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苦手な方はご注意ください。

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グランドムーンの夜に

作者: 白月つむぎ

 僕は、自分が少しだけ執着深い人間だと思っていた。

 それだけだ。


 夜が好きで、静かな場所を好み、月を見ると胸の奥が落ち着く。

 匂いに敏いのも、音に気づきやすいのも、きっと性分だ。

 誰にだって、ひとつやふたつ癖はある。


 ◇


 トレイシーと出会ったのは、日が落ちきる直前だった。


 街外れの小道で、彼女は立ち尽くしていた。

 手には小さな鞄。足元には、分かれ道が三つ。


「……あの」


 声をかけると、彼女は少しだけ肩を揺らして振り返った。


「すみません。この道、どこに続いているんですか」


 困ったように笑うその顔を見た瞬間、胸の奥がざわめいた。


「それ、逆です」


 自分でも驚くほど、即答だった。

 考えたわけじゃない。ただ、違うとわかった。


「こっちに行くと、川に出ます。家に帰るなら――」


 言いかけて、彼女の服装を見る。

 この時間、この場所には不釣り合いだった。


「送ります。暗いし」


「え……いいんですか?」


「はい」


 歩き出すと、自然と彼女の半歩前に立っていた。

 夜の音が、やけに近い。


「この辺、初めてなんです」


「……そうだと思いました」


「どうして?」


 聞かれて、答えに詰まる。

 匂いだとか、気配だとか、そんなことは言えない。


「なんとなく、です」


 彼女は不思議そうに首を傾げ、それから笑った。


「変な人。でも……安心します」


 その言葉に、胸が熱くなった。


 家の灯りが見えた時、なぜか強い名残惜しさを感じた。

 まだ、離れたくない。


「ありがとうございました。私、トレイシーって言います」


「……ライです」


 彼女の名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが確かに鳴った。


 ――見つけてしまった。


 そんな感覚だった。


 ◇


 僕――ライは、背が高い方だと思う。

 人混みの中でも、少しだけ視線が上にある。


 髪は短めで、色は淡い灰色がかった黒。

 朝に整えても、夕方にはどこか跳ねてしまう癖がある。

 鏡を見るたび、野暮ったいと思うけれど、気にするほどでもない。


 目の色は暗い。

 光の加減で、深い緑に見えることがあるらしい。

 トレイシーにそう言われて、初めて気づいた。


「夜の方が、優しい色ですね」


 彼女のその言葉が、なぜか胸に残っている。


 服装はいつも簡素だ。

 動きやすいシャツに、少し擦れた上着。

 足音を立てない歩き方が身についていて、意識したことはなかった。


 自分のことは、よくわからない。

 ただ、夜の空気の中にいると、呼吸が楽になる。


 トレイシーは、風が似合う人だった。


 腰を超えるほど長く柔らかな髪は、淡い金色。

 風が吹くたび、指先で押さえる仕草が印象的だった。


 瞳は澄んだ青。

 空を映したような色で、感情がそのまま表に出る。

 笑えば一目でわかるし、不安も隠せない。


 服装は、控えめで上品だ。

 淡い色のワンピースに、動きやすい靴。

 街外れに来るには少し軽装で、だからこそ守りたくなった。


 声は高すぎず、柔らかい。

 名前を呼ばれると、胸が温かくなる。


「ライ」


 その一音だけで、

 僕の世界は、彼女に寄ってしまった。


 ◇


 トレイシーと再会したのは、あの橋から少し離れた丘道だった。


 夕方の空は薄紫で、風が強かった。

 僕は用事の帰りで、ただ近道を選んだだけだったのに、遠くに揺れる髪が目に入った瞬間、足が止まった。


 ――まさか。


 近づくにつれて、その予感は確信に変わる。


「……トレイシー?」


 名を呼ぶと、彼女は驚いたように振り返った。

 次の瞬間、ぱっと表情が明るくなる。


「ライ! 偶然ですね」


 再会を喜ぶ声に、胸が少しだけ軽くなる。

 それだけで、また会いたかったのだと自覚してしまった。


「この先、景色がいいって聞いて。ひとりで来たんです」


 彼女はそう言って、崖の方を指差した。

 風が強く、足元の砂利が不安定に見える。


「……気をつけた方がいい」


 言い終わるより早く、嫌な音がした。


 砂利が崩れ、トレイシーの足が滑る。


「きゃ――」


 考える前に、体が動いていた。


 腕を伸ばし、彼女を引き寄せる。

 勢いのまま、二人で地面に倒れ込んだ。


 どくん、と心臓が鳴る。

 彼女の体温が、胸に直接伝わってくる。


「だ、大丈夫?」


 声が、少し震えていた。


「……はい」


 彼女は僕の胸元に顔を埋めたまま、そう答えた。

 肩が小さく揺れている。


 抱きしめている、というより、離せない状態だった。

 腕に力を入れた覚えはないのに、彼女がすっぽり収まっている。


 近すぎる距離。

 呼吸の音。

 髪から漂う、あの匂い。


 喉の奥が、ひどく熱くなる。


「……怖かった」


 そう呟かれて、胸が締めつけられた。


「もう大丈夫。僕がいる」


 口にした瞬間、はっきりとわかった。

 これは優しさだけじゃない。


 彼女を失う想像に、耐えられなかったのだ。


 ゆっくりと体を起こし、名残惜しさを振り切るように距離を取る。

 トレイシーは、少し頬を赤くしていた。


「ライ……さっき、すごく必死でしたよ」


「……そう?」


「ええ。でも、安心しました」


 その言葉に、胸の奥が温かく、そして少し疼いた。


 夕暮れの光が、彼女の輪郭を柔らかく縁取る。

 風が吹くたび、また守りたくなる。


 この気持ちに、名前はまだつけられなかった。

 ただ――


 次に会えない夜を、もう想像したくなかった。


 ◇


 トレイシーと出かける約束をしたのは、あの崖の日から数日後だった。


「今度は、ちゃんと安全な場所にしましょうね」


 そう言って、トレイシーは笑った。


 夕方、街の広場で待ち合わせをする。

 石畳の上に長い影が伸び、店先の灯りが一つずつともり始めていた。


「待ちました?」


 先に立っていた彼女が、僕を見つけて手を振る。

 淡い色のワンピースに、細い上着。

 風に揺れる金色の髪。


「今来たところ」


 本当は、かなり前からいた。

 彼女の気配が近づくのが、わかっていたから。


 二人で並んで歩く。

 露店の甘い匂い、焼き菓子の香ばしさ、人の笑い声。


「こういうの、久しぶりです」


 トレイシーが、楽しそうに言った。


「ひとりだと、あんまり来ないんです。夜の街って、少し怖くて」


「……そう?」


「ええ。でも今日は、平気です。ライがいるから」


 トレイシーが熱のこもった視線を僕に投げる。

 その長い睫毛は少しだけ震えていた。


 屋台で温かい飲み物を買って、川沿いを歩く。

 水面に映る月が、揺れていた。


「ライって、不思議ですね」


「不思議?」


「夜の方が、落ち着いて見える。昼間は、ちょっと無理してる感じがするのに」


 彼女は責めるでもなく、ただ事実を言うように微笑んだ。

 僕は、何も否定できなかった。


 橋の上で立ち止まる。

 風が吹いて、トレイシーの髪が揺れた。


「寒くない?」


「大丈夫……あ」


 言いかけた彼女の肩に、反射的に上着をかけていた。

 考えるより早く、体が動く。


「ありがとう」


 その一言で、胸が満ちる。

 近すぎる距離に、喉が熱くなる。


 彼女の首筋。

 鼓動。

 息遣い。


 一瞬、首筋に唇を落としたくなるような衝動が走って、僕は視線を逸らした。


「……どうしたんですか?」


「な、なんでもない。月が、綺麗だなって」


 誤魔化しは、ぎこちなかったと思う。

 それでもトレイシーは、月を見上げた。


「本当ですね」


 静かな時間が流れる。


 不意に、彼女が僕の手に触れた。

 指先が絡む。


「ライといると……安心します」


 その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。


 ――この人を、守りたい。

 ――この人を、失いたくない。


 それだけが、確かな感情だった。


 恋だと気づくには、十分すぎる夜だった。


 別れ際、橋の上で足が止まった。

 街の灯りが川面に揺れて、月が静かに空に浮かんでいる。


「今日は……楽しかったです」


 トレイシーがそう言って、少しだけ視線を伏せた。

 その仕草が、胸の奥をくすぐる。


「僕も」


 それだけしか言えなかった。

 本当は、まだ一緒にいたかった。


 沈黙が落ちる。

 気まずさじゃない。

 言葉を探している時間だった。


 風が吹いて、彼女の髪が頬に触れた。

 甘い匂いがして、喉の奥が熱くなる。


 ――近い。


 気づいた時には、もう逃げ場がなかった。


 トレイシーが顔を上げ、まっすぐ僕を見る。

 青い瞳が、月光を映して揺れている。


「……ライ」


 名前を呼ばれただけで、胸が締めつけられた。


 伸ばした手が、彼女の肩に触れる。

 引き寄せるつもりはなかったのに、距離は自然に縮まっていった。


「もし、嫌だったら……」


 最後まで言えなかった。

 彼女が、そっと目を閉じたから。


 唇が触れる。


 一瞬。

 羽が触れたみたいに、軽く。


 それだけなのに、体の奥が震えた。

 胸がいっぱいになって、息の仕方を忘れる。


 もっと、近づきたい。

 でも――それ以上、してはいけない気がした。


 僕は唇を離し、額を寄せる。


「……ごめん」


「どうして?」


 トレイシーは、不思議そうに微笑んだ。


「嫌じゃ、なかったです」


 その言葉に、理性がきしむ。


「……僕が、我慢できなくなりそうだから」


 彼女は少しだけ驚いて、それからくすっと笑った。


「変な人」


 そう言いながら、指先が僕の袖を掴む。

 離れない、という意思表示みたいに。


 月が、やけに明るかった。

 僕はただ、彼女の温もりを覚えていた。


 キスのあと、すぐには離れられなかった。


 額を寄せたまま、互いの呼吸が落ち着くのを待つ。

 川の流れる音が、やけに大きく聞こえた。


「……ねえ、ライ」


 トレイシーが、ためらうように声を出す。


「はい」


「さっきの、我慢って……」


 言葉を探す間が、少しだけ怖かった。

 でも、逃げたくなかった。


「君のこと、好きだから」


 口に出した瞬間、胸の奥が静かになった。

 ずっと、そこにあった言葉だった気がする。

 トレイシーは、驚いたように目を見開いて、それから、ゆっくり笑った。


「……私も、ライが好きです」


 その声は、はっきりしていた。

 迷いがなくて、だからこそ胸に響く。


 手を伸ばす。

 今度は躊躇わずに、彼女の手を取った。


「じゃあ……」


 一瞬、言葉に詰まる。

 これを言えば、戻れない。


「恋人に、なってくれますか」


 月明かりの中で、トレイシーは小さく息を吸った。


「……はい」


 それだけの返事なのに、胸がいっぱいになった。


 指を絡める。

 さっきよりも、ずっと自然に。


「ゆっくりでいいですよね」


 彼女がそう言って、少し照れたように視線を逸らす。


「……うん。大切にしたいから」


 本心だった。

 触れたい気持ちと同じくらい、壊したくない気持ちが強かった。


 もう一度、軽くキスをする。

 今度は、さっきより少しだけ長く。


 橋の上で、並んで月を見上げる。

 月は、少しずつ大きくなっている気がした。


 ◇


 恋人になってから、世界は少しだけ柔らかくなった。


 特別なことは何もない。

 待ち合わせをして、並んで歩いて、他愛もない話をする。

 それだけなのに、胸の奥が満たされる。


「ライ、今日は何をしてたんですか」


「仕事のあと、少し散歩を」


「夜の?」


「……うん」


 そう答えると、トレイシーは少しだけ笑う。


「やっぱり。夜の方が好きですよね」


 否定はしなかった。


 休日には、街の外れまで足を延ばした。

 丘の上で風に吹かれながら、並んで座る。


 トレイシーは本を読むのが好きで、時々、気に入った一節を読み上げてくれた。

 意味を全部理解できなくても、声を聞いているだけで落ち着いた。


「ライは?」


「……君の声を聞いてる」


 そう言うと、少し照れたように視線を逸らす。

 その仕草が、たまらなく愛おしい。


 手を繋ぐことが増えた。

 彼女の体温が、自然と僕の体温に溶け込む。


 夜道でも、怖がらなくなった。


「ライがいると、平気なんです」


 その言葉を聞くたび、胸の奥で何かがきしむ。

 喜びと、言い知れない不安。


 抱きしめると、安心する。

 でも同時に、喉が熱くなる。


 それでも、触れすぎないようにした。

 キスは短く、抱擁は静かに。


 壊したくなかった。

 この穏やかな日々を。


 月は、少しずつ満ちていった。


 トレイシーは気づいていない。

 夜ごと、僕の眠りが浅くなっていることも。

 夢の中で、走る距離が長くなっていることも。


「最近、ちょっと疲れてません?」


「大丈夫。君といると、落ち着くから」


 嘘ではなかった。

 彼女の存在だけが、僕を人の形に繋ぎ止めている気がした。


 ある夜、並んで窓の外を見ていた時、トレイシーがぽつりと言った。


「月、すごく明るくなってきましたね」


「……そうだね」


 胸の奥が、微かに疼く。

 理由は、考えないことにした。


 今は、穏やかだ。

 幸せだ。


 だから、それでいいと思っていた。


 グランドムーンが近づいていることも、その夜を、僕が選んでしまうことも――

 まだ、知らないふりをして。


 ◇


 その夜は、特別なことは何もなかった。


 トレイシーの部屋で、並んで窓の外を眺めていただけだ。

 夜風がカーテンを揺らし、月明かりが床に淡く広がっている。


「ねえ、ライ」


 彼女が、膝を抱えたまま言った。


「将来のこと、考えたりします?」


 不意に聞かれて、少し考える。


「……あんまり。今で手一杯だから」


「そうですよね」


 でも、声はどこか楽しそうだった。


「私は、考えちゃうんです。小さな家で、窓が多くて。朝はちゃんと光が入って」


 彼女は指先で、見えない家の形をなぞる。


「庭もあって、花を植えて……夜は、二人で月を見るの」


 その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。


「月、好きだよね」


「ええ。でも……一人で見るより、誰かと一緒の方が好きです」


 そう言って、こちらを見る。

 青い瞳が、まっすぐで、迷いがない。


「ライと、そんな未来を過ごせたらいいなって」


 一瞬、呼吸の仕方を忘れた。


 嬉しい。

 確かに、嬉しいはずなのに。


 胸の奥で、何かがざわつく。

 言葉にできない違和感が、影のように伸びる。


「……僕で、いいの?」


「どうして、そんなこと言うんですか」


 トレイシーは少しだけ眉をひそめ、それから微笑んだ。


「ライじゃなきゃ、嫌です」


 その一言が、胸に深く沈んだ。


 守りたい。

 離したくない。

 永遠に、一緒にいたい。


 その想いが、ひとつに重なった瞬間、ひどく自然に、ひとつの考えが浮かんだ。


 ――なら、形にしよう。


 迷う理由は、見ないことにした。

 胸の疼きも、夜ごと強くなる衝動も。


 彼女の未来に、僕がいるなら。

 それで、いいじゃないか。


「……ねえ、トレイシー」


 呼ぶと、彼女は「なに?」と小さく首を傾げた。


 月明かりが、彼女の髪を淡く照らす。

 今夜の月は、いつもより大きい気がした。


「今度、ちゃんと話したいことがある」


「改まって?」


「うん。大切なこと」


 トレイシーは少し驚いて、それから楽しそうに笑った。


「わかりました。楽しみにしてます」


 その笑顔を見て、決めてしまった。


 プロポーズしよう。

 この人を、僕のものに――

 いや、僕が、この人のそばにいると、誓おう。


 窓の外で、月が静かに輝いていた。

 満ちていく光が、何もかも祝福しているように見えた。


 この夜が、幸せの延長線だと、信じたまま。


 ◇


 夜は、息をひそめた宝石箱みたいだった。


 空は深い群青で、雲ひとつない。

 星は多くないけれど、そのぶん月の光が澄んでいる。

 白銀の輪郭が、ゆっくりと空を渡り、街全体を抱きしめていた。


 石畳は月明かりを受けて淡く光り、建物の影はやわらかく溶け合っている。

 境界が曖昧で、世界そのものが夢の中に沈んでいるみたいだった。


 トレイシーと並んで歩く。


 彼女の足音は軽く、僕の半歩前を行く。

 その背中に、月光がふわりとかかる。

 金色の髪が白く縁取られて、まるで絵画の中の人物みたいだった。


「……本当に、綺麗な夜ですね」


 トレイシーが小さく息を吐く。


「空気まで、澄んでる」


 風は冷たくない。

 夜の匂いは静かで、胸の奥が自然と落ち着く。


 川沿いの道に出ると、水面が月を映して揺れていた。

 光が砕けて、流れるたびに形を変える。


 ――永遠みたいだ。


 そんな言葉が、ふと浮かぶ。


 手を伸ばすと、トレイシーの指先に触れた。

 彼女は驚かず、静かに指を絡めてくる。


 歩調が揃う。

 鼓動が、穏やかに重なる。


「ライ」


 呼ばれるだけで、胸が温かくなる。


「この街、好きです。夜になると、特に」


「……僕も」


 理由は言わなかった。

 言葉にすると、この夜が壊れてしまいそうで。


 丘の上に立つと、街の灯りが一望できた。

 小さな光が集まって、星座みたいに瞬いている。


 月は、確かに大きかった。

 いつもより近く、いつもより明るい。


 でも、不吉さはなかった。

 ただ、祝福されているような気がした。


「グランドムーン、でしたっけ」


 トレイシーが言う。


「うん。珍しい満月らしい」


「だから、こんなに綺麗なんですね」


 そう言って微笑む彼女の横顔は、静かで、柔らかくて、触れれば壊れてしまいそうだった。


 守りたい。

 この光景ごと、閉じ込めてしまいたい。


 胸の奥で、微かな疼きがあったけれど、それすらも、この夜の一部に思えた。


 世界は、完璧だった。


 音も、光も、温度も。

 何ひとつ、欠けていない。


 だから僕は、確信してしまった。


 ――この夜に、永遠を誓おう。


 月は、何も答えない。

 ただ、すべてを照らしていた。


 その光が、祝福なのか、導きなのか、それとも――境界を越える合図なのか。


 まだ、このときの僕には、区別がつかなかった。


 ◇


 プロポーズの言葉は、何度も頭の中でなぞった。


 声の高さも、間の取り方も。

 大げさにならないように、でも曖昧にならないように。


 トレイシーは、そんな僕の胸の内なんて知らずに、楽しそうに歩いている。


 丘の上の古い展望台。

 昼間はただの石造りなのに、夜になると月光を受けて淡く輝く。


 階段を上ると、街の灯りが一気に広がった。

 遠くまで続く光の海。

 その上に、静かに浮かぶ巨大な月。


 グランドムーン。


 名前を知っているだけで、意味は考えなかった。

 今夜は、ただ美しい。それで十分だった。


「……ライ」


 トレイシーが、そっと僕の腕に触れる。


「一緒にいられて、よかった」


 胸が満ちる。

 この瞬間が、永遠になればいいと思った。


 ポケットの中で、指輪の感触を確かめる。

 冷たくて、小さくて、確かな形。


 僕は、彼女の前に立った。


「トレイシー」


 名前を呼ぶだけで、喉が少し震える。


 そのときだった。


 胸の奥が、強く脈打った。

 さっきまでの静けさが、嘘みたいに遠のく。


 音が、近い。

 光が、眩しすぎる。


 月が――近い。


 視界の端で、影が歪む。

 呼吸が、うまくできない。


 ――まだだ。


 そう思った。

 今じゃない。


 でも、月光は容赦なく降り注ぐ。


 世界が、匂いに変わった。


 色は薄れ、輪郭は溶け、代わりにすべてが鮮明になる。


 トレイシーの鼓動。

 呼吸。

 体温。


 美しい。

 あまりにも、美しかった。


 恐怖はなかった。

 ただ、満ちていく感覚だけがあった。


 ――一緒だ。


 それだけが、はっきりしている。


 体が、言うことを聞かない。

 それでも、苦しくはなかった。


 月光の中で、黒い影が揺れる。

 それが自分だと、理解する前に、もう意味はなくなっていた。


 トレイシーの声が、遠くで聞こえた気がする。


 でも、その音さえ、愛おしい。


 抱きしめる。

 壊さないように――

 そう思ったはずなのに。


 次の瞬間、すべてが静かになった。


 温もりが、胸の奥へ、腹の奥へと落ちていく。

 確かな重み。

 確かな存在。


 ――永遠だ。


 失うものは、もう何もない。


 月は、変わらず輝いていた。

 凄惨さも、悲鳴も、血も、すべてを同じ光で包み込む。


 ただ、美しく。


 ただ、冷たく。


 僕は夜空に向かって、長く息を吐いた。


 それは、祈りだったのか。

 愛の告白だったのか。


 自分でも、もうわからない。


 腹の奥で、彼女の鼓動が、ゆっくりと溶けていく。

 それを感じながら、僕は思った。


 ――これで、ずっと一緒だ。


 グランドムーンは、何も答えない。

 ただ、すべてを照らしている。


 世界でいちばん美しい夜に、世界でいちばん、取り返しのつかない幸福を抱いたまま。


 ◇


 数日後、街は不思議な静けさに包まれていた。


 グランドムーンの夜を境に、いくつかの小さな異変が重なった。

 丘の上の展望台が立ち入り禁止になり、夜道を避ける人が増え、戸締まりの音が早まった。


「聞いた?」


 朝の市場で、女たちが声を潜めて話す。


「狼男が出たって」


「満月の夜に、黒い影を見た人がいるらしいわ」


 誰かが大げさに尾ひれをつけ、誰かが冗談だと笑い、誰かが、笑えずに口を閉ざした。


 遠吠えを聞いたという者もいた。

 それは悲鳴のようで、祈りのようで、妙に長く、胸に残る声だったという。


 ライの姿を、見た者はいなかった。


 仕事先にも、家にも、彼は戻らなかった。

 最後に一緒にいたとされるトレイシーも、同じだった。


「駆け落ちじゃない?」


「事故よ、きっと」


 誰も、確かなことは言えなかった。


 丘の上では、今も月がよく見える。

 夜になると、白い光が街を包み、何事もなかったかのように静かに照らす。


 けれど、あの夜を知る者たちは、月を見上げるたび理由のない不安を覚える。


 美しすぎた夜。

 幸福に満ちすぎた光。


 それが、何かを連れ去ったことだけは街全体がうっすらと理解していた。


 そして噂は、やがて言葉になる。


 ――この街には、満月の夜にだけ現れる、獣がいるのだと。


 誰にも見られず、誰にも裁かれず、ただ、月の下で愛を抱くものが。


 グランドムーンは、また巡ってくる。


 そのとき、遠くで吠える声を聞いても、どうか、振り返らないように。


 それは、今もきっと――

 世界でいちばん静かな幸福を、胸に抱いているのだから。

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