帰る場所
プロローグ
When a man loves a woman
Can't keep his mind on nothing else
He'll trade the world
For the good thing he's found
成田に向かう飛行機の中。ヘッドフォンステレオからはマイケル・ボルトン渋い絶唱が聞こえてきた。
三神洋介は持っていたティーカップを思わずテーブルに戻し、
目を閉じて、曲に耳を傾けた。
彼にとって、この曲は懐かしさとほろ苦さを運んでくる。
5年前の彼は会社に入りたての新入社員だった。
そんな彼にも好きで好きでたまらないくらい好きな女性が居た。
そして、一時は真剣に結婚を考えながら、夢と現実の間に挟まれ、自ら身を引いていった彼女。
如何しているのだろうか?
5年後に会おうという約束だけを頼りに、洋介は5年の月日を駆け抜けてきた。
たとえ不幸であっても、如何することも出来ないのだが、不幸だとしたら、
自分に責任がある。
そして、間もなく、その答えも出るだろう。
洋介は再びカップを手に取り、残りの紅茶をすすった。
キャビンアテンダントが、着陸態勢に入ったとアナウンスをした。
久しぶりの日本。
やっと帰ってきた日本。
-新人-
「三神っ!何だこれは!」
週末金曜の定時間際に主任の本池の怒声がそれまで静かだった、オフィスの温度をを5度くらい下げた。
「すみません。この前主任から言われた、企画書と見積もりですが・・・・」
三神は静かに説明しようとしたのだが、
「誰が、書類の種類の説明をしろと言った?この中身だよ、内容がまったくなっちゃいないじゃないか!!」
本池は、そういうなり、三神に書類を投げ返した。
書類は、三神に当たり、床にばら撒かれてしまった。
仕方なく、拾い上げる三神に、
「良いか、明日の朝までに仕上げて、もってこい。明日の土曜日は、俺が出勤してきてやるから、お前も出てきて手渡せ。」
「主任、しかし、明日は・・・」
言いかける三神に本池はさえぎるように言った。
「なんだ、まさか、都合が悪いというのじゃないよな。主任の俺が出てくるのに。」
「わかりました。でも何所が悪かったのでしょうか?」
「そんなこと自分で考えろ。さて、せっかくの金曜日なのに明日は急な出勤か?出来が悪い後輩を持つと、辛いな。」
そういいながら、本池は、タイムカードを押してさっさと帰っていってしまった。
残された、三神は、途方にくれるしかなかった。
一週間掛かった書類だった。
手伝い無しで、初めて、作り上げた企画書だった。洋介なりに自信が有ったのだが、、
まったく、批評を聞かされずにつき返されて、それも定時ギリギリに。その上、明日までに手直ししろと言われた。
これで、今夜の残業は決定的だ。
下手したら、徹夜になるかもしれない。
一人で、東京に出てきて、マンションに帰っても誰かが待っているるわけでもない。
また、花の金曜日とはいえ、デートの約束があるわけでもない。
ただ、明日は、実家から、母が出てくることになっていた。
土曜日の仕事が何時に終わるかわからないので、
断りの電話を入れるしかない。
席に着き、拾い集めた書類を整理し、目を通す。
頭が虚ろになって、文字が頭に入ってこないが、我慢して読み続ける。
しかし、何が悪いのか、皆目わからなかった。
時間だけがすぎて行く。
焦りが出てきてのどが渇くが、どうしていいのかわからず途方にくれる。
頭を抱えたまま時間だけがすぎていく。
パニックになりそうな自分を三神は必死に押さえ込もうとした。
そんな時、机がやや暗くなったと思ったとき、机にティーカップが置かれた。
「少し、お茶でも飲んで落ち着いたら。」
自分自身もカップを片手に持ちながら、三神洋介の2年先輩の星野美穂が後ろに立っていた。
「さっきはだいぶ、やられちゃったね。」
そう言って、手を伸ばし、机に広げられた企画書と見積書をすばやく手に取った。
「この企画。だいぶ前に課長から話があって、誰も手を付けてないみたいだし、廃案になったと思ってたのだけれどあなたがやってたの?一人で、ここまで企画書を作ったの?」
そう言って、美穂は椅子をもって来て、洋介の隣に腰を下ろして、熱心に二つの書類に目を通していった。
「星野さんから見ても、やっぱり出来が悪いですか?」
洋介は、恐る恐る、美穂に質問した。
「とんでもないわよ。これなら、100点とまでは行かなくても、新人が一人でやったのなら、十分に合格よ。少なくても、投げ返すような内容ではないわ。」
美穂は驚きと、本池への憤慨とで、やや声が震えていた。
そこへ、彼らの上司である、酒井課長が会議から帰ってきた。
「おい。まだ、帰らないのか?」
開口一番、居残ってるのをとがめる感じで問いかけてきた。
「残ってるのは、君たちだけか?本池は?」
「本池さんなら、とっくに定時で帰りましたけれど。」
美穂は、意外なことを聞かれたと、いぶかりながら答えた。
「帰った?ったく、何考えてるんだろう。一月も前に言いつけた、企画書を明日までに提出するようにさっき言ったのに、如何するつもりなんだろう。」
課長のその言葉には、はっきりと、不信感が出ていた。
美穂は、すかさず、手に持っていた、洋介が作った企画書を酒井課長に差し出しながら、
「それって、この企画ですか?」
と伺うように聞いた。
酒井も。
「どれ?」
言いながら、書類を手に取った。
「何。出来てるじゃないか。そう。この企画だよ。本池は、出来てるなんて言ってなかったのに。」
「これは、三神君が作った企画書なんです。」
「三神君が?まさか一人で作ったんじゃないよね?」
「課長そのまさかなんです。でも、この企画書には不備があるから、明日までには手直ししろと、本池さんが三神君に投げ返して、さっきは、凄かったんですから。」
美穂は、少し、感情を表に出して、課長に本池のことを訴えようとした。
「あいつの下の者いじめは、相変わらずか。で、これは、修正後か?」
「いいえ、何所を直せとも言わないでそのまま帰りました。だから、何所を直すのか調べなおしていた所です。」
「あっそ。じゃあ。ここと、ここの表現をもう少し断定的になおして。見積書のここの金額をこう直して。出来上がったら、
私の机の上に、置いて置いて。三神君は明日休むように。本池には、私が、今日中に受け取ったので休ませたと言っておくからさ。」
そう言って、悪いけれど、これから、部長に呼ばれているのでといって慌ただしく、部屋を出て行った。
「じゃあ私。手伝ってあげるわ。2人ですれば、1時間も掛からないでしょ。課長が、かなり具体的に指示してくれたから。」
洋介は、それでは美穂の帰りが遅くなるからと断ったが、結局、それから、一時間足らずで2人で、企画書を作り上げた。
一時は、パニックになって、徹夜を覚悟していたのが、かなり早く終わらせることが出来た。。
「出来たわね。これでいいんじゃない。コピーしておいてあげるから、片付けに入ったら。」
そう言って、美穂はさっさと、コピー機にむかってしまった。
コピーしたものを課長と、本池の各々の机に置き、大急ぎで、着替えを済ませて、2人は事務所を出た。
「星野さん。ありがとうございました。おかげで、思いのほか早く終われました。」
駅へ向かいながら、洋介は美穂に礼を言った。
「良いわよ。そんなの。今度、ご馳走してくれたら。」
「えっ!」
「冗談に決まってるでしょ。」
洋介は、いままで、こんなに長時間女性と一緒に居たことがなかったので、正直、どう応対して良いのか、わからなかった。
「三神君は何所に住んでるのだっけ?」
「白鷺町ですが・・」
「本当に?私も白鷺町なの。因みに私は2丁目。三神君は?」
「僕は1丁目ですよ。」
「そっか。駅をはさんで反対側なんだ。」
こんなやり取りも、当時の洋介には余裕が無かった。
「おなかすいたね。せっかくの金曜日だし、何か食べに行こうか」
「えっ!でも。」
あわてて、顔を赤くしている洋介に、
「彼女が待ってるんだ?」
そう言って、美穂は、洋介をじっと見た。
洋介はますます、顔を赤くした。
「そんなの居ませんよ。でも、星野さんだって、彼氏とのデートが有ったのじゃないのですか。」
「あっ!それ言うと泣いちゃうぞ。セクハラだって。」
美穂は噴出した。
「白鷺駅の近くに知っているお店が有るの。そこでよかったら、一緒に行こうよ。私も、今から、帰って御飯作るの面倒だし。」
結局2人で、美穂の知り合いの店、「銀嶺」に行くことになった。
「ここはね、叔母がやってる店なの。学生時代は、私もここでアルバイトしてたのよ。」
そう言って、美穂は、扉を開けて入っていった。
その後ろを、洋介は、おどおどとついていった。
「銀嶺」は少しこじゃれた、洋風居酒屋みたいな雰囲気のお店だった。
奥に座敷があるようで、美穂はかまわず、奥の座敷に上がって行った。
「気楽にしてね。気を使わない店なのでね。」
そこにこの店の女将さんが入ってきた。
「美穂ちゃん、今日は遅いじゃない。また、珍しくかっこいい人連れてきて。」
「おばさん。珍しくは余計よ。彼はそんな人じゃないの。仕事の同僚よ。お腹が空いてるから、適当におばさん持ってきて。」
「ホッケの一夜干が良いのが入ってるの。あとはあなたの好きな肉じゃが。それに奴が早く出せるわね。取り敢えずはそんなところかな。で、彼氏ビールは?」
洋介はスーツを脱いでブラウス姿になった美穂がなぜか、眩しくて、ボーっとやり取りを聞いていた。
美穂につつかれてようやく洋介は正気を取り戻した。
「三神君って。ビール飲むでしょ。話し聞いてた?」
「えっ。ごめんなさい。こういう雰囲気慣れてないので、で、何でしたっけ。」
あわてる洋介を、あきれ気味にみながら、
「ビールよ。飲めないの?」
「あまり飲んだことが無いし・・・」
「じゃあ、ビンビールを分けましょう。私も今日は少し飲みたいし。」
間もなく、ビールと枝豆が、運ばれてきて、洋介は、美穂のお酌でビールを乾杯した。
女性に、お酌してもらうのもなれていない洋介は、手が震えそうになるのを必死にこらえた。
美穂はそんな洋介が面白く、好もしく感じたのだった。
最初、堅くなっていた洋介も、いつしか、美穂の飾らない性格に徐々に打ち解けていき、
知らず知らずのうちに時間もすぎて言った。
気がついたときは、かなり遅い時間になっていた。
「じゃあ、夜も遅いし、お開きにしましょうか。家の前まで、送りますよ。星野さん。」
「大丈夫よ。そこからそこだし。」
「そんな事言わずに、送ってもらったら。」
銀嶺の女将が助け舟を出してくれたので、美穂も折れて洋介に送ってもらうことにした。
マンションの前で、二人はわかれ、洋介は、一人で自分のマンションまで帰った。
なぜか、心が沸き立つような思いがするのは、飲みなれないお酒を飲んだだけではなかった。
-DayTripper-
洋介が部屋に入ると、留守番電話にメッセージが入ってるのに気がついた。
相手は、洋介の親友で浜田慎一郎からだった。何時でもいいから折り返し電話が欲しいと切羽詰った声で入っていた。
面倒に感じながらも洋介は、様子が変なので、受話器を取り上げ、すぐにダイヤルを押した。
この電話が、後々、洋介の人生を大きく変化させることになろうとは、そのとき少しも感じなかった。
日付が変わるギリギリの時間だったが、慎一郎は、すぐに電話に出た。
驚いたのはその電話の声が、留守電の声よりかなり憔悴しきっていたことだ。
「如何した。元気ないじゃないか。」
洋介の問いに。
「ああ。大変なことになってるんだ、で、洋介に助けて欲しいのだけれど、なかなか掛かってこないので、如何しようかなと思ってたんだ。
実は、明日、Day tripperのライブがあるんだけれど、長谷川がさ、急性の盲腸になって、入院して手術なんだ。
で、このままだと、明日ライブ出られなくなるんだよ。しかも、三週連続ライブって店長に談判してたライブなんだよ。
やばくてさ。変わりに、洋介に助けてもらいたいなと思ったんだけれど、だめかな。」
Day tripperと言うのは、慎一郎がやってるバンドで、アマチュアながらそれなりに活動をしていた。
以前、洋介もギターで参加していたのだが、就職を機会に脱退していたのだった。
「だけど、俺はライブから遠ざかってるよ。他にいないのかな、平岩とか後藤とかは如何なの?」
「遠ざかってるっていったて、数ヶ月じゃない。それに、もともと、Day tripperはお前と俺で始めた、バンドだぜ。頼むよ。平岩や、後藤には借りを作りたくねえんだよ。」
電話の向こうの浜田は、半ば懇願するように電話じゃなかったら、土下座でもしかねない頼みようだった。
もともと、音楽はすきなのと、予定が急遽あいたのとで、洋介は、頼まれてやることにした。
「わかったよ。今回だけだよ。打ち合わせとかは如何するの」
「出番は18時からで入りが14時で頼めるかな。店長には事情は言ってるので、少し長めにリハーサルできるように御願いしたよ。
セットリストは、そのときに渡すけれど、お前の作った曲とMSGの曲が中心でいく。場所はサンライズ。じゃあ頼んだよ。助かる。ありがとう。」
そう言って、あわただしく、慎一郎は電話を切った。
まるで、長々としゃべると、洋介の気が変わると思ってるかのようだった。
その夜、洋介はなかなか寝付けなかった。
やっと寝付けた頃は、もう朝に近かった。
眠い目をこすりながら、
洋介は、ギターとエフェクターを持って、サンライズに約束の時間の20分前に入った。
久しぶり嗅ぐライブハウスの香りは、なんともいえない新鮮な気がした。
いつもギリギリか遅刻の常習だった、慎一郎は珍しくすでに来ていて、
洋介を見つけるなり、飛びついてきた。
「良かった、来てくれて、やっぱり持つべきものは親友だよな。」
と調子の言いことを言っている。
早速セットリストを渡され、洋介は目を通す。
曲は想像の範囲でなんとかなりそうな曲ばかりだった。
洋介は、ギターを出して、ウォーミングアップを始めた。
10分ぐらいしたころ、呼ばれて、ステージに上がった。
深呼吸をひとつ。それだけで、すぐにギタリストとしての本能が目覚めるようだった。
無難にリハーサルを乗り切った。
まったくブランクを感じさせない感覚に、洋介は自分自身満足していた。
完全に、サラリーマンの洋介をどこかにしまいこんでしまった。
「敦子。珍しいわね。あなたがライブハウスに誘うなんて。」
美穂は、学生時代からの親友の武田敦子に会うなり開口一番そういった。
「それがね。新しい彼氏がバンドやってて。今日ライブなんで観に来て欲しいといわれたんだ。」
「えっ彼氏が出来たんだ。初耳。だったら、私がいたら、お邪魔じゃないの。」
顔を染めて恥ずかしそうに言う敦子に、からかうように美穂は言った。
「それがね、バンドのギタリストが急病らしくて、出演があやふやなんだよね、彼氏曰、あてが有るから大丈夫。みたいに言ってたけれど、
ライブ無かったら暇だから、連れがいたほうがいいじゃん。」
「わたしは暇つぶしの道具なの?ひどくない?」
あきれて美穂は敦子の顔を覗き込んだ。
敦子は、まあまあと両手を広げてなだめるようなポーズをとったので思わず噴出してしまった。
「それより、美穂の方は彼氏は如何なの?勤め先に良い人がいるとかないの?」
「あるわけ無いじゃない。そんなの。」
そう答えながら、なぜか、美穂の心には洋介の顔が浮かんだ。
そんな自分に戸惑いを感じずにはいられなかった。
薄暗いライブハウスに入って、目をなれさえていると暫くして、
バンドの演奏が始まった。
敦子の友人のバンドは最初に出てきたバンドだった。
「あなたの彼って誰よ。」
美穂は敦子に聞いた。
「ボーカルの彼よ。かっこいいでしょ。」
白々しい思いで聞いた直後、美穂はわが目を疑った。
「あれ、まさか」
「如何したの美穂。」
美穂の様子が変なのに気がついて、敦子は、美穂に聞いた。
「ううん・・ギター弾いてる人が、知り合いに似ていて。でもね。まさかそんなことはないと思う。」
美穂の目に写ったギターを弾いている洋介は、いつもの物静かで少し頼り下無く見える、
洋介とは別人だった。
ギターを弾くその姿は、自信にあふれステージ狭しと動き回っていた。
それに、ギターも凄く上手かったのだ。
「多分あの人が私の彼が言っていた助っ人の人だと思う。前に彼のバンドを何度か見たのだけれど、今日の人のほうが、数段うまいと思うわ。」
美穂は、何か、狐につままれた感じだった。
美穂にとって、あっという間の三十分間だった。
暫くすると、バンドのメンバーが、客席に出てきて、
挨拶や、CDを売ったりしはじめた。
敦子の彼氏も敦子の下にやってきた。
「良かったわよ。慎ちゃん。」
敦子は美穂の前だというのに、彼氏に抱きついていった。
美穂は、そんな彼らを尻目に自然と、目は、ギタリストを探していた。
「美穂。ギターの彼ね。洋介って言うんだって。友達が気になるみたいだって言ったら、彼が呼びに言ったから、もう少しでこっちに来ると思うわよ。」
その一言で、固まった美穂にお構いなく、慎一郎は、洋介を連れて、敦子の元に返ってきた。
「はじめまして、星野さん。Day Tripperの浜田です。こっちが、今日は助っ人でギターを弾いてくれた、三神です。」
そう言って、浜田は、洋介を紹介した。
一瞬、変な空気が4人の間に流れる。
「かっこいいじゃない三神君。」
ようやく、美穂はそれだけを言葉にした。
「ありがとう。星野さん。」
三神もぎこちなく答える。
「まさかと思うけれど、やっぱり、知り合いだったの。」
「ええ。会社の同僚だった。」
「ええ。偶然じゃん。」
その後、ライブの終了を待って、4人で食事に行くことになった。
食事の間も、しゃべるのは慎一郎と、敦子で、早々に二人だけにしてあげようということで、
洋介と美穂はその場を後にした。
「驚いた。あなたが、音楽をやっていたなんて。」
「そうですか。会社の人には言ってなかったですから。それに、就職して、バンドも脱退してますからね。」
なぜか、さびしそうに洋介はつぶやくように言った。
「もうやらないの。音楽。」
「多分。」
「どうして。」
「それは・・・・」
洋介は、その理由を淡々と話し始めた。
洋介の家は、早くに父に死なれて、
母と兄との母子家庭だった。
無理をして、大学に行ったが、授業料も生活費も殆ど、彼のバイトでまかなっていた。
苦労して、勉強して大学に行った分。
大学の勉強を無駄にしたくなかった。
音楽は、楽しめればそれで良い。
プロになる気は無かったし、なれるとも思ってなかった。
そんな甘い世界ではないと十分わかっていたから。
大学で勉強したことを生かしたかったのと、母を安心させたかったその思いで、
彼は滝野工業に就職した。
彼は技術職を望んでいたのだが、営業技術にまわされたのは彼にしてみれば、不本意だった。
しかし、それも、社会の仕組みと割り切れるだけの分別を彼は持っていた。
そこで、必死に働くことでよしと考えていたのだった。
美穂は、そんな彼の打ち明け話になぜか安心する自分がいた。
「そうね。夢を食べて生きてはいけないものね。」
「若さがないと、言う人は言うけれど、選択を誤ったとは思ってないです。」
「・・・・・」
「でも、今日のようなことがあると、自分の抑えていた思いが抑えきれなくなる。やっぱり音楽は楽しい。と。」
投槍気に言ったその一言がやけに悲しそうだったのを美穂は感じずにはおけなかった。
「趣味でやれば良いのじゃない。今日の三神君かっこよかったよ。」
「そうですね。それでやれれば一番良いのだけれど、浜田たちはプロ志向だから、一緒にはやれないんです。」
「そう。いろいろと有るのね。」
このとき美穂は、このひとつ年下の彼が妙にいとおしく感じたのだった。
そして、いつしか、自分のマンションの前に来ていた。
「上がって、お茶飲んでいく。」
自分でも、意外な事を言ってしまったと美穂はあせってしまった。
「いえ。またにします。もう遅いですから、美穂さんに迷惑がかかります。」
歳下なのに落ち着いた洋介の答えに美穂は救われた思いがした。
洋介が、「星野さん」と言わずに「美穂さん」と言ったことにも気がつかなかった。
部屋に帰りついたとき洋介は、身体が震えていた。
自分の中で、星野美穂と言う存在が、時間と共に、一分一秒経つと共に大きくなっていく。
そのことに対する戸惑いと、会社の先輩だという事実に戸惑い。
この先どうなっていくのか、如何すべきなのか答えを見つけられない自分にいらだった。
-初デート?-
次の日の日曜。夏の日差しが強かったが、気持ちよく晴れていた。
洋介は、部屋にいても、なぜか、美穂の顔が浮かんでくるので、外の空気を吸いに出ることにした。
ちょうど、ギターの弦も交換のストックが切れかけていることも出かける理由のひとつであった。
「三神君。」
駅に着き改札を抜けようとした所で、後ろから声をかけられた。
とうとう、空耳を聞くようになったか。そんな思いを抱きながら、振り返ると、
偶然、そこに星野美穂が立っていた。
「お出かけ?彼女とデート?」
少し意地悪く笑いながら、彼女は問いかけてきた。
「まさか。そんな相手いませんよ。楽器屋に行くだけですよ。そういう星野さんこそ、おめかしして怪しいじゃないですか。」
「あっセクハラだ!」
「星野さんのほうこそ。」
そこで、二人そろって、噴出してしまった。
「あの。昨日はお茶を断ってごめんなさい。」
洋介は、気にしていたことを謝った。
「私のほうこそ。ただ、私、誰でも部屋に上げてるわけじゃなく、そんな女性だと思われたら如何しようと・・・。
何も考えずに、お茶を勧めただけなの。誤解されたらいやだと、そればかり考えてた。嫌われたら如何しようかとか。。」
美穂の最後の言葉は、小声になっていた。
「いいえ、そうは思わなかったのですが、僕、女性の扱いになれてないので。ごめんなさい。」
通行人がそんな二人を不思議がるように眺めながら通り過ぎていく。
「三神君、楽器屋さんに行くって言ってたけれど、良かったら、今日私と付き合わない。喫茶店でなら、問題なく一緒にお茶のめるから。」
「ええ。良いですよ。でも、良いのですか?彼氏とかに見つかったら、まずいんじゃ。」
「だからそんな人いないの。」
そう言って、美穂は笑った。
二人はそのまま電車に乗り、渋谷で降りた。
洋介の行きつけのアリス楽器にまず入って行った。
「洋介おはよう。ギター買いに来たの?」
「なわけ無いじゃ無いですか。弦を買いに来たんですよ。」
「なんだ。ミュージックマンが入ったけれど試奏してみる?」
真新しい、見るからに高そうなギターが飾られていた。
「今日は連れがいるから止めておきます。」
洋介は、断って、去ろうとした。
「私なら良いわよ、せっかくだから試してみたら。」
美穂は、そんな洋介にささやいた。
「そうだよ。めったに入らないし、試して見てよ。」
その一言で、洋介も、弾いてみる気になった。
手にずっしりと来る高級感。
クリーンで鳴らしてみると、ボディの鳴りが体中に感じられる。
少し、アンプで、歪ませる。
心地良いディストーションがたまらない。
洋介は、ホワイトスネークのイズ・ディス・ラブを弾いていた。
インスト風に即興でアレンジして心にしみるソロだった。
その後、MSGのビジョー・プレジュレットを弾いた。
彼らしい繊細なタッチで物悲しさがなんともいえなかった。
「良いですね。このギター。バランスが良いですよ。欲しくなりました。やばいですね。」
話す洋介のその顔は、子供が欲しいものを手に入れたときのような屈託の無い笑顔だった。
「買うか?」
「だめだめ。身に余る品ですよ。」
そう言って、洋介は、弦だけを買って、美穂を促して外に出ていった。
「おーい。洋介、ちょっと・・・」
店員の杉江が呼んだ声はもう彼には聞こえなかった。
「せっかく、洋介の好きなジャックが来るって言おうと思ったのに。」
杉江は仕方なく店にもどると店長の糸山が
「今ギターを試奏していたのは誰?」
「洋介ですよ。DayTripperの三神洋介。あっ最近あいつ脱退してサラリーマンで頑張ってるっていってましたけれど。」
「ジャックが、さっきの試奏を聴いていて気になったようでね。」
この日、イベントで、世界的なヴォーカリストのジャック・リン・バーナーが来店していて、
三神が試奏していた時にはすぐ近くの控え室で打ち合わせをしていたのだった。
糸山は、さっきのギターは、三神というアマチュアが試奏していたんだと伝えた。
ジャックは驚いた表情で、日本では、アマチュアでもあそこまで弾けるのと感心仕切りだった。
このとき、ジャックの胸の中で、有る案が浮かんだ。
「喉渇かない?」
楽器屋を後にして、肩を並べて歩き出して間もなく、美穂は洋介に問いかけた。
「そういえば・・。じゃぁそこの自動販売機で・・・」
そういうなり、洋介はもう自動販売機に向かって歩き出そうとしている。
「コラッ!冗談でやってるなら許すけれど、女性が喉かわいたって言ったら、普通は喫茶店でしょう。」
「えっそうなんですか。」
美穂は、洋介がもてないと言う理由が少しわかったような気がした。
「もう。さっき喫茶店に行くって言ったじゃない。私が知ってるお店が、すぐ近くにあるから、そちらに行きましょう。」
美穂の知ってるというお店は、英国調の喫茶店で、紅茶がメインのお店だった。
美穂は、アールグレイにスコーン。
洋介は、アイスコーヒーにバナナケーキを各々注文した。
しかし、すぐに洋介は自分の過ちに気がついていた。
「やっぱりここは、紅茶をオーダーするべきでしたよね。」
しまったという顔をした洋介がなぜだか憎めない感じがして、美穂の気持ちは和んだ。
二人はそこで、とりとめも無い話で時間をすごした。
普段あまり話さない洋介が、良くこんなに話すと自分でも思うぐらい
音楽の話で、マイケルボルトンが好きだと、言う意見は二人の一致した意見だった。
それから二人は、ブティックをはしごした。
「こっちの服も良いけれど、この黒いのもいいしな。」
美穂は、さっきからそう言って、迷っていた。
「三神君。如何思う。どっちが良いかな。」
最後に、洋介に助け舟を求めてきた。
洋介は、困った顔をしながら、
「美穂さんには黒いほうが似合うと思いますよ。でも、僕は、その黒より、こっちのほうが似合うと思うけれど。」
洋介は、まったく、違う服を、美穂に指し示した。
「どれ。うーーん。今までこんな服は持ったことがないけれど、良い感じね。試着してくるわね。」
そう言って、美穂はまたしても、試着室に消えて言った。
待つこと数分。
「三神君。こんな感じだけれど、おかしくない?」
恥ずかしがりながら、美穂は試着室から出てきた。
洋介が想像した以上にその洋服は美穂にぴったりと似合っていた。
目を細めて、美穂を見て、
「きれいだ。よく似合いますよ。星野さん。」
「そっかな。ちょっと大人すぎるかな・・とも思うけれど、私も気に入ったわ。
三神君。こういった服が似合う女性が好みなんだ。」
美穂はいたずらっぽく笑い、結局、洋介の選んだ服を買ったのだった。
二人は、買い物を済ませて、二人で、電車にのり家に向かった。
「私ね。男性に、洋服を選んでもらったの初めて。だからうれしかった。でも、三神君はもう女性の買い物には懲り懲りって思ってるでしょう。」
屈託無く笑いながら、美穂は、洋介にひじをぶつけて言った。
「そんなこと。全然。僕も、女性の買い物に付き合う経験が無かったので、楽しかったですよ。」
そう言って、洋介も笑い返した。
「優しいのね。三神君は。」
「星野さんに彼氏がいないことが僕には信じられないです。今日はとても楽しかった。」
駅に到着し、今日はもうすぐ終わろうとしていた。
何か言うことがある。そんな思いをお互いに持って、駅の改札を出た。
改札を出れば、右と左に分かれて帰らないといけない。
洋介は少しあせりを感じた。
何かを言わなければいけないのはわかってるのだが、何を言えば良いのかわからない。
「家まで送ります。」
それだけ言って、歩き出した。
なぜか、鼓動が早くなっているのを洋介は感じた。
「来週の休みも、こうやって、二人ですごすと言うのはだめですか。」
言いながら、洋介は顔が熱くなるのがわかった。
「三神君・・・・。」
「星野さん。年下の彼氏はいやですか。」
洋介は、いつもの自分からは絶対にいえない言葉だと思った。
「ありがとう。私。うれしい。私も実は、いま、同じ事を考えちゃってた。今度の休みの日も一緒にすごせたらなって。」
お互い見つめあい、思わず、笑い出してしまった。
「おなかすいてない?」
美穂は、緊張が解けて、現実的に食事がまだなのを思い出した。
「そういえば。」
二人はそのまま、銀嶺に脚を向けた。
-首-
「三神!お前、土曜日出勤しろと言っただろう。」
月曜の朝出勤するなり、本池が待ち構えていたように、怒鳴ってきた。
有る程度予想される。反応だった。
「酒井課長からお話を伺っておられませんか?」
三神はうんざりしながらも、先輩なので、丁寧に返事をした。
「課長からは聞いた。だけど、なら、なんで、俺に電話しないんだ?」
ねちねちと、いつもの攻撃するパターンだった。
「ちょっと待ってください、本池さん。金曜日、私もその場に一緒にいましたが、
酒井課長が、三神君の企画書を見て、具体的修正箇所を指示されて、コピーを課長と、本池主任の机に置いておくように言われて、
ここまで出来ていたのなら、土曜日は出勤しなくて良い。後は、課長から、主任に話しておくから、という話でしたよ。」
たまりかねて、美穂が、本池と、洋介の間に割って入った。
「そんなことは関係ない。俺の命令をこいつが聞かなかった。それが気に入らない。」
もはや、無茶苦茶な言い方だった。
「星野。三神がちょっとばかり見栄えが良いからって、かばいすぎじゃないか?それとも、もう良いことがあったのか?」
何かが、切れる音を、三神は頭の中で聞いた。
「主任。ちょっと待ってください。私に腹立てるのは良いですが、私のことで、星野さんを侮辱するような発言、聞き逃せません。星野さんに謝ってください。」
「・・・・・」
おとなしいだけの男だと思っていた、新人から、思わない反撃を受け、一瞬本池は言葉を失った。
「三神君・・・待って。本池さん。大体、この企画書、酒井課長から、本池さんに指示があったのが、一月も前だそうじゃないですか。
これを、新人一人に任せて、ご自分は締切日に定時で帰ったのでしょう。修正箇所も教えずに。それで今度は、私にセクハラですか?」
美穂も、血相を変えて、本池に詰寄る姿勢をしめした。
「何だおまえら。俺に逆らうのか?そんなことしてただで済むと思うなよ。」
「それはどういう意味ですか?」
険悪な空気が流れ、収拾がつかなくなりそうになった時、
「そこまでにしておこうか。おまえら。」
課長の酒井が朝の会議から帰ってきた。
「本池、全部そこで聞いていたけれど、土曜日に俺がした説明。全く解って無いじゃないか。」
酒井は普段物静かな男だが、曲がったことの嫌いな人物で知られている男だった。
その酒井が、本気で怒ってる様子に、さすがに本池も黙らざるをえなかった。
酒井はさらに意外なことを言い出した。
「本池、おまえが、新人をいじめているという噂は以前からあった。上の方でも問題になっていてな。
君を主任から降格と言うことに話が決まった。そして、三神は矢野のグループに入れることにする。
本池は、部下なしで、私の直下になる。」
さすがに本池も顔色を無くした。
「こんなことが、許されるわけがない。酒井。今にえらい目に合うことになるぞ。」
課長である酒井を呼び捨てにして、ヤクザまがいの発言で酒井を脅した。
「本池、君が、副社長の三井さんを頼りにしているのなら、無駄なことだ。副社長はさっき更迭されたよ。
君が副社長派だったのはしれているが、降格人事だけで済むだけ良しとしなければいけないのは、君が一番よく知っていることだと思うが。」
その次の言葉はとうとう本池からは出てこなかった。
ただ、荒々しく、事務所をあとにする足音だけが廊下に響いた。
結局本池は、そのまま会社には二度と戻らなかった。
職場放棄と言うことで、懲戒免職になるところを、何とか諭旨免職ですませられたと言うことだった。
その週末、病気のいえない、長谷川に変わり、金曜の夜にDaytripperの応援でライブに出ることになっていた。
「あれ、三神君。どうしたの?ギターなんて持ってきて。」
矢野係長がめざとくギターを見つけて、聞いてきた。
「ええ。知り合いのバンドに応援を頼まれまして、断り切れなくて。急遽ヘルプすることになったのですよ。」
「そっか。三神君バンドやってたんだっけ学生時代に。実は私も、学生時代バンドでベースやってたんだよ。
今度、バンド作ろうか。」
「そうですね。一度、セッションしましょうか。」
そんな会話をしているところに、酒井課長が。
「じゃあ俺がドラム叩いてやるよ。」
部署でバンドを作りそうな雰囲気になった。
この日、彼の職場は音楽の話で盛り上がり、
じゃあ一度、三神のライブをせっかくだから観にいこうということになった。
運良くこの日はそれほど遅くもならずに、仕事を終えることが出来た。
「ええと。次のバンドらしいですよ、三神の出るバンドって。」
矢野が酒井にささやいた。
「しかし、久しぶりにライブハウスも良いものだな。なんかうれしくなるな。」
普段、無口な酒井が目ずらしく興奮気味だった。
そのとき、ハードなギターが、聞こえてきた。
彼らのオリジナル曲、「目覚めるとき」の重厚なリフが耳をつんざく。
「おいおい!思ったより凄いじゃないか」
洋介は、いきなり、テクニカルフレーズを連発で決めまくっている。
「おい。誰だ?三神にバンドをやろうって言ってたの。」
「そういう課長も、ドラムは任せろって。」
二人の予想をはるかに超えた、パフォーマンスを、Daytripperは繰り広げていった。
この日の洋介の演奏の出来も前回の応援のときの演奏よりかなり出来が良かった。
前回は少し堅さがあったが、この日は、正メンバーであったときの立ち居地に戻ったような感じだった。
メロディー重視でありながら、ギターを泣かすことを忘れないプレーは、プロ顔負けで、
ヘルプでありながら、この日バンドを引っ張っていたのは、間違いなく三神だった。
そうでありながら、でしゃばった感が無いのは不思議だった。
洋介もギターを弾いていると、気持ちがなぜか充実していき、自分自身が満たされるのを否定できなかった。
「プロ」その言葉の持つ魅力を自分自身で封印したことにこの日ばかりは、やや後悔の気持ちを持った。
だがそんな気持ちよりも、ギターを人前で弾けることがうれしく、演奏に没頭でき、それが演奏に表れたのだろう。
途中に、「パリの散歩道」をいれ、十分にギターを泣かせた後は、
連発で、これぞ、ハードロックというプレーでライブを終えた。
オーディエンスは、鳴り止まない拍手で、彼らの演奏に応えていた。
「矢野君。あいつ、うちに勤めるより、プロになったほうが良いんじゃないか?」
「私もそう思いましたよ。レベルが違うんで、バンドを組む話は無しですね。」
この二人の会話は、後の洋介の将来を暗示している様だった。
-女が男を愛するとき-
次の日。洋介はインターホンの呼び出し音で目が覚めた。
ボウットした頭は、まだ昨日の演奏の余韻に浸っている感じだった。
何とか、インターホンに出てみると、美穂がそこにいた。
「まだ寝てた?ごめんね、朝ごはん作ってあげようかなって。思って。」
一瞬にして、眠気が吹っ飛んで、あわてて着替えて洋介は表に出た。
「おはようございます。星野さん。いや、ビックリした」
「ごめんね。でも、昨日がんばったから、朝ごはん作るの大変だろうなっておもったから。」
そういう美穂の胸には、バタールが抱えられていた。
洋介は、あわてて、脱ぎ散らかした、服などを片付け
美穂を部屋に入れた。
お湯を沸かし、ながら。落ち着かない様子で、美穂に聞いた。
「紅茶が良い?それともコーヒー?」
美穂は、そのままテーブルの上に、食材を置くと、自分でするといって、
腕まくりをして、小さなキッチンで作業を始めた。
洋介はなんとなく落ち着かず、CDに手を伸ばし、ボンジョビのCDをかけた。
「あっこの曲好き。ボンジョビも聴くんだ洋介君。」
鼻歌を口ずさみながら、起用に朝ごはんを準備して美穂は、洋介に聞いた。
「なんでも、僕は聞くよ。演歌と民謡以外は。」
洋介は、合わせてギターを操りながら答えた。
そのしぐさがあまりに落ち着きが無く、美穂は思わず噴出した。
「少しは落ち着いたら、洋介君。朝からギターじゃ、近所迷惑よ。」
「落ち着いてるよ。僕は」
といって、今度はダンベルを持ち上げている。
ここまで行くとギャグに見えてくる。
日ごろ、落ち着いて大人っぽく見える洋介だけに余計におかしかった。
そして、サンドイッチとスープ、スクランブルエッグがテーブルに並んだ。・
「簡単なもので恥ずかしいけれど、どうぞ。洋介君と一緒に食べたくて。」
向かい合って、食べるのもなんだか緊張して何所となくぎこちない所作で、スープを口に運んだ。
「おいしい。フランスパンのサンドイッチって。なんかおしゃれだよね。」
そう言って、パンをほおばる洋介の子供っぽさが美穂にはたまらなく可愛かった。
美穂も食べながら、洋介のCDラックに目を移した。
そこには一人のシンガーのCDが置かれていて、目に留まった。
「洋介君。マイケル・ボルトン好きなの本当なんだ?」
「さっきも言ったように、僕はなんでも聴くよ。マイケル・ボルトンは、大好きなシンガー。いつか競演したいと思ってた。」
遠くを見つめるように語った。
「でもね。アマチュアですからね。僕は。」
その言葉になぜか洋介の寂しさを美穂は感じたのだった。
「プロになりたいの?」
美穂の問いかけに
「うーーん如何だろう。まったくなりたくないと言えばうそだろうな。でも、自分は大学にいって、勉強したし、その勉強したことを生かせた仕事をしたい。
そう思って、就職しました。今の仕事が、自分の望んだことに100%かなってるのかと言われれば、そうでもないけれど、
これでよかったんだと言う思いも嘘じゃないです。でも、昨日のように、ギターをプレーすれば、少し、考えちゃいます。」
そのとき、マイケル・ボルトンの”男が女を愛するとき”が流れてきた。
When a man loves a woman
Can't keep his mind on nothing else
He'll trade the world
For the good thing he's found
美穂は、女もそうなのよ。そう心の中でつぶやいた。
美穂は、この年下の彼氏が、本当に好きになってしまった自分に改めて気づいた。
「この曲良いですよね。
オリジナルも良いですけれど、マイケル・ボルトンのカバーはオリジナルに負けないぐらい素敵ですね。」
そういって、さびを洋介は口ずさんだ。
「男性が女性を愛する瞬間って理屈じゃないように思えます。そこに素敵な女性がいて、
その人と一緒にいて何となく落ち着くと思った瞬間かもしれないです。」
そう言って、洋介は恥ずかしそうに笑った。
「僕は今まで女性と付き合ったこともないし、学生時代は、勉強していたし、バンドも一生懸命だった。
女性にまで、意識がまわらなかったというのが本当だけれど、たまに、バンドのファンですって言う女の子達と、遊びに行っても何も楽しくなかった。
彼女たちが好きなのは、ギターを弾いている僕であって、生身の僕じゃない。
だから、僕の本当の姿を知ると、つまらながってた。星野さんだけが、ギターを弾いている僕じゃなく、生身の僕を好きになってくれた。それが凄くうれしかった。」
洋介の素直な気持ちが美穂はうれしかった。
美穂が勤める会社の今年の新人にアイドルのようなのがいるという噂が社内に広がったのは、
入社式の間なしの頃だった。
その時そんなに可愛い女の子が入ったんだ。美穂はその噂の主が、女性だと思っていた。
男性社員の浮かれる姿を想像して、少しおかしく思ったのだが、それが、女性ではなく、
男性社員だと聞かされて、大いに驚いた。
でも、同僚の女の子が騒ぐのを、横目に見て、少しさめた感覚で見つめていた。
美穂自身は自分はキャリアを積みたいと思っていた。
これからは、女性もキャリアアップしていく時代に来ている。
そう思い、他の人が騒ぐほど興味がなかった。
学生時代も男性とおつきあいしたこともなく、どちらかというと、引っ込み思案の自分が社内恋愛をすることなんて考えてもいなかった。
その噂の新人が、自分の部署に来たとき、驚いたのは事実だった。
初めて洋介にあったとき、本当に綺麗だと思った。
でも、そう言う男性は、冷たい人が多いし、性格が悪いと信じていたので、それほどに思いもしなかった。
しかし、その新人は、成績も新人の中では、上位で入社し、課長の酒井が是非にもうちの部署に欲しいと、
強行に主張して、配属させたという噂もあったにも関わらず、
全く普通だった。あたりまえと言えばそうなのだが、ハンサムと言われる男性が持つ、冷たさも、
成績が良かったという、鼻持ちならないような感じも全くなく、
少しドジで、頼りなげで、ユーモアあふれる好青年だった。
本池の事件で、一緒に仕事が出来、一緒に食事をしたとき、正直言うと、ドキドキしてうれしかった。
そして、今こうして、その彼と、つきあいがスタートしたとはまさしく青天の霹靂だった。
洋介も自分の部署に、新人の間でも噂の美人の先輩がいることに少しうれしかった。
同期や先輩を出し抜いてその美人の先輩とつきあえるなんて、夢にも思わなかった。
勉強とバイト。そして音楽。女性と遊ぶ余地なんて、少しもなかった。
そんな世間で言う、奥手同士のつきあいはこの先思わぬ展開が待ち受けていることなど、誰も予想しなかった。
ブランチを二人きりで取ったあと、出かけようかと言うことで、
水族館に行くことにした。
二人で、並んで歩き、どちらからとも言うことなく手をつないで歩いていた。
周りから見れば少しぎこちなく映ったかもしれないが、二人の距離は、時間毎に短くなっていった。
夕日が沈んだ、海辺で二人は、その日、初めてのキスをした。
-ジャック・リン・バーナー-
「三神。君凄いじゃないか。すまない。君のレベルを知らずに、バンドをやろうなんて、軽はずみなことを行って悪かった。」
そう言って、矢野は、週明けの出勤後、洋介に謝ってきた。
「そんな。音楽は楽しくやればいいので、矢野さんとも一度セッションしてみたいのですけれど。」
矢野は青くなりながら、
「いや。勘弁してくれ、とてもじゃないけれど、私は、そのレベルじゃ・・・」
そこへ、酒井が入ってきて、
「三神君。ビックリしたよ。いや、久しぶりに楽しましてもらった。でも、バンドの話はなしな。」
「そんな。楽しみにしてたのに。」
二人の賞賛はうれしかったが、寂しくもあった。
自分としては、楽しんで音楽をやりたかったので、誰とでも、アマチュアバンドを作って活動したかった。
しかし、現実的には、難しいと言うことなのだろうか。
音楽が好きなだけに、活動が限られる事への寂しさを感じざるをえなかった。
「三神さんってそんなにギター上手なんですか?」
隣の課の田村雅美が話しに加わってきた。
「ほとんどプロの領域だよ。彼の腕前は、いやプロでもそういないかも。」
「へえ。観てみたいな。三神君。今度誘ってくださいね。」
雅美はそう言いながら、三神を見つめながら、自分の席に戻っていった。
「三神。彼女には気をつけろよ。あれは狙ってるぞ。その気がなければ、近づけない方が良い。」
矢野は、小声で、洋介にささやいた。
そして、始業のベルが鳴り。一日がスタートした。
その頃、サンライズのマスターの戸川は、アリス楽器の糸山から電話を受けていた。
「戸川、Day Tripperの三神っていうギタリスト、確か、よく知っていたな。ちょっとそのことで相談があるんだが。」
糸山と戸川は、昔、バンドを一緒にやっていた中で、今でも、時々、顔を合わせて、セッションする中ではある。
「まぁ、知ってるよ。でも、あいつは、もうバンドを辞めているよ。就職して、サラリーマンをやってるけれど、それが何か?」
何のことがわからないままに、戸川は、探るように答えた。
「先日、うちの店に、ジャック・リン・バーナーが来てたんだが、そのとき、たまたま、三神君がうちで、ギターの試奏をしてね。
また、これも、たまたまなんだが、ジャックがそれを聴いたんだ。それで、是非会ってみたいといって、かなりの熱の入れようで、
それで、もし、連絡とれるようなら、何とかしてほしいんだが。」
思いもかけない話に、戸川は、驚いて、次の言葉が出なかった。
まさしく、プロを目指す人間なら、まずあり得ない、ビッグチャンスだ。
「もちろん連絡は取ってみるけど、実は、一昨日DayTripperのライブがあって、それに、ヘルプで、三神がギター弾いてるんだ。
その映像を、ホームビデオだけど、撮影してるから、それ、ジャックに見せてみるか?」
「それはいいや。是非頼むよ。出来れば、三神君にはあえなくても、ジャックをつれて、今夜そっちに行って、そのビデオをジャックに見せたいけれど、良いかな?」
それで戸川は糸山に問題ないことを言って、洋介に連絡をしてみることを約束して電話を切った。
戸川は、洋介の仕事が終わる時間を、時計を眺めながら、ゆっくりしと時間がすぎていくことにイライラしていた。
お昼の終業のベルがなり、仕事をおいて、皆が一斉に食事に向かう。
洋介もその中に身を置き、流されるように食堂に行く。
今日の定食は?などと思いながら、列の後ろに並ぶ。
何とか、A定食を買って、次は席を探す。
その姿を見て、美穂が手を上げて、合図を送り、何とか二人並んで食事をとる事ができた。
「なんだか、今日も、代わり映えしないわね。定食。」
美穂はそう言いながら、小さな、弁当箱を鞄から出した。
「美穂さんはお弁当なんだ。」
「だって、もったいないじゃない。それに、食堂の定食、おいしくないんだもん。」
洋介もそれには同感だった。
油の固まった、豚肉のポークチャップを食べておいしいと思う人はそう居ないだろう。
そんなことを思っていると、
「ねぇ。今日、私、定時に上がれそうなんだけれど、夜、食事作るから、一緒に食べない。」
「それは良いけれど、良いの?」
「だって、一人で食べてもおいしくないし、一人分も二人分も作るの変わらないし。」
洋介はそれでは、仕事が終わったら、マンションに行くと返事をした。
そのとき、
「三神君の隣座って良い?」
雅美が強引に、洋介の横に座ってきた。
思わず、美穂と洋介は顔を見合わせた。
「仲が良いのですね。お昼を一緒なんて。美穂さん。」
少し皮肉交じりに、雅美は美穂は言った。
「ええ。仕事も一緒にしてますしね。そんなことより、雅美さんも珍しいわね。
食堂に来るなんて。いつも大概、外で食事しているのに。」
女二人のバトルが始まりそうな予感に、洋介は身の置き場が無い気持ちだった。
「たまには、食堂も良いかなって。というより、三神君と食事してみたくてね。
三神君。今晩、食事に行かない?おいしいお店知ってるのだけれど、
どうせ、一人暮らしで、ろくなもの食べてないのでしょ。」
かなり強引な雅美の誘いに、流石の洋介も面食らってしまった。
「田村さん。悪いけれど、今日は他に用事もあるので、またにしてください。」
「そう。それは残念。まさか、先客が有って、それが星野さんとか言うのではないでしょうね。」
「そうだったら、どんなにうれしいか。残念ながら、彼は、土曜日にライブがあるから、練習で忙しいのよ。」
さすがに、美穂は落ち着いて、切り返していた。
洋介は、背中に、冷たい汗をかいていた。
「じゃあ、お茶だけだったらいいでしょ。約束したわよ。」
それだけいうと、雅美は、去っていった。
「どうしよう。会社の先輩だしな、迷惑なんだけれど・・・」
「あれだけ強引に誘うなんて思わないわよね。」
二人は顔を合わせて、笑うしかなかった。
「でもね、あの人には気をつけてね。雅美さんは、新人キラーといわれてるの。新人の男の子を・・・」
そう言うと、美穂は顔を赤らめた。
「三神君のことを信じてるけれど。」
その日の修行後、雅美は、洋介を待ち伏せするように待っていた。
苦笑いをしながら、後をついて行くしか洋介には方法はなかった。
「何が食べたい。」
「田村さん。用事があるのは本当です。お茶だけにしてください。」
洋介は、きっぱりと言い切った。
「そうだったわね。じゃあここでいい?」
そう言って、一軒のカフェに入っていった。
席について、注文をしてすぐ。
「三神君。彼女いるの?」
雅美はそう聞いてきた。
洋介は、この際だから、はっきりさせた方がいいと、腹を決めていた。
「ええ。彼女いますよ。」
「そうなんだ。そらそうよね。でも、年上の女性とつきあってみる気はない。」
洋介の返事など、意に介さないように、大胆に直接的に誘いをかけてきた。
「はっきり言っておきます。僕は、彼女ともうまくいっていますし、彼女がいるのに、別の女性とつきあうような人間ではありません。」
洋介も、負けじと応戦した。
「これ以上、話をすることもないと思いますので、失礼します。」
そう言って、洋介は席を立とうとした。
「待って。謝るわ。」
それから、雅美の口から、意外な言葉が、出てきた。
「私と、本池がつきあっていたこと、知っていた?」
雅美と本池は、つきあっていて、本気で、本池と結婚する気だった。
本池は、その頃、かなり、有望視されていた社員だった。
仕事も、できた方だった。そして、副社長に気に入られようと、近づいていったのだった。
その結果、副社長に気に入られた、本池は、副社長の三女と結婚することになった。
その、縁談が決まったとき、あっさりと、本池は、雅美を捨てたのだ。
しかし、そのくせ、愛人としてのつきあいだけは続けていたのだった。
「私が、周りからどういう風に言われているのか知ってるわよ。新人の男の子と寝まくってるって。本当のことよ。本池に捨てられて、どうでもよくなって。でも、本池も辞めて、私も、居心地が悪くなってきたし、
会社辞めようと思ってたの。三神君のこと、本気に気に入ったわ。星野さんに恨まれるのだけはいやだから、明日、会社辞めるって、辞表出すことにしたわ。」
「田村さん。星野さんと僕のこと・・」
「わかるわよ、そんなの。あの子はいい子だから、大切にしなさいよ。お似合いだし。今度の土曜日のライブ、見に行くわね。」
その時、三神のポケベルが鳴った。
「田村さん、ごめんなさい。」
「いいわよ。電話してきなさい。」
電話から帰ってくると、もう、雅美の姿はなかった。
洋介は、少し、切ない気持ちがした。
電話は、サンライズの戸川からだった。
会わせたい人がいるから、これから店に来てほしいとそれだけいって、電話は切られた。
仕方なしに、美穂に電話をいれ、少し遅くなることを言って、サンライズに行くことにした。
店に着くと、スタッフルームに行くように言われて、奥のスタッフルームの扉をノックした。
「どうぞ。」
その声で扉を開くと、中に戸川と糸山。もう一人、金髪の外国人が、
モニターを食い入るように観ていた。
それは、先日行われた、DayTripperのライブを撮ったビデオが写されていた。
「だめですよ。そんなの観ちゃ。その日の出来はあまり褒められたものじゃないのですから。」
思わず、洋介は、声を上げてしまった。
「まあそういうな。俺は良い出来だったと思うけれど。それより、紹介するよ。糸山は知ってるよな。それと、
彼も名前と、顔は知ってると思うのだけれど、ジャック・リン・バーナー氏だ。」
確かにそこに、テレビや、雑誌、CDジャケットでしか見たことがない、世界的な、ハードロックのボーカリストのジャックが座っていた。
洋介は、あまりの展開に声も出なく、立ち尽くすのみだった。
「君は、出来がよくなかったと言うが、どの辺りが良くなかったのかね。」
そんな洋介に、笑いかけながら、流暢な日本語で、問いかけてきた。
口の中が乾くのを感じながら、洋介は、答えた。
「まず、ライブの始めのほうに堅さがあります。そのため、ソロを相当アレンジして、スピードを抑え気味で弾いています。
音も、少し温かみにかけます。スピードを抑えて弾いているため、少しギクシャクした感じもします。」
「それに気がついた人間。何人居たと思うかな。」
ジャックはさらに質問してきた。
「おそらく居ないと思います。それは、僕自身の気持ちの上での問題だと思っています。でも、満足できない出来だったのは事実です。」
ジャックは満足そうに笑いながら話しかけてきた。
「そうだ。私が、見る限りも、この演奏は相当ハイレベルな演奏をしている。決して、悪い演奏じゃないそれでも、満足できないのは、
君の志が高いからさ。それと他のバンドのメンバーとのレベルの違いも堅さに繋がっているのだろう。ボーカル以外は君と同レベルまで達していないというのもあるんじゃないのか。」
ジャックの言葉は、痛いところをついていた。
確かに、ドラムもベースもアマチュアでは上手いと言われるが、プロを目指すにはという感じは常に持っていた。
「それは・・・・・」
洋介は言葉に困った。
「このバンドは悪くない。でも君にとってベストではない。ベストの状態の君の演奏を、是非に観てみたい物だ。」
「でも、私は、アマチュアですから楽しんで演奏できればそれで良いです。」
「そうだ。音楽は楽しんでやらないと。いや、今日は君に会えてよかった。日本にも君のような若くて才能のあるギタリストがいてるとは。今度会えるときは、セッションしたいね。」
そう言って、ジャックは、洋介に握手を求めた。
「それは、是非。私は、ジャックさんの大ファンで、あなたの曲を自分のプレーで弾けたらさぞ楽しいだろうと思います。」
その言葉を聴いて、ジャックの目が光った。
「例えばどういう曲?」
「「in to the naight」 「cross fire」 等ですね。これらの曲のギターは自分ならという思いがあって・・・あっすみません。生意気なこと言ってしまって。」
洋介は、少し調子に乗って言い過ぎたと反省した。プロのミュージシャンに、アレンジ批判をしたのも当然だったから。
「いや。いいよ。糸山。私は、私は彼が気に入ったよ。今度日本に来たときは、是非セッションしたい。」
そのまま、がっちりと二人は握手を交わした。
ジャックは、記念の写真撮影と、サイン入りのCDをプレゼントにくれた。
美穂も待っているので、洋介は、そのままサンライズを後にした。
店を出た後に、背中にいっぱい汗をかいてる自分に気づき、身体が震えるのを感じた。
洋介は、急いで、美穂のマンションに向かった。
インターフォンをならすと、すぐに美穂が出てきた。
「私を餓死させる気かと思ったわ?」
そう言いながら、部屋に入れてくれた。
美穂は、黒のTシャツにデニムという出で立ちに着替えており、リラックスした雰囲気だった。
「すぐに食事にするわね。そこに座って、待ってて。」
そう言いながら、料理を並べはじめた。
「期待させた割には、たいしたものじゃないけどね。鯖の味噌煮と肉じゃがそれにお味噌汁。
なんか和風でしょ?」
少し恥じらいながら、並べていく美穂を改めて、好もしく洋介は思った。
「そんな。和風好きですよ。美味しそう。」
「ビール飲むでしょ。さっき冷えたの買って冷蔵庫に入れておいたの。」
食卓で。向かい合って座って、美穂は、洋介のグラスにビールをついだ。
美穂は「なんか新婚みたいね。」そう言って、顔を赤くしてうつむいてしまった。
その後、二人で、顔を合わせて、吹き出して笑った。
「雅美さんの件どうなったの?」
そこで、洋介は、雅美とのやりとりをすべて話した。
「最後に、美穂さんと仲良くねって。」
「気がつかれただんだ。でも雅美さんも可哀想な人よね。」
それから、洋介は、サンライズでのことも美穂に話した。
「嘘。ジャックがあのお店にいたの?私好きなんだあの人の曲。それで。」
ジャックとのやりとりも美穂に話した。
「洋介さんすごいじゃない。あなたのギターが、世界のトップミュージシャンに認められたということじゃない?
ひょっとしたら、スカウトされたりして。」
美穂は目を輝かせて、洋介を見つめた。
「それはないよ。アマチュアでギター弾いてるのに少し気になるのがいたと、それだけのことじゃないのかな。」
「でも、もし、プロに誘われたら、どうするの?プロになる?」
美穂は不安げに洋介に聞いてきた。
「それはないと思う。僕は、大学でやっとの思いで勉強して、今の会社に入った。自分のした勉強を無駄にしたくない。」
「プロになりたくはないの?」
「なりたくないことはないさ。でも、僕には無理だろう。父が早くに亡くなって、母が苦労したのを僕はみている。安定した生活は、僕の夢なんだ。」
「私はその方が良いわ。あなたとずっと一緒にいられるし、華やかな世界で、気を遣うのいやだもの。でも、あなたの才能を無駄にするのだけはいやよ。
私のことを思って、もし、プロに行かないというのだけは絶対にいやだからね。」
そう言って、その話は終わった。
その日、洋介は、美穂の部屋に泊まった。
二人だけで初めて朝を迎えたのだった。
次の日の朝、早くに目覚めた、洋介は、一足早く美穂の部屋を出て、自宅で着替えて出社した。
その日、一日どこかぎこちない洋介だった。
-予感-
そして、土曜日が来た。
DayTripperの三週連続出演の最終日。
この日の洋介のギタープレーは、いつもにまして、切れていた。
さすがに、一流ミュージシャンの目にとまるプレーだった。
そして、トーンにどことなく暖かみが出ていたと、感じたのは、美穂の勘違いではなかったはずだ。
演奏が終わったとき、観客たちが、総立ちで拍手を惜しみなく送っていた。
美穂は、何となく、洋介がいつかは自分の手の届かないところに行くような気がした。
このまま、彼を独占することが、罪深いような気がした。
そのときがくれば、送り出さなければいけないのではないのかと。
幸せの絶頂なのに、寂しさを感じるのはなぜなのだろう。
この不安感は何なのだろう。
「素晴らしかったわね。思ってたよりも数倍。いや数百倍すごかった。」
そう言って、雅美が美穂に近づいてきた。
彼女は、洋介と会った次の日に、退職届を出し、今は、会社を有給で休んでいた。
「雅美さん。来てらしたのね。」
「ええ。約束ですから。彼素晴らしいわ。音楽も、人間的にも。あなたの彼氏じゃなかったら、奪いに行くところ。」
「・・・・・」
「冗談よ。でも、彼の才能は、このままでは終わらないわよ。そのときのことを考えて覚悟しておく方が良いのかも。これは嫌みじゃなくて、忠告として、聞いていただけるとうれしいけれど。」
そう言うだけ行って、雅美は去っていった。
最後の一言が、美穂の考えていたことと一致していて、美穂は余計に不安に駆られたのであった。
この日感じた不安とは裏腹に、その後の二人の交際は順調に進んでいった。
職場でも、公認の仲となって、幸せはこのまま続きそうだった。
連休には二人の実家がある、関西に帰郷し、お互いの親族に挨拶も済ませていた。
このまま結婚するものと、洋介は思っていた。
その一方で、洋介は、ヘルプで、ライブに出ることも多くなっていた。
洋介もやはり、音楽が好きなので、頼まれれば断れず、それはそれで楽しんでプレイしていた。
彼の得意なハードロックの応援もあれば、フュージョンバンドの応援なんかもあり、
適応能力の高さも一部の人間には認められるようになった。
そんな中で、変化もあった。
課長の酒井から洋介が呼ばれて、開発部への配置換えの打診があったのだ。
自分が前からやりたかったことなので、喜んだが、
勤務がなりハードになり、音楽ができなくなると言うことが心を重くした。
プロにはならずとも、趣味で今のようにやれればいいと思っていたのが、取り上げられるというのは、想定外だった。
まだ、決まったわけではないので、何ともいえないが、かなりの確率で、配置換えはありそうだった。
そして、そんなある日。
サンライズの戸川から、一本の電話が洋介にあった。
明日出演する予定のバンドのギタリストが腕を骨折してしまった。
ヘルプでギターを弾いてくれないかと言うことだった。
80年代ハードロックの夕べというイベントで、
演奏するのは80年代のハードロックの名曲ばかりで、
それに、その雰囲気を持つオリジナルが二曲というもので六曲演奏してほしいというものだった。
アマチュアのライブで、六曲の演奏は、少なくはない。
頼めるのは、洋介ぐらいしかいないのだという、戸川の頼みに、洋介は、快諾した。
後、何回ステージに立てるかわからないから、少々無理でも、出てみようと思ったのだった。
-プロ-
仕事を終え、サンライズに洋介は駆けつけた。
戸川からセットリストをもらう。
6曲のうち2曲がオリジナル。
後の4曲は80年メタルの、スタンダードな曲ばかりだった。
オリジナル曲のデモテープと楽譜を戸川から貰い、早速、洋介は聴いてみた。
コード進行と、リフのパターンをチェック。
洋介は、何とかなると思った。
メンバーは後10分ぐらいで来ることになっていると戸川が言うので、
出来れば、セッションしてみたいと洋介は思ったが、今日は仕事帰りなので、ギターもエフェクターも持っていなかった。
戸川に紹介されたバンドのメンバーは、みな一目でかなり出来そうなオーラを放っていた。
ギターとエフェクターは、そのバンドの怪我をしたギタリストのものが、あったのでそれで、軽くあわせてみようということになった。
最初の曲は、洋介も得意なMSGのARMED & READY。ギターの強烈なリフを洋介が弾き、
ドラムが絡み出した瞬間、このバンドのとてつもない、ポテンシャルを洋介は感じた。
そのドライブ感。グローブ感は今までのヘルプしてきたバンドでは、感じられないものだった。
何かが違う。そう感じたのも瞬間だった。
あまりの演奏の気持ちよさに、リハーサルにもかかわらず、彼の今まで持っていた、全てが出し尽くすような演奏だった。
続いて、オリジナル曲を合わせることにした。
それも、2,3回の演奏で、そこそこの形に持っていけた。
後は当日のリハーサルでと言うことになり、深夜、帰宅した。
リハーサルとはいえ、満足いく演奏が出来たと、幸せな気持ちだった。
当日は、自分の機材を持ち込んでのリハーサルにのっけから、
全開モードだった。オリジナル曲2曲も完璧なまでの状態で演奏できた。
「おい。あいつ本当にアマチュアか?」
バンドのリーダーが、戸川にそっとささやいた。
「ああ。彼が、惚れるのもわかるだろう。」
「全くだ。また、ギター持ったときのオーラの強烈なこと。俺たちが、引っ張られてるもの。」
リハーサルが終わった時には、バンドのメンバーは、完全に洋介のギターの魅力に取り付かれていた。
洋介は、リハーサル後も、楽屋でウォーミングアップを続けていた。
そこに、糸山が入ってきた。
「調子はどうだ?三神。実はな、急遽だが、ボーカルが、交代になったんだ。」
「糸山さんが、どうして?で、ボーカル交代って?」
事態が良く飲み込めないでいる洋介に
「Mr.ミカミ約束どおり、セッションするよ。」
明るく入ってきたのは、ジャックだった。
「えっ!ジャックがボーカル?本当に?凄い。」
洋介のハートはすでに臨戦態勢に突入した。
ハードな洋介のギターリフに、ドラムが絡み、ARMED & READYのイントロが始まる。
そして、ジャックがの登場。
会場は、最初から、興奮の坩堝だ。
しかも、ギターソロに入るや、洋介のプレイは、オリジナルを踏襲しつつ、洋介らしいソロを奏でていく。
一曲が終わる頃には、会場は完全にジャックと洋介たちにコントロールされていた。
続く、オールナイトロングでは、ジャックのボーカルがさえにさまくった。それに洋介も一歩も引かないプレーを見せた。
オリジナルに曲も違和感なく、80年代風の曲で、持ち味を遺憾なくそれぞれが発揮していた。
あっという間に、ラストの曲。ジャックのヒット曲になったとき、突如と、長めのギターソロを、洋介が、弾き出し、
その速弾きの速度に会場中の度肝を抜いた。
そして、本編では、オリジナルとは全く違うギタープレイだった。
それは、ジャックの前任ギタリストのマルクスを完全に無視したプレイといえたが、演奏し終えた時、オーディエンスは、万感の拍手で彼を称えた。
あっという間の出番だったが、周りに、洋介の非凡さを大いにアピールする形になった。
美穂は、楽屋の前で、引き上げてくる洋介を待った。
程なくして、汗だくになった洋介がギター片手に戻ってきた。
戻ってくるなり、親指を立てる洋介を美穂は誇らしく思った。
そんな二人の前に、ジャックともう一人の外国人、そして糸山が立った
「三神君お疲れ、こちらは、ジャックのマネージメントをしている、デニーさんだ。君に話があるらしい。」
糸山はそう言って、デニー・ロンダを紹介した。
「ミスターミカミ。実は、あなたと、契約したいと思っています。」
洋介は、突然の事に、この外国人の言っていることが理解できなかった。
「契約とは?」
「年明け早々に、ジャックは、ジャパンツアーを行います。そのときのギタリストにあなたを起用したい。ということです。」
夢だ。洋介はそう思った。ドッキリに違いない。
しかし、したたり落ちる汗は、現実ものだし、アマチュアの自分にドッキリを仕掛けるわけがない。
思考能力を徐々に取り戻しさらに体中に冷や汗が流れ落ちるのを感じた。
「冗談でしょ。私は、アマチュアですよ。サラリーマンです。無理ですよ。」
まさか、そんな答えが返ってくるとは、思わなかったジャックとデニーは顔を見合わせた。
洋介も、どのように答えて良いのか、迷っていた。
「ミカミ。君はプロのミュージシャンになる気はないのか?今日のステージどうだった?
リズム隊にイラつくことがあったか?君のやりたいように演奏ができる。これがプロのステージだ。一瞬にして、ステージ上の人間の意思が統一されるんだ。
そして、一体感で個人の持つ力以上のものが発揮される。今日のステージを引っ張ったのは、私じゃない。君だ。そして、我々含め、会場のすべてのものだが、
心地よい時間を共有することができた。これがプロミュージシャンの持つ力なんだ、君はすでにその力を持っている。」
洋介は、下を向いてしまった。
隣で、美穂は、洋介がどのような返事をするのか、興味深く見守った。
「ジャックさん。私の家は、父が早くに亡くなって、母に無理を言って大学に行きました。学費はすべて、私がアルバイトで出しました。
当然、勉強も必死になってしました。それなりに苦しかったです。それだけに、その勉学を無駄にしたくない。不安定な生活で、母に心配かけたくない。
また、ずっと一緒に安定した家庭を築きたい女性がいます。それらを、すべてぶちこわして、プロになるには勇気がありません。」
歯を食いしばって、はき出された言葉は、あまりにも苦しげだった。
「じゃあ、聞くが、ミカミ。今の君の働く部署。君の大学時代の研究が生かされていると思っているか。それに、ギターの演奏だって、そのレベルになるまでには、
相当の努力をしたはずだ。違うのか?その努力を無駄にできるのか?君は、いろいろと理屈をつけているが、臆病なだけだ。
時には、勇気を持って、次に挑まなければならないときが、人生にはあるものだよ。君の場合、それが今だ。
すべてのアマチュアが、うらやましがる条件が、目の前にぶら下がっている。これをものにしないで、君はいつ、勝負をかけるのか。
答えは、もちろん今すぐでなくて良い。良い返事を待っている。」
-別離ー
ジャックと、デニーはそれだけ言って、帰って行った。
洋介たちも、すぐに荷物をまとめて、洋介のマンションに引き上げた。
帰宅してすぐに、打ちのめされたように、洋介は、ソファーに腰を落としていた。
「すごい話ね。」
美穂は紅茶を入れながらそう言うしかなかった。
「ああ。」
それはいつもの洋介らしさがなく、うめき苦しむような声だった。
そのまま、しばらく、目を閉じて、洋介は動かなくなった。
そして、目を開けたとき、独り言のようにつぶやくようにしゃべり出した。
「プロを目指さなかった訳じゃない。今でもプロミュージシャンは僕の夢さ。しかし、亡父は夢を追い続け、夢を食べて生きているような人だった。
そのため、母がどれだけ苦労して、泣かされたことか。僕は、そんな思いを誰にも味あわせたくない。特にあなたには。それほど裕福でなくても、
家族仲良く手を取り合って、生きていきたいんだ。でもね。今日のライブは、僕にとって、最高の演奏だった。こんなすごい演奏ができるステージに、
また上がりたいという思いも、捨てられない。」
「ステージに上がるべきよ。」
美穂の言葉に、洋介は、しばらく頭を抱えて黙り込んでいた。
「ミュージシャンになっても、僕を支えてくれる?」
洋介は考えた末に、美穂に問いかけた。
「それは無理。私にはそんな世界のあなたを支える自信なんてないもの。私は、ごく平凡な男性と、結婚して、ごく平凡な家庭を築きたいの。」
洋介にとって、美穂のこの答えは、意外だった。
考えられない答えといえた。
洋介は半分固まりかけた、決意が大きく揺らぐのを感じた。
「私は、自分の目の前に大きなチャンスがぶら下がっているのに、それを見送るような男性には魅力は感じない。
まして、その理由が女性のためなんて、絶対許せない。これから、競争の激しい世界に飛び込もうというのに、それでは、勝ち残れない。
それに、私のために、自分の才能をどぶに捨てられるのなんて我慢できない。洋介君。良い?才能のある人は、その才能を世界に役立てなければいけないのよ。
それは、私のためとか、自分自身のためとかじゃなく、世界のためなのよ。あなたが世界のビッグネームになれば、どれだけの人が、あなたの音楽で救われるの?」
「・・・・・・・。」
洋介は、何も言えなかった。
うつむいて、何かを考えているようだった。
「僕たちは、別れるしかないようだね。」
「不釣り合いの仲だったのよ。私たち。・・・・私。帰るわ。」
美穂は、立ち上がって、玄関に向かおうとした。
「美穂さん。明日から、あなたには会えなくなる。僕の気持ちは決まった。だけど、5年後に会ってくれないか?
そのときには、僕の望みを聞いてくれないかな。それまでに、僕は、僕自身の答えを持ってあなたの前に立つよ。」
美穂は、洋介の決心に涙が出そうになるのを、こらえながら、
「ええ。解ったわ。そのときのあなたの姿を、楽しみにしている。」
-プロⅡ-
次の日、洋介は、会社を休み、以前の音楽仲間で先輩でもあり、今は法律事務所で働いている、田川を訪ねた。
そして、ジャックとデニーの話をして、力になってくれるように頼んだ。
その日のうちに、デニーに連絡を入れ、契約の話が、進んだ。
結果、ジャックとデニーの洋介への評価は、洋介の考えより、高く、破格の契約金と給与の条件で契約が取り交わされた。
洋介は、その後、会社には退職届をだしにだけ、訪れただけだった。
美穂に会うのがつらかったので、酒井にだけ定時後に訪問するとだけ連絡し、こっそりと訪問し、去っていった。
年が明けて、ジャックのジャパンツアーが始まった。
全くの新人の日本人ギタリストをツアーに帯同するというので、話題になった。
そして、その話題は、彼のプレイの質に移っていった。
それだけ衝撃な、デビューといえた。
前任者マルクスとは全く違ったタイプのギタリストだが、そのテクニカルぶりはマルクス以上だと噂された。
ツアーは、大成功のうちに幕がおり、このメンバーでのアルバムの制作が発表された。
そして、LAに旅経つ前夜、洋介は、美穂のマンションに前に立った。
「いよいよ、明日、LAに旅経ちます。5年後に会える日まで、帰国しないつもりです。お体に気をつけて。」
その一行だけの手紙を郵便受けに入れ、帰って行く洋介の後ろ姿を、部屋の窓から、そっと美穂は見送るのだった。
ジャックと洋介のニューアルバムは、発売前から、評判だった。そして、その評判通りものすごい勢いで売れた。
全米、全英、そして日本のチャートで上位に入った。
これは、ジャックにとっても初めてのことだった。
そして、ギター紙はこぞって、東洋から来た、若いギタリストの特集を組んだ。
瞬く間に、ニューギターヒーローの登場は、世界的に広がっていった。
東洋的ではなく神秘的と言われた、彼のギタースタイルは世界的に受け入れられた。
ニューアルバムをひっさげての世界ツアーは各地で大盛況だった。」
各地のコンサート会場はソールドアウト状態だった。
また、いろんなスターとのセッションも積極的に洋介はこなしていった。
夢だった、マイケル・ボルトンとのセッションも行われ、意外な取り合わせに、世界中が沸いた。
そんな中でジャックとのセカンドアルバムは発表され、これはすべてのチャートで1位を記録した。
日本での凱旋公演も大成功に終わった。
そして、洋介の初めてのソロアルバムが発表された。
楽曲、演奏すべてに高評価がされ、グラミー賞にノミネートされ、ベストロックギタリストとアルバム賞の二部門で受賞するという快挙だった。
瞬く間に一流ミュージシャンに駆け上り、
今や、洋介は、若手では、最高のギタリストという評価を得て、押しも押されもしない、存在にまでなっていた。
そんな時にえてして、足元をすくわれることも起きるもの。
アメリカ人モデルのクリスとのスキャンダルが一部で報道された。
悪いことに、一緒に居る所を写真まで撮られたのだった。
これについて、洋介は、完全に否定した。
記者会見を開いた席で、彼は、彼女と、御飯を食べに入ったが、
それだけで、食事後、すぐに別れたと答えた。
一方クリスは、このスキャンダルについて、
「洋介を誘惑できたら、とは思ったけれど、無理ね。彼を落とせる女性なんて居ないんじゃない?」
また、この一言が、洋介の同性愛疑惑にまで発展した。
さらに、噂はエスカレートして、有名アーチストで自らゲイだとカミングアウトしているジョージ・フレディが洋介に手を出したと言う噂まで飛び出した。
こういった噂が出るほどに、彼の名声は上がって行ったのであった。
ただし、このゲイ疑惑は、ジョージ・フレディと、クリスが、彼はゲイじゃない。と否定した。
二人そろって、彼にはすでに意中の人が居るのだという事を行ったので、それが誰なのかという事で、騒ぎになった。
その後のインタビューでは、洋介は、
「好きな人ですか?もちろん居ますよ。もちろん性別は女性です。だけど、言えるのはここまでです。」
といって、ここから先は、どう聞いても、答えようとしなかった。
洋介は、こうして、密かに美穂に変わらない気持ちを伝えていた。
アルバムにも美穂への思い基に作った曲を入れていた。
美穂にもそれが伝わっていた。
アルバムは、必ず購入し、
出演する番組はビデオに撮って残すようにしていた。
-帰るべきところ エピローグ-
空港から出た、洋介は、タクシーを飛ばして、彼女との思い出の店銀嶺に向かった。
LAを出る前に、この日帰国することは、国際電話で銀嶺の女将に知らせていた。
そっと、タクシーの後ろを振り返るが、つけられている様子はなかった。
最近、パパラッチがうっとうしいぐらいにつきまとわれることもしばしばだった。
そんなことを思っていると、車は、銀嶺の前で停車した。
「本日貸し切り」
店の前に、そんな張り紙がしてあった。
かまわず、店のドアを開けて、中をのぞくと、女将が飛んできた。
「三神君、立派になって。先に来て待っているわよ。さぁ急いで。」
女将は、5年前と少しも変わっていなかった。
洋介は、奥の座敷の前に立ち、深呼吸を一つした。
ふすまに手をかけ、優しく開いた。
「ただいま。」
そう一言言って、笑みを奥に座っている人に送った。
「お帰りなさい。」
美穂も一言返して微笑んだ。
「待たせたかな?」
「私も今来たばかりよ。でも、すでに5年待ってるから。」
美穂の目に涙がかすかに浮かんでいる。
洋介も、涙ぐみそうになるのをこらえた。
「美穂さん。5年間、何とか、頑張ってきたよ。自分なりの答えも出してきた。
何より、僕の音楽を楽しんでくれる人がたくさんできたことがうれしい。あなたに背中を押されて、プロになったことに感謝するよ。
僕の後に、日本人のミュージシャンも、海外のマーケットで、活躍する人も増えたし、評価も上がった。いまや、特に、LAに住むこともなくなった。
どこにいても、自分の音楽を世界に発信できるようになった。すべてあなたのおかげだよ。そして、この5年間。あなたに対しての思いは、何一つ変わらなかった。
僕は、いつもあなたと一緒にいるつもりで頑張った。これから先も、あなたの存在なくして、僕の音楽は存在しない。
これからの人生、一緒に歩んでくれないかな。」
美穂は、聞きながら、さらに涙があふれてくるのを感じた。
この人こそ、自分の人生のパートナーなんだ。改めて、そう思った。
「ひとつだけ聞いて良い?」
洋介は無言でうなづいた。
「朝ごはんは?パン?お味噌汁?どっち?」
「味噌汁が良いな。」
「喜んで、あなたについていきます。」
その一言を言うのに、5年の月日がかかったことは、決して無駄にしてはならないと、美穂は心に決めたのだった。