蒼い蝶は、夜を越えて
王都の裏路地。
月明かりすら届かぬ闇の中で、黒いローブの男が立ち止まっていた。
「……なるほど。蒼薔薇の子爵が、ここまでとは」
クレイン卿は、指先で空をなぞる。
その軌跡に沿って、黒い霧が微かに蠢いた。
「だが、まだだ。
影界の“準備”は整っていない」
低く笑う。
「王太子殿下も、あの娘も……まだ駒に過ぎぬ」
霧はやがて霧散し、男の姿も闇に溶けた。
▫ ▫ ▫
――同じ夜。
王城の一室で、リリアナは浅い眠りに沈んでいた。
完全に眠れているとは言えない。
悪夢が、いつ戻ってきてもおかしくない。
(……また、あの夢を見るのかしら)
胸に手を当てる。
心の奥に残る、得体の知れない違和感。
そのとき。
風もないのに、カーテンがふわりと揺れた。
「……?」
リリアナが顔を上げると、窓辺に小さな光が舞っていた。
蒼白く、やさしく瞬く光。
「……蝶……?」
それは、蒼い蝶だった。
夜の闇に溶けるようでいて、確かにそこに存在している。
「また……来てくれたの……?」
蝶は答えるように、静かに羽を震わせた。
そして、ふわりとリリアナの頬に触れる。
――あたたかい。
胸の奥に、じんわりと広がる感覚。
それは、悪夢の冷たさをそっと溶かしていくようだった。
「セオディアス様……」
名前を呼ぶだけで、涙が滲む。
不安も、恐怖も、すべて消えたわけではない。
それでも――。
蝶は空中に、淡い光の文字を描いた。
『悪夢に負けるな』
その言葉を見た瞬間、胸が強く脈打った。
『それは、外からの干渉だ』
『お前の心は、お前のものだ』
(……外から……?)
意味は、すべて理解できない。
けれど、自分が“何かに侵されかけている”という感覚だけは、確かにあった。
蝶はさらに光を揺らす。
『この蝶がいる間は、悪夢は来ない』
『安心して眠れ』
「……ありがとう……」
リリアナは、そっと蝶を両手で包み込んだ。
壊れ物を扱うように、慎重に。
(わたくしは……一人じゃない)
それだけで、心が少し強くなる。
蝶はそのまま、彼女の枕元で淡く光り続けた。
まるで、夜を見張る守護者のように。
その夜、リリアナは久しぶりに、夢を見なかった。
闇も、鏡も、囁きもない。
ただ、穏やかな眠り。
蒼い蝶は、朝まで消えることなく、彼女を守っていた。
蒼い蝶の回でした
不穏は静かに、希望は確かに。
次話から、敵側が本格的に動き始めます。




