本当はいらない子どもたち
姉御にはぼくたちと同い年とは思えないほどの貫禄があった。習い事を並行にやりすぎて神の領域に近づきつつあったからだ。それに姉御は語気が強かった。夏の暑さにも負ケズ、彼女は照り照りに照った公園の踏みならされて固くなった地面をゲシゲシと何度も踏みつけて叫んだ。
「サドルどろぼうを粉になるまですりつぶしてやる」
ぼくたち三人は特に指示されたわけでもないのに頭を下げた。姉御は特に指示されたわけでもないのに長い指でぼくたち三人のあごをトストストスと持ち上げた。
「なんで急に落ちこんだんだ。元気を出せ」
「落ちこんでいません。ただ、おれはこれから塾があって……」とおかっぱ頭の朗くん。
「わしもトイレがちこうて……」とざん切り頭の伴田くん。
「地獄の……果てまで」と坊主頭のぼく。
三人のか細い嘆願を聞き届けた姉御は「うむ、興味ナシ」と短く切り捨て、肩にぎりぎりつくぐらいのきれいな黒髪をぶん回した。
「オレだって塾がある。おまえたちと一緒の塾だからな。でもサドルがないのにどうして習い事に行かなきゃならないんだ」
「徒歩で行けばいいじゃないですか」
「ふざけやがって。おまえは自分ですすんで習い事を始めたか」
朗くんは頭をかいて「親に体験授業に連れられた流れで」と答えた。
「おまえらだってそうだろうが。体験授業、体験教室、体験レッスン……初回お試しコースや入会料無料から島に流された子どもたちだよ」
「そうかもしれないですけど、違いますよ」
「島流しは違うな。ありゃあ悪いやつらが流されるもんだ」
「評価が悪い会社員もね」
ぼくたちがわあわあと反論したのも無視して、姉御はまだまだ明るい天を仰いだ。
「流されたんだよ、オレたちは」
姉御の横顔は色気たっぷりだった。ぼくがよだれを拭いているあいだに、姉御は二人を引き連れて公園を出ようとしていた。ダッシュで二人のあいだを突き抜け、姉御のとなりを奪取する。
「でも姉御、どうやってサドルどろぼうを探すんですか」
「まだ盗まれていないサドルを見張るのさ」
ところが、すべてのサドルは盗まれていた。駐輪場に並んだ自転車にも車道に向かって斜めに置かれた歩道の自転車にも学習塾のある狭いビルの入り口に差し込まれた無数の自転車にも植え込みに沈んでいる自転車にも、サドルがなかった。
「あっ、今、通りすぎたひと、サドルがないまま走っていたよ」
「ああやって無理してまで目的を果たそうとするやつがいるからオレたちまで無理しなきゃいけなくなるんだ」
後ろで朗くんが声をあげた。ぼくたちが振り返ると、彼は顔を紅潮させながらどこかを指さしており、その先をていねいに辿ってみれば、自転車のサドルを手に持っている男子中学生と彼を確保している伴田くんがコンビニの前でもみくちゃになって自動ドアを手動で開かせていた。
「姐さん、こいつぁ現行犯ですよ」
「よし。粉々にしてやる」
「ま、待ってください。わたしも被害者なんです」
姉御は自分より背の高い少年の首に腕をひっかけて彼の顔につばをまぶすように叫んだ。
「まさかサドルを盗まれたから他の人のサドルを盗んだとでも言い訳するんじゃねえだろうな」
「ちょ、超能力者!?」
目を剥く中学生に「姉御には予知能力があるんだ。ぼくが鍵を落としたふりをしてハーフパンツのなかを覗こうとしたときにはげんこつが降ってきた」と説明すると、姉御は「当然の帰結だ」と涼しい顔で答えた。
「た、確かにサドルを盗むのは悪いことです。だ、だ、だけど仕方がないじゃないですか。サドルを盗まれる世界においてはサドルを盗まないと生きていけない」
「おまえの矮小さを大げさな表現で正当化するのはやめろ。世界はサドルを盗むなと言っている」
「外国では……」
「外国でも盗むなと言っている」
朗くんは「おれ、外国に行ったことないです。習い事の見学には二十くらい行ったのに」とぽつんとぼやいて、伴田くんが「空気の質が違うても法はどこも同じよ。盗めば済む社会ではだれも財を成す気力がわかないんで発展しない。大きく広げるつもりの社会なら盗みはかならず最初のほうで禁じられるのさ」とさらりと言った。
ここはぼくも何かを言ったほうがよいだろう。「やっぱりペクチンって――」姉御は目に涙をたたえる中学生のあご、右頬、左頬、右頬、左頬、鼻頭を叩いて、彼の涙を風圧と勢いで吹き飛ばした。
「ちっ、ザコが。こっちは生粋のサドルどろぼうを探してんだ。紛らわしい真似をするな、このペクチン野郎」
「そうだそうだ、ペクチン野郎」
男子中学生は地面に這いつくばりながら「そんな、ヘナチンみたいに……」と辞世の句を残して事切れた。ふたたび歩き出した姉御とともに早急に現場から去る。
「胸くそ悪いぜ」
胸くそのくそってどこから排出されるんだろう。姉御の胸を凝視していると斜め後ろから朗くんの声が聞こえてきた。
「あの人にもサドルを盗んでまで行きたい習い事があったんでしょうか」
姉御は振り向くと同時にぼくに肘鉄を食らわせながら怒鳴った。
「どろぼうに同情するんじゃねえ。食べるものに困ってるわけでもねえんだ。私利私欲で盗みを働くやつは同じ理屈で人を殺すさ」
「ひい」
「姐さん、歩き説教はやめてくだせえ。ぶつかりますよ」
注意を受けた姉御は素直に「チィ」と前を向いた。ぼくが「姉御に向かって注意とは何事だ。姉御は打撲しても美しいんだから」とかわりに怒っておくと「おまえはやっぱり打撲すると醜くなるのかな」と姉御は拳を固めながら意味深長な発言をした。
一行はサドルのない自転車を眺めながら、あるいは歯医者を数えながら駅前や住宅街を通りすぎて、町並みを一望できる小高い丘の上に来ていた。夜に集まった恋人たちを恐喝する不良たちが集まる絶景スポットだ。今はまだ明るいから見えるのはただの小さくなった町だし、だれもいない。
「おれ、また目が悪くなったみたいです」
「疲れ目さ」
二人の退屈だが和やかで微笑ましい日常会話に、森羅万象をつかさどる姉御はかぶりを振った。
「いや、違う。街が遠ざかったんだ」
「酷暑で頭がおかしくなったんですか」
受け身をとる準備だけをして運命を待つ。アレ、鉄拳が飛ばない……心配して姉御の顔を覗きこむと彼女の肘の角度がぎゅんと曲がって裏拳が飛んできた。さすがは姉御。うっとりしながら見なくてもわかる赤い頬をさする。
姉御は遠くを見つめていた。町より奥にある水平線のさらに奥に何かがあるようだった。
「オレさ、今年の夏はおまえたちと会えないんだ。塾の合宿に行くから」
「ああ、おれも同じ合宿に行きますよ」
「わしも」
「ぼくも」
姉御の表情は苦笑と冷笑のあいだで彷徨ったあげくに諦めを含んだ微笑になった。
「オレたちは本当はいらない子どもたちなんだ」
三人でぽかんとした。意外なことに伴田くんが「あの馬鹿高い合宿費用を払ってくれるのは愛されているからじゃあないですか」といじらしく反論し、朗くんはうつむいて黙っていた。
「おまえがそんな感傷的なことを言うとは思わなかったよ。ところでペットホテルって知っているか。行かなくてもいい旅行に行くために愛する家族を預けられるサービスさ。オレの家族は愛おしいラムちゃんをペットホテルに預け、愛おしいオレを塾に預ける。ちょっとした息抜きだ。いつもペットや子どもの面倒を見るのは疲れるからだ――すべて自分たちが始めたことなのに」
ぼくはおどおどしながら意見を申し上げた。「アンニュイな姉御もすてきですね!」アンニュイな姉御はまばたきもせずに口を開いた。
「愛されている習い事ってあるよな」
朗くんが「お金の多寡じゃなくて」とわかったように付け足した。
「そう。金の多寡じゃなくて。己の身勝手な自由を獲得することを目的としていない、親が子を本当に愛していないと続けられない習い事がある」
「そして愛されている習い事があるなら愛されていない習い事もある……」
姉御と朗くんは二人で勝手に通じ合っていた。ぼくは姉御をとられた気持ちになり、ちらりと伴田くんを見て、彼が二人の仲を裂くすばらしい反論をしてくれることを期待した。が、彼も自分のつるつるとしたあごをしきりに撫でて沈黙していた。
「じゃ、じゃあ。姉御はぼくたちの親が、ぼくたちの顔を見たくなくて、ぼくたちの世話をしたくなくて、ぼくたちよりゲームがだいじで、ぼくたちより推し活がだいじで、ぼくたちよりイベントがだいじだから、ぼくたちを塾に預けて、立派な親ヅラをしているって言うんですか」
「子を預けて自由に遊べば自慢できるし、遊んでいるうちに子が受験に成功すればさらにマウントをとれる。なにより大金を払えば子に何かしてやった感も出せる」
「してやった感なんて、そんなの必要ないでしょ。必要がないのにあるのは義務感で、この義務感は愛から来るんじゃないですか」
ぼくがあなたを愛するように! と付け足す前に姉御のため息が差し込まれる。
「世間体のために仕方なく子どもをつくった親たちは世間体のために子を愛しているふりをする。愛しているふりをすることが愛している証なんてレトリックでもなく、自分が人から悪く見られたくないという保身でしかない」
いくら姉御がスーパーウルトラ完璧超人だからといって親の気持ちの何がわかるのか。ぼくはムカムカとムラムラの違いがまだよくわからないのでムラムラしてきた。かわりに伴田くんが落ち着いた調子で「愛されていない習い事を始める前もあるわけで」と反論した。
「親にとって子がかわいくてかわいくてたまらない時期もあっただろうよ。でも成長して自分の意見を持ちはじめて趣味を押しつけられなくなってインターネットで個人情報を晒しづらくなったときには用済みなんだ」
「赤子や幼児でも個人情報をネットに晒すのはよくねえですけどね」
「子どものために自分たちの自由が侵害されるのはつらい。他人にマウントをとるために金が必要だからたくさん働きたいのに子どもの話なんて聞きたくない。子どもなんて自己実現の道具のひとつでしかないのに自己実現をじゃまされたくない。でも放置するのは外聞が悪い……」
姉御は伴田くんに指をつきつけたが、彼は肩をすくめるだけだった。そこで姉御のきれいな指が行き場をなくしてぼくの前までやってきた。しゃ、しゃぶりてえ。
「そこで愛されていない習い事の出番だ。特に塾は最高じゃないか。準備の手間は尽きないが、子どもが勉強に励めば励むほど自由な時間が生まれる。ガキのエピソードトークに興味をもてなくても、塾の宿題やテストの結果にはまだ自分事として関心を持てるので、さも子に関心がある親かのように会話もできる。思い通りに動かなくて面倒なときは『勉強しなさい』で終了。愛を疑われたら『どれだけおまえに金を掛けていると思っているんだ』でハイ論破」
「はい、ぼくは姉御の存在に論破されつづけています……」
姉御は突きつけた指をそっと下ろして「き、きもちわるい」と自身のからだを抱きしめて小さくなった。ぼくは大きくなるばかりだった。
ただでさえ普段から存在感がないのに先ほどから黙りがちだった朗くんが「うん」と静かに話を切り出した。
「おれ、本当はいらないって聞いたら思い出して、あの、はじめてサドルを盗まれたとき、親に相談したら、なんだか反応がつめたくて、新しいのを買えばいいんでしょって……確かにおれは本当に新しいサドルが必要だったけど、あのとき必要だったのは新しいサドルじゃなかった」
「そういや、わしもそうだった。やけに塩対応で」
ぼくも回想してみよう。ぽわぽわぽわん。何も思い出せなかった。そう言えば『サドルを盗まれたせいで塾に行けなかった』とあとで報告してサボろうかなと画策していたらいつの間にか新しいサドルが取り付けられていた気がする。これって愛では!
と言える空気でもない。
「金がなくても時間で愛を払うことができる。でも愛がないから時間を費やしたくない。だから金で時間と愛を買う。たとえ子どもたちが必要としているものが買えるものではなくても」
姉御がそれで黙って町のほうを見た。空は少しずつ暗くなりつつあったけど、まだ塾の終わる時間じゃなかった。学年があがってから塾にいる時間が増えて、夏でも帰り道は暗くて、ぼくは短い距離ではあるけれど自転車をよろよろと走らせて、今日もいっぱい勉強したなと思いながら帰っていた。
でも最初は、こわい、と思っていた気がする。
「だけどやっぱり納得できねえですよ」
ぼくたちは伴田くんを見た。一点に集中する視線に彼は頬をかいた。
「姐さんの話じゃ、わしらの親は今ごろ遊びほうけているんでしょ。じゃ、それが本当かどうか覗いて見ましょうや。じつは家事や明日の準備で忙殺されているのかもしれませんぜ」
「なるほど。確かに親たちは今、オレたちがサボっているとは知らないからな」
「塾のほうで連絡を入れているんじゃ……」
「塾にはオレが連絡している。四人そろって自転車のサドルを盗まれたんで行けたら行くって」
四人とも鍵を持っていた。ぼくたちは各自で家にそっと帰り、そのとき両親が何をしていたのか、明日の塾で報告することにした。
が、話が変わった。
まず、ご近所の朗くんがぼくの家まで走ってやってきた。彼は息を切らして「だれもいない」と言った。
ぼくの家もそうだった。電気はついていたのに「おかえり」のひとつも返ってこなかった。
「書き置きもなくて……ボスは事前に連絡を入れるなと言ってましたけど、事後に連絡する分には大丈夫でしょうか」
「気をつけなよ、朗くん。事後はすけべなことにしか使わない単語だから」
不満げな朗くんを無視して、ぼくは伴田くんに電話を掛けた。すぐに出た。
「どうだった」
『わざわざ電話するってことは同じ状況みたいだな』
「夕食のときはいたよね」
『わしんちは塾に帰ってから夕食をとるから』
「え、お腹すくでしょ。間食はしてないの」
『作り置きのおにぎり一個』
「おにぎりって作り置きに向いてなくない」
『冷凍しているから』
「具は」
『塩』
朗くんが「ムダ話をしないで」とぼくの体をぼかすか殴るので「いつもの場所に集合」とだけ伝えて電話を切った。
「姉御はすでに公園にいるだろう。きっとぼくたちをどっしりと待ち構えているに違いない」
事実、姉御はすべり台の頂上でぼくたちを待ち構えていた。三人ですべり台の横に立つと、姉御は粛々とすべり台をすべった。
「夜の公園だとしても誰もいない。住宅街にしても」
ぼくたちもうすうすと気づいていた。ここに来るまで、いや、家に向かったときから大人とすれ違わなかった。家並みに明かりはついている。でもどこもしんとしている。一軒一軒の静かさが一つの打撃で破れそうなこの不自然な静寂を支えている。
「化け物にみんな喰われちまったんじゃないかい」
伴田くんの言葉に朗くんはふらりと倒れそうになった。姉御の体だったらよかったのになあと思いながら彼を支える。
「冗談でもやめてください。親がおれを愛していなくても、おれは親を愛しているんです」
「悪うござんした。でも喰われていなくなったほうが全員ナイトクラブに出かけていないだけという最悪の可能性よりかは愛を保っていられるぜ」
「子どもたちに隠れてやるなら、逆に食っているかもしれない。肉とか……肉とかを」
言い合っているぼくたちを尻目に姉御は「大人はそんなに肉を食わないさ。胃もたれするから」と立って上半身をひねっていた。
「ま、なんだ。オレたちは本当はいる子どもたちだったかもしれないな」
三人が頭の上に疑問符を浮かべると、姉御はにやりとして自分の口を指した。
「オレたちは親の食糧だったんだよ。あとでまるごと食べちゃうつもりでイチから育てていたんだ」
「ひぃ」
「待ってくださいよ、姐さん。だったら今の大人たちはどこからやってきたんで。誰だって子どもから大人になるんですよ」
「おまえは自分と同年代の子どもが大人になっているところを見たことがあるか」
伴田くんは「姐さんの詭弁には敵いませんな」と余裕の笑みを浮かべ、ぼくといえば、きみの発言はさっきのぼくの真似ではないかと権利を主張したくなり、朗くんのほうは「あっ」と声を上げて「静かにしてください。へんな音が聞こえます」と黙った。
ぼくたちは口を閉じた。
――べろんッ。ばりぼりぼりぼりぼり。ちゅるんっ。
――ぼりゅんッ。ぞぞぞぞぞぞぞぞっ。ぞぐんっ。
――びゅりりッ。ざっぐんざっぐんざっぐん。あむんっ。
なぞの音はでたらめに重なって、絶え間なく続いていた。おそろしさから黙っていると姉御が「見に行こうぜ」と肩で風を切る準備をし出した。
「ま、待ってください、ボス。本当に親たちがこっそり子どもたちを食べていたらどうする気なんですか」
「そんなわけねえだろ」
異音の恐怖と姉御のすさまじい手のひら返しのせいで涙目になった朗くんをぼくと伴田くんで引きずって、ぼくたちは怪しい音の聞こえるほうにずんずんと歩いていった。公園を出て、初めて来たひとが地図を片手にいつも迷って花壇に水をやっている住民たちから白い目で見られることでおなじみの住宅街のあの曲がりくねった迷路のような道を進む。異音の音量が最大になったとき、ぼくたちは住宅街には不似合いな古びた細長いビルの前に立っていた。テナント募集の看板が激しく汚れていて、植え込みの上には燃えないごみが散乱していた。
不透明で不清潔な扉に手をかけて、姉御はぼくたちを振り返った。
「準備はいいか」
「や、やめましょうよ、ボス。勝手に建物に侵入したら怒られます」
「おまえらは真実から追い出されっぱなしでいいのか。本当のことを何も知らないまま、習い事をして受験して卒業して就職して結婚して子育てするだけの人生でいいのか」
「ぼくは姉御と結婚したいです!」
姉御は扉を重たそうに開けた。
ビニールの、においがした。ぼくたちが入ってきた扉から差しこんだ光、そして部屋の中央にある燭台の火が、狭い室内におびただしく存在する人型の輪郭をおぼろげに浮き上がらせていた。あちらこちらでしぶきが飛び、きらりと輝いては消えた。やがて暗闇に目が慣れたとき、ぼくらは大人たちが汗とよだれを流して一心に咀嚼しているものが何か、はっきりと捉えることができた。
「サドルを食ってる……」