『さくー、愛してるよー!! ~遠藤さくらと納豆ご飯と母ちゃんの味噌汁~』
「さくー、あいしてるよー!!」
その朝、東京都内のとあるアパートの一室には、地響きのような、あるいは魂の底から絞り出されたような絶叫が響き渡っていた。
主である二十代半ばの男、タカシは、テレビ画面に向かって全力で両手を突き上げ、限界まで声を張り上げていた。画面に映っているのは、乃木坂46の最新曲『ビリヤニ』のミュージックビデオ。そこには、可憐さと圧倒的な透明感をこれでもかと振りまきながら、軽やかにステップを踏む遠藤さくらの姿があった。
「なんだこの可愛さは……! もう、遠藤さくらしか勝たん!! 世界で一番さくらが一番!!」
タカシは、はぁはぁと肩で息をしながら、液晶画面の中の彼女を見つめ、胸を押さえた。尊すぎて、心臓が爆発しそうだった。
「さくちゃん、なんでそんなに守りたくなる笑顔をするんだ……。このビリヤニって曲、エスニックでハイカラで最高だけど、俺の心はもう、君の可憐さに完全にスパイス漬けだよ……」
そんな感動の渦に浸っているタカシの背後から、ぬっと一本の影が伸びた。
ガラリと襖を開けて入ってきたのは、エプロン姿の母親、美代子(五十六歳)である。手には、使い古されたしゃもじを握りしめている。
「ちょっと、タカシ! 朝っぱらから近所迷惑な大声出さないでよ! 『さくー』だか『びりやに』だか知らないけど、あんたのその胃もたれしそうな叫び声のせいで、お母さん、お味噌汁の出汁の分量間違えそうになったじゃないの!」
「母ちゃん、わかってないな! これは叫びじゃない、魂のコールだよ! さくちゃんのパフォーマンスを見てごらんよ。この『ビリヤニ』っていうハイカラな、インドの炊き込みご飯みたいな曲を、こんなに上品に、かつ可愛らしく表現できるのは、世界で遠藤さくらちゃんただ一人なんだ!」
タカシは熱弁したが、美代子はふんと鼻を鳴らし、しゃもじでテレビを指し示した。
「何が『びりやに』よ。そんな横文字の、香辛料ががちゃがちゃ入ったようなハイカラなもん、うちの朝ごはんには一切関係ありません! うちは代々、純和食。ほら、テレビ消してさっさとテーブルにつきなさい。冷めちゃうよ!」
「はいはい……」
渋々テレビを消したタカシは、居間のローテーブルに向かった。
確かに、そこに並んでいたのは、お世辞にも「ハイカラ」とは呼べない、しかし見事なまでに完成された「日本の朝」だった。
主役の座に鎮座するのは、小鉢に入った納豆。すでに、刻んだねぎがこれでもかと投入され、生卵がとろりとその上に回しかけられている。
その隣には、湯気をもうもうと立てるお味噌汁。大根、人参、油揚げ、そしてわかめが、出汁の効いた合わせ味噌の海にぎっしりと泳いでいる。見るからに具沢山で、おふくろの味が凝縮されたような一杯だ。
そして、中央の小さな平皿には、一粒の、しかし圧倒的な存在感を放つ、ぽってりとした大粒の「紀州の南高梅の梅干し」が、しっとりと赤い蜜をまとって置かれていた。
「どうよ。ビリヤニだか何だか知らないけど、日本人ならやっぱりこれでしょうが」
美代子が、誇らしげに胸を張る。
タカシは、まだ脳内で鳴り響いている『ビリヤニ』のイントロを振り払いながら、箸を手にした。
「まあ、確かに美味そうだけどさ……」
まずは納豆だ。箸を垂直に突き立て、手首のスナップを利かせて一気に混ぜる。
ぐるぐる、ぐるぐる。
ねぎのツンとした香りと、卵のまろやかさ、そして納豆特有のあの力強い香りが混ざり合い、粘り気が器の縁を越えそうになるほどに泡立つ。
「よし、いい感じの泡立ち具合だ……。いくぞ」
炊きたての白米の上に、その「ねぎ卵納豆」をどろりと載せる。そのまま一気にかき込むと、口の中で旨味が爆発した。
「うっ、うまーーいッ!!」
「でしょ?」と、美代子が満足げに頷く。
「卵が納豆の角を全部丸くして、そこにねぎのシャキシャキ感がアクセントになって……あぁ、生きててよかった! ビリヤニのスパイシーさもいいけど、この『ねぎ卵納豆オンザライス』の安定感は、乃木坂でいうところの遠藤さくらのセンター級の安心感だよ!」
「例えがさっぱり分からないけど、美味しいなら結構」
美代子は呆れ顔で、自分もお味噌汁をすする。
タカシもお椀を取り上げ、ずずっと味噌汁を口に含んだ。
「あちち……あ、でも、美味い! 大根と人参の自然な甘みが、油揚げのコクと合わさって、そこにわかめの磯の香りが……五臓六腑にしみわたる……。これだよこれ、このお味噌汁の温かさは、さくちゃんのブログを読んだ時の、あのじんわりとした感動と同じなんだ……」
「あんた、何を食べてもその『さくら』って子に結びつけるの、本当に病気ね。ほら、その梅干しも食べなさい。和歌山のおばちゃんが送ってくれた、いい南高梅なんだから」
「お、梅干し。いただきます」
タカシは、箸先で慎重に、果肉がち切れんばかりに柔らかい南高梅を挟み、口に運んだ。
歯を当てた瞬間、じゅわっと、豊潤な酸っぱさと、ほんのりとした甘み、そして梅本来の華やかな香りが口いっぱいに、文字通り「あふれ返った」。
「つ、つーーーーーーッ!!!」
タカシは思わず目を細め、肩をすぼめた。酸っぱさが脳天を直撃する。しかし、その後に追いかけてくる、果肉の圧倒的な旨味とフルーティーな甘み。
「酸っぱい……! でも、めちゃくちゃ美味い!! この、ただ酸っぱいだけじゃなくて、奥深い甘みがある感じ……! これは、遠藤さくらちゃんが時折見せる、はにかんだ、ちょっとツンとした表情の後に見せる、あの極上の甘い笑顔そのものじゃないか!!」
「もう、うるさいわねぇ! 梅干しは梅干し! さくらじゃありません!」
「いや、母ちゃん、これはもう、さくら梅だよ! この南高梅の『さくらん』とした可愛らしさと、この酸っぱさに翻弄される感じ……あぁ、さくちゃん、愛してるよーー!!」
再びタカシが、今度は納豆の糸を引いた箸を握りしめながら、居間の天井に向かって「さくー、あいしてるよー!!」と絶叫した。
「ちょっと! 箸を持って叫ぶの、行儀が悪い! それに、そんなに『さくら、さくら』って言うなら、その子をうちに連れてきて、この納豆でもご馳走しなさいよ!」
「えっ!? さくちゃんを、このアパートに!?」
タカシの脳内に、突如として、超高解像度の妄想が広がり始めた。
この狭い和室に、あの、顔が小さくて、手足が長くて、まるで妖精のような遠藤さくらが、ちょこんと正座している。彼女の前には、美代子が作った「大根と人参と油揚げとわかめのお味噌汁」と「ねぎ卵納豆」、そして「紀州の南高梅」。
『あの……タカシさん、お味噌汁、とっても温かくて、美味しいです……』
少し恥ずかしそうに、はにかみながら、お椀を両手で持つさくちゃん。
『あ、納豆も、ねぎと卵が入ってて、私、大好きです……。あ、この梅干し、酸っぱいけど、すっごく美味しい……!』
酸っぱさに、きゅっと顔をしかめるさくちゃん。その、ギネス級に可愛い表情。
『タカシさん、私、ビリヤニみたいなハイカラなものより、こういう、タカシさんのお家のご飯の方が、ずっと、ずっと好きかも……。……えへへ』
「――はっ!!!」
妄想から引き戻されたタカシは、自分のあまりのニヤけぶりに、持っていたお茶を吹きかけそうになった。
「ど、どうしたのよ、急に真っ赤になって」
美代子が、不審極まりない目でタカシを見つめている。
「な、なんでもない! いや、もしさくちゃんがうちに来たら、こんな納豆じゃなくて、やっぱりもっと、こう、それこそ『ビリヤニ』とか、豪華なものを用意しなきゃ……! いや、でも、さくちゃんは、きっとこういう、普通の、温かい和食を『美味しい』って、あの優しい笑顔で食べてくれるはずなんだ……。あぁ、やっぱり、遠藤さくらしか勝たん……! さくー! 愛してるよーー!!」
「はいはい、愛してる愛してる。もう、冷めないうちにその『愛』を全部、納豆と梅干しにぶつけて、さっさと平らげなさい!」
美代子に促され、タカシは、愛おしそうに南高梅をちびちびと齧り、ねぎ卵納豆ご飯を勢いよくかき込んだ。
外からは、どこか長閑な朝の気配が漂ってくる。ハイカラな「ビリヤニ」の世界からは程遠い、あまりにも庶民的で、しかしこれ以上ないほどに熱い、タカシの「さくら愛」に満ちた、いつもの日曜日が、こうして始まっていったのだった。
「お母さん、おかわり!」
「はいはい、さくらちゃんのおかげで、今日もよく食べるわねぇ」
「当たり前だよ! さくちゃんは、俺の生きる活力、そして、この日本の朝の、最高のスパイスなんだから!!」
タカシの、さくらへの愛のコールは、今日も、そして明日も、この和食の香る小さな部屋から、世界で一番、熱く響き続けるに違いなかった。
(おわり)




