。

「ねぇ、いいでしょ?その方があなたのためにもなると思うわ」部屋にはしばらくの間沈黙が流れていた。彼は意を決したようにゆっくりと頷いた。彼女は緊張の糸が解れ、ほっとしたような表情を浮かべながら、両手を天井に向かってあげ、ベッドに横たわった。よそよそしい空気は消え去り、悠久の純粋な時間が流れていた。それはいま世界中どこを探しても、おそらくここだけにしか流れていないような純粋な時間だった。彼は彼女に寄り添うように体を横たえた。彼女は眠っているようだった。彼は天井を見上げた。二人は一つの構造の中に実存として存在していた。決して構造には還元できない実存としての実存。それは常に生まれ変わる可能性を秘めた果てしない存在である。小宇宙の中で二つの伴星が互いの周りを回っていた。彼は眠るように目を瞑った。現実性と可能性が交叉していた。それは螺旋を作りながら過去へ、そして未来へと拡散していた。もはや存在そのものを問題にすることはなかった。存在という構造を超えたその先に、存在をその存在により包み込む実存性を見たからである。だが実存はそれ自体で完結することはなかった。それは常に新たな実存を求める投企的存在であるからである。彼は自己自身を投企する可能性を欲していた。彼はいつの間にか眠りについていた。


「んんっ……あれっ、朝?」彼女は目を半分だけ開けた。目に射し込む陽射しを避けるために右手を顔にやる。何にも触れなかった。彼女は彼がいないことに気づいた。慌てて起き上がると、彼はキッチンで何かをやっていた。

「これしかないけど、よかったら」彼はパン二つとホットコーヒー二杯の載った皿を持ってきた。彼女は少しほっとした。

「大丈夫そう?」彼女がパンを手に取りながら尋ねる。

「それは分からない」

「心配しないでね。私がいるから」彼女は自身に満ちていながら、不安そうな顔で答える。

「……そうだね」彼は鉄の衣がとれたような感覚を感じ、とても心地よかった。彼は真に彼自身になれたような気持だった。そしてまた彼女も錘がとれたように思い、とても快く感じていた。

「実は、行きたいところがあるんだ」彼は意を切ったように話した。

「どこであろうとも一緒ね」彼女は気にかけることなく言った。その言葉を聞いて彼はひどく安心したようだった。これ以上何も言うことはなかった。彼らは存在によって対話していた。二つの存在の二重性が互いに絡めあい、新たなるものを作り出そうとしていた。

二人は横浜ランドマークタワーを望む海に来ていた。

「僕はここで世界を捨てようとした。でも捨てきれなかった。それ以来世界は僕にぶら下がった、宙ぶらりんの状態でいたんだ。でも君に会ってから気づいた、僕は世界を拾うべきだと」

「……実は私も似たようなものなの」彼女は俯き加減に言う。

彼は彼女の肩に手を乗せ、二人はゆっくりと階段に腰をおろした。

「あなたと別れて以来、世界は私を取り残したわ。私は世界を呼んだ。でも世界は振り向かなかった。世界は私を裏切り、私は孤独そのものだったわ」

彼女は涙ぐみ、いったん話が途切れた。

「夜も眠れなかった。目を瞑ると自分が孤独であることが生々しく感じられたのよ。だから毎晩、睡眠薬なしでは眠れなかったわ」

「……いいよ」彼は腕を彼女の方に回した。

「仕事も手につかなくなって休んでる。最近は暇な時に実家の手伝いをしているわ」

彼女は涙がこぼれるのを抑えるため、天を仰いだ。

「私は世界を見失った。どこを見ても世界の姿はもうどこにもなかった。それほどまでに私は孤独だった。でもそんなとき、バス停であなたの姿を見たのよ」

「…………」

「私はもう二度と別れたくないと思ったわ。そのために強い人であり続けた。でももう限界よ……」

彼は黙って彼女の頭を撫でた。彼女は涙を手で拭きながらも、笑顔でいた。

「受け入れてくれるよね」彼女は潤んだ目で彼を見つめながら言った。彼は黙って腕を引き、彼女を抱き寄せた。彼の世界に彼女がいる。彼女の世界に彼がいる。二人は世界を受け入れていた。

「もう私は世界を見失わないわ」

彼女は涙を啜りながら、水平線を見る。その瞳には海が映っていた。彼女は世界を取り戻した。

二人は再び手にした世界を握りしめながら、決して放すまいと誓った。空では数羽のカモメが純白の翼を広げていた。世界は二人を祝福していた。そこには二人だけの構造が広がっていた。

二人は海岸を歩きだした。彼は彼女の手をぎゅっと握りしめる。彼女はにっこりと微笑んで彼を見つめた。混沌が新たな体系を創り上げていた。それは近づき、遠ざかりながらも互いに結ばれ、大いなるものを創造しようとしていた。二つの世界は交叉しながら結びつき、一つとなろうとしていた。二人は同じ世界を眺めていた。

二人は駅近くのレストランにいる。

「何食べる?」彼女はメニュー表を見ながら言う。

「ハンバーグかな」彼は背もたれに寄りかかりながら言った。

「じゃ私はフルーツパフェで」

彼はハンバーグセットと野菜サラダ、メロンソーダを注文し、彼女はフルーツパフェを注文した。

「いいね、二人でこういうの」彼女はにっこりと微笑んだ。

「ああ、僕たちだけの世界だ」彼は眺めていたメニュー表をテーブルの上に置いた。

彼女は窓から見える街並みを見る。コンクリートで固められた地面、常に一定のリズムを刻むエスカレーター、天を貫く高層ビル。どれも二人には似合わなかった。彼女は彼の方を向く。

「外は退屈だわ」彼女は呟いた。

「そうだね。でも僕たちは外によって創られ、支えられている。不思議だよ。」彼はそう言った後、テーブルの上でだらりとしていた彼女の手を握りしめ、息を吹きかけた。

「あなたがいるからこそよ」彼女は握りしめられていた手を広げ、彼の頬を包んだ。

彼女は笑っていた。彼は彼女を見つめる。偶然性の必然性を見た。それは彼が生まれ、彼女が生まれ、二人が出会うことにある、約束された実存の結束であった。

野菜サラダとフルーツパフェがテーブルの上に置かれた。

「おいしそう!」彼女は両手を広げながら言う。

「大きいね」彼は一瞬だけパフェを見て言った。

彼女はパフェを食べ始める。それを見た後で彼もサラダを食べ始めた。

まもなく正午になる。外ではサラリーマンが昼休みを迎え、人通りが増え始める頃である。彼らも常に一定のリズムを刻む。平日は同じ時刻に出勤し、同じ時刻に帰宅する。休日は家族と過ごしたり、あるいは一人で過ごしたりするのだろう。人生の半分をそうして過ごした後、自分自身のリズムを刻み始めるのである。一つの構造が彼らの生活を支配する、ただそれだけのことである。

しばらくしてハンバーグセットとメロンソーダもテーブルに置かれた。彼はまだ半分ほど残っているサラダから視線を離した。奥では中年の男性が一人で煙草を吸っているのが見える。その隣の席では老年の女性二人が楽しそうに談笑している。バーゲンセールの話か、あるいは夫の悪口だろうか。彼はハンバーグセットに視線を移した。

店内の音楽にフォークがプレートに当たる音が混じる。彼は思う、偶然性の必然性だと。彼は「音」を心地よく聞いていた。ハンバーグの欠片を口に入れながら彼女の方を見つめた。彼女はそれに気づいたのか、にっこりと微笑んだ。彼もそれにつられて微笑む。

彼女の瞳には実存性が含まれていた。あらゆる現実を反射していた。彼の存在は彼女の存在と交叉していた。

彼女の姿は一つの絵画のように、時間を貫き、空間を支配していた。

彼の姿は一つの音楽のように、時間を支配し、空間を貫いていた。

二人は会計を終えて外へ出る。数十分前とはうってかわって強い北風が吹いていた。雲一つない青空から届く無数の光の筋があらゆるものを輝かせる。

「寒いわね」彼女は外套に顔を埋めながら言う。彼は黙って外套のフードを被せた後、頭を抱き寄せた。

「温かい」彼女は目を瞑った。

二人は歩き出した。彼女は彼の手を握りしめた。

「どうしたの?」

「いや……なんでも」

彼は彼女を引き連れ、北風を避けるように小走りで駅の建物に入ろうとする。彼は彼女を引くことで自己実存を感じる。彼女もまた、彼に引かれることで自己実存を感じていた。

彼は一人だった。

もうすぐ日が沈む町の中で、彼は一人で佇んでいた。冷たい北風が吹きぬける。彼は風によってでしか自身が孤独でないことを実感できないでいた。彼は歩き出した、孤独を抜け出すために。

彼が歩く音だけが規則正しく響く。孤独のリズムが町に響き渡る。ああ、大丈夫だ、僕は孤独じゃない。彼は孤独でないことを証明するために、孤独のリズムを聞いていた。

彼は世界とともにある。世界の波動が伝わる。存在、光、音、あらゆる波動が彼に伝わる。彼自身と波動が共鳴する。彼は世界に響き渡っていく。それは彼が孤独ではないことを証明しているように見えた。

日が沈んでゆく。思わず待ってと声をかけそうになったが、彼は自身のしようとした行為が無意味であることに気づく。町が影に包まれる。この世界の壮大な影である。存在が、光が、彼の前から消えた。空気がなくなれば音も姿を消すだろう。彼は自身が孤独でないことが不変でないことに気づいた。

何かが手に触れる。存在がある。どうすれば証明できるか。いや、すでに証明されている。意識されている限りにおいて、何物かが存在している。何者かは孤独ではない。何者かの過去を意識することで何者かの過去を現在の視点から見つめることができる。何者かの過去が存在したという限りにおいて、何物かは孤独ではない。

彼は目を瞑った。何も変わらない。変わるのは目の感覚だけである。過去は存在したのか。現在が創り上げた虚構か。現在だけが証明できるのか。過去もない、未来もない、あるのは現在だけである。

二人は駅の建物の中に入った。吹き抜けていた風がやむ。

「人が多いわね。あんまり好きじゃないわ」

「僕もだよ。こういうのはあまり好きじゃない」特に人嫌いというわけではなかったが、無秩序に動く巨大な大衆は得体の知れない不気味な塊であった。

二人は改札を抜け、大衆の中へと消えていった。

急行に乗ると、疎らではあるが人が立っている。座れる席はないようだった。二人はドア付近で互いに向かい合うように立った。

彼はドアからの景色を眺める。現在は一瞬にして過去になり、未来は一瞬にして現在になる。視線を遠くにやると、時間はゆっくりと流れるように感じる。電車がカーブにさしかかる。電車が揺れるたびに彼の頭がドアに打ち付けられた。彼はドアから離れ、彼女の方を向いた。

「嫌じゃない?」彼は尋ねた。

「うん、ここではあれじゃないから」

周りでは音楽を聴いている人、携帯を片手にゲームをしている人、腕組みをしたまま寝ている人が見られる。彼らは個人としての姿をのぞかせていた。

人が増えてきたところで目的地に着き、二人は降りた。駅から出ると北風がより一層強くなっていた。

「じゃ、またね」駅から少し離れたところまで進んで、彼女は言った。

彼は黙って手を左右に振る。

彼女の姿が見えなくなった。彼は歩き始めた。スーツ姿の男性とすれ違う度、背中を押す時間が感じられる。幾何学的な世界が彼の前に現れる。歯車が規則正しく回転する。その歯車が他の歯車を回転させ、それがまた他の歯車を回転させる。巨大な機械世界の中に、潜在的な脆さが見える。彼は目の前にある歯車を触ってみた。世界が一瞬にして止まった。ああ、ここまでとは……。彼は地面にあった小石を蹴った。立ち止まって、左側にある自動販売機を見る。

欲望が渦巻いているのが見える。自己の他者に対する欲望はなく、自己の自己に対する欲望のみが渦巻いている。どろどろとした欲望が噴き出したり、零れ落ちながら、道路を流れている。いつかは世界を支配するであろう欲望を、彼は眺めていた。

彼は缶コーヒーを買い、再び歩き始めた。缶から出る湯気が風に流されて、消えていく。コーヒーの温かさが感じられた。彼は少し心が安らいだ。

家の前に来ると猫の姿が見える。尻尾を体に巻きつけていて、寒そうに思えた。黒、茶、白の毛が不均衡に生えている。とても愛らしく思えた。彼は猫を拾い上げ、家に入った。

彼はベッドに座り、猫を下ろした。猫はきょろきょろと周りを見渡した後、彼の膝の上に飛び乗った。

彼は猫を撫でようと左手を背中に乗せた。彼は気づいた、未来へと投企された実存を。

彼は歩んでいた。自己が拡散されていく。振り返ると彼が今までに辿った過去がある。過去。過去とは何なのか。過去とは過ぎ去ったものである。もう二度と経験されることのないものである。無数の残骸が過去を包み込む。一度も経験されることなく、もう二度と経験されることもないものである。残骸が崩れ去る。残骸が現れる。過去を過去たらしめる無数の残骸がそこにはあった。

未来へと目を向ける。可能性が見える。無数の可能性が、現れては消え、消えては現れる。可能性の複層体が成長している。可能性の交わりにおいて、現実性が現れる。現実性の交わりにおいて、可能性が現れる。

彼がいる。過去と未来の狭間において、彼がいる。これが現在。彼がいるというこの限りにおいて、現在が現在となる。現在における彼。彼における現在。存在の不確実性の中に、確かな実存性が垣間見える。

どこからくるものだろうか、この不安は。存在に対する不安か、それとも実存性に対する不安か、あるいはその両方か、あるいはそのどちらでもないのか。例えばもし、今彼が消えたとしたら、現在を現在たらしめるものは何であるか。その限りにおいて実存性はその存在を永遠に保証される。ああ、そうであるのかと、彼は悟った。これは実存性の存在の保証に対する不安である。実存性の存在が約束されたことが不安を生じさせる。なぜか。実存性が存在する限りにおいて、それと同時に消滅の可能性があるからである。無論、そんなことはありえない。だが、ありえないということの可能性的な場合において、可能性が存在しているのである。これは幻である。過去に経験したあらゆる関係性が未来の幻を見せている。彼が世界に存在している。彼が現在を保証することで、また、現在が彼を保証することで、過去は過去であり、未来は未来である。偶然的であり必然的である弁証法的営みがそこにはあった。彼は世界を見渡した。流動的な多層体が、永遠に広がっている。世界の無限性を見る。世界を俯瞰する。世界が交わる。無数の世界が重なりあいながら、一つの体系を創り出す。彼は一つの体系を見た。世界が真っ白になった。

彼は猫の背中を撫でていた。猫は彼に自身の背中を撫でさせていた。彼は自身の実存性に対峙していた。お前はどこから来た、お前は何者だ、と。実存性から答えを見つけ出すことはできなかった。それほどまでに実存性は彼自身であった。彼は彼自身について問うことにした。彼は何者なのか。彼は彼自身であるが故に彼であるのか。彼自身とは何であるか。彼自身は彼であるが故に彼自身であるのか。彼は彼自身のうちに潜む循環性を見る。循環性により世界は彼に相対化され、彼は世界に相対化される。これは摂理であった。彼はもう何物にも動じなかった。彼は循環性によって世界に繋がっている。彼は世界そのものであった。彼は猫を抱え、抱きしめた。

彼には退屈であった。灰色の無機質な大衆と計量的な時間の流れる厳然と聳え立つメトロポリスの中で生きることには。大衆は流動的な網の目を構成しながら、構造によって新たな構造を創造する。大衆は「脳」を形成する構造網の繋ぎ目である。大衆の活動点として、大衆による構造的産物の象徴として、メトロポリスは厳然と聳え立つのである。

大衆は「過去」、「現在」、「未来」の時間の流れを均質化し、「過去」のある一点と、「現在」のある一点と、「未来」のある一点は本質的に同じものだと考える。時間の三分割は便宜上のものでしかなく、時間は本質的には一元的だと考える。しかし彼にとって「現在」は、「過去」そして「未来」にはない実存性、すなわち「ここにいる私」を直接的に実感できる唯一の時間なのである。彼にとって時間は、「現在」と「非現在」に本質的に区別されるのである。

「現在」は自己自身を「非現在」へと拡散させる。「非現在」は経験された現実的過去によって「現在」を「遅延」させ、放棄された可能的過去と未来によって「現在」を「加速」させる。「現在」は距離的営みによって「非現在」を規定する。「非現在」は速度的営みによって「現在」を規定する。「現在」と「非現在」は互いによって弁証法的に規定されるのである。

彼には本来の意味において人間らしさを持つ人々と、生き生きとした時間の流れる安らぎを与える存在が必要だったのである。それは決して時代に逆らう原始への回帰なのではない。むしろ人間としての、実存としての、究極への進化なのである。

彼はひどく退屈であった。退屈さを紛らわすため、彼は彼女にメールを送った。一瞬躊躇ったが、もう既に送ってしまっていた。

「今すぐ会えない?」

すぐに返事が来る。

「いいけど、どうしたの?」

彼は彼女の反応に少しほっとした。理由などなかった。彼は適当に返事をした。

「ただ会ってみたいだけだよ」そうメールをすると、彼は夢想に耽り始めた。

ただ会いたいだけだった。強いて言うなら実存的交わりを欲していたのかもしれない。実存は実存を引き寄せるのであろうか。そうであるとするならば世界は実存そのものなのであろうか。彼は世界であり、世界は彼であるのか。彼は世界と繋がっている、彼は世界そのものである。だが世界は彼ではない。この逆説性こそが世界を形作る関係性であった。

彼は気を紛らわすため、冷蔵庫にあった魚の缶詰を取り出し、猫の前へやった。猫は舌を出したりしながら味を確かめるような仕草をした後、魚を食べ始めた。彼はその姿をじっと見つめる。彼にはなぜかそれが愛らしく思えた。もしこれが入念に作られたロボットに三色の毛をつけたようなものだったら、彼はとても悍ましく思うだろう。

しばらくしてインターホンが鳴る。彼はドアを開けた。彼女がにこやかに手を左右に振った。

「行こ?」彼女は外へ誘った。

彼は転ばないように慎重に靴を履き、外に出た。冷たい空気により彼の息が白く濁る。

「どこ行くの?」彼女が尋ねる。

「流れを感じるところだよ」

二人は川沿いの道を歩いている。

淡々と流れる川に反射する光を見ながら彼女が言う。

「こうなるとは半年前は思いもしなかったわ」

「未来とはそういうものだよ」彼は川の姿を見ながら答える。

「でも不思議ね。思いもしなかったはずなのに、まるでこうなることがわかっていた様な気持ちがするのよ」

彼は少しの間黙った後、彼女の方を見ながら答える。

「世界は矛盾にあふれているからね。でもそれによって世界は成長するのかもしれないよ」

「そういうものかしら」彼女は苦笑いをしながら答えた。

彼はいったん彼女の手を離した後、再び繋いだ。

「もう離れないわ」彼女が呟いた。

「離さないよ」彼がそういうと彼女は微笑みながら、彼の方を見た。

「私もよ、世界が何と言おうと」

彼はより強く彼女の手を握りしめた。

既存の二つの世界が崩れていく。それは二人の色によって新たに創られる。人間本来の弁証法的な営みが繰り広げられることで、未知の世界が誕生しようとしていた。それは既に知られたが故の未知である。いわば気づかれなかったが故の未知である。

「もうすぐね」彼女は橋を見て、残念そうな表情を浮かべながら言った。

「どうする?」

彼女は少し考え込んだ後に答える。

「夜空が見たいわ」

「ちょうどよかった、僕もだよ」彼はそう言いながら夜空を見上げる。二人は橋から幾らばかりか離れた高台へと向かった。

石段を登りきると彼女は走り出し、手すりに両手を乗せた。

「綺麗だね」彼女は彼の方を振り向いた。

彼は小走りで彼女の方へ向かい、すぐ傍で立ち止まった。

「そうだね、癒されそう」彼がそういうと二人は黙りこむ。

彼は沈黙の夜空を見上げる。東の空が仄かに赤く染まっていた。彼は視点を変え、眼前にある町並みを見下ろした。平行線と垂線で創られた漆黒の世界が、空を飲み込むようにぽっかりと口を開けていた。その世界にぽつぽつと存在する光の斑点が見える。光は規則的に存在していた。彼は眩暈がした。光があまりにも秩序的過ぎたためである。秩序が町を覆っていた。彼はたまらず夜空へ視線を向けた。夜空と町はとてもよく似ていて、それでいて全く対照的な存在だった。

彼女は聡明な夜空を見上げる。シリウスという名を受けた星が輝いている。それは全天のうちで一際青白く輝いていた。それはちょうど彼女の真上で輝いていた。町を飲み込むような悠久の時空の広がる漆黒の世界に不規則に存在する星々。彼女は町並みを見ようとしたが、視界に入った町並みはあまりにも秩序的で、彼女は嫌気がさした。彼女は彼の方を向く。彼女の現実性と彼の可能性の交叉、彼女の可能性と彼の現実性の交叉を欲していたからである。彼は視線に気づいたのか、彼女にそっと寄り添い、彼女を外套の上から抱きしめた。彼女は目を瞑って彼の肩の上へ頭をやった。現実的可能性と可能的現実性が交叉したその瞬間において、一つの結晶が存在していた。それはもう生まれ得ないであろうと思われたものであったが、確かのこの瞬間において存在していた。二つの実存の交わりで生まれた奇跡の結晶が、実存性の膜を纏いながら一つの構造の内で眩しいほどに輝いていた。それはほかの構造からは決して観測できない、いや、その構造内でも観測できないほどに輝いていたのである。彼は決心していた、彼女とともに、愚かなる大衆とともに、理想の世界を創り上げると。

Big Bang!

天ではシリウスが燦々と輝いていた。間もなく日が昇るだろう。蚯蚓はいつの間にか干からびていた。

半年が経った。

ドアが開く音がする。彼女は料理の支度をやめ、急いで玄関へ向かう。

「どうだった?」

彼はにやりと笑いながら、一枚の紙を見せた。

「やったぁ、やったね!」彼女は飛び上がりそうなほど喜ぶ。

「とりあえず、ほっとしたよ」彼は三日間働きづめの会社員のようにへとへとになりながら、ベットに横たわった。

「でも本当によかったわ」彼女もベッドへ腰を下ろした。

猫は部屋をうろうろと動き回っている。

「ほら、猫も喜んでるわ」

彼は一瞬だけ彼女の方に目を向け、微笑んだ。

彼女は彼の上に乗り、抱きしめる。

甲高い音が鳴る。

「あっ!お湯沸かしっぱなしだったわ!」

彼女は急いで台所の方へ向かった。

「大丈夫だった?」

「うん、何でもないわ」

彼女は火を止めると、再び彼の方へ向かった。

新たな実存がそこにはあった。

微かに鼓動を打つ実存。二人ももうすぐその存在に気づくことになるだろう。

新たなる現実性と可能性をその身に宿しながら、彼女は彼を抱きしめた。

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