蒼薔薇の子爵は怒りを隠す
広間を出たセオディアスは、誰もいない廊下で立ち止まった。
そして――
拳を、壁に叩きつける。
ゴツン、という鈍い音。
皮膚が裂け、血が滲んだ。
だが、痛みなど感じなかった。
「アルベルト……」
蒼い瞳に、冷たい怒りが宿る。
「よくも……よくも、リリアナを……」
セオディアス・クレイヴンは、感情を表に出さない男として知られている。
だが、それは仮面だ。
内側では、激しい感情が渦を巻いている。
特に――リリアナに関しては。
彼は、彼女を愛していた。
最初の出会いは、五年前。
社交界に出たばかりのリリアナは、緊張で体を強張らせ、会場の隅に立っていた。
「お一人ですか?」
声をかけると、彼女は驚いたように振り向いた。
「あ、はい……」
「よろしければ、ダンスを」
手を差し出すと、彼女は戸惑った表情を浮かべる。
「で、でも……わたくし、ダンスが下手で……」
「構いません。僕も得意ではありませんから」
――それは、嘘だった。
だが、彼女を安心させたかった。
ダンスの最中、何度も足を踏まれた。
「す、すみません……!」
「大丈夫です。気にしないでください」
そう言って微笑むと、彼女の表情が少し和らいだ。
それから、二人はよく会うようになった。
社交界で。
庭園で。
図書館で。
彼女の笑顔は、いつも彼の心を静かに温めてくれた。
そして、三年前。
「リリアナ嬢。僕と結婚してくれますか」
膝をついてそう告げたとき、彼女は涙を浮かべて頷いた。
「はい……喜んで」
あの日は、間違いなく幸福だった。
――だが。
そのすべては、今夜、奪われた。
「必ず……」
セオディアスは低く呟く。
「必ず、お前を取り戻す」
そして。
「この屈辱……百倍にして返してやる」
彼の指先から、蒼白い光が漏れ出した。
小さな蝶の形をした、透明な魔法の結晶。
音霊の蝶。
セオディアスだけが使える、諜報用の特殊魔法だ。
「行け」
蝶に命じる。
「アルベルトの本音を――
すべて、聞き出してこい」
蝶は音もなく羽ばたき、闇の中へと消えていった。
蒼薔薇の子爵は、静かに仮面を被り直す。
復讐のために。
お読みいただきありがとうございます。
次話では、王太子側の本音と陰謀が明らかになります。
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