その1
春の暖かな日差しが差し込む、郊外の一軒家。
その窓辺に一匹の黒猫が丸まっている。
日差しを全身に浴び、その黒く美しい毛並みは誰しも手をのばしたくなる……だがよほどニブい人間以外は、彼女の持つその「気安く触らないでくださいまし」というオーラに気取られ近寄る事すらできないはずだ。
それもそのはず。
猫の中にある魂の半分はこの世界の住人のものではく、ブリリオール王国上流貴族、由緒正しきヴィヴィオーナ家の令嬢・リオーネ=ヴィヴィオーナ16才。その人なのだから。
そんな彼女が神によってこの世界に転生させられ、マツナガ家の一人息子に拾われたのは一年前。
転生させられたその日も、彼女は妹と共に平民サリオにどう嫌がらせをするかを画策していた。
なにせサリオは平民の分際で自分たちの貴族学校に入学してきたのだ。
ならば悪役令嬢たる自分たちの出番だと深夜まで話し合いを続けていた。
「おねーさま!こちらが最近調合した毒薬なんですけれど面白い特性があって!」
「リリー?毒は最後の手段と何度も言っているでしょう?」
姉リオーネの私室に大きなテーブルに紙を広げ、それを挟んで座る姉妹。
その紙にはサリオに対する嫌がらせが100は書かれており、彼女の交友関係から家族構成、さらには学校の敷地や校舎の見取り図も事細かに書かれている。
ちなみに今日の入学式では牽制程度に「平民と同じ空気を吸うなんて虫唾が走りますわ」と言ったリオーネだったが、彼女の反応は重畳。そして自分が彼女から離れると、サリオに駆け寄る者が数名いた。
フォローする人間がいるのであれば、明日からはもっと追い詰めても問題がないはずだと、こうして深夜まで策を練っていたわけなのだが……。
「そうですわリリー!今度ブリリオール王が学校にいらっしゃる式典でサリオのドレスを……」
手を叩きその名案を言おうとしたリオーネだったが、感じた違和感に話を止めた。
周囲の景色が急にくすんだ色になり、空気が重い。
さきほどまで輝いていた調度品やカーペットは灰色になり、窓の外からは草木の音も聞こえなくなっている。
愛する妹と共に警戒行動をとろうとしたが、その妹はニコニコと笑いながら自身が調合した毒瓶に手をのばしながら不自然な体勢のまま止まっている。そして何度声をかけ目の前で手を振っても返事どころか瞬きもしない。さらに窓の外では小鳥が羽ばたいたまま空中で動きを止めていた。
「これはなんですの……?」
そして彼女が壁に掛けてあったサーベルに目を向けた瞬間。
自分の部屋は、どこまでも広がる真っ白な空間に変わっていた。
だがこんな事態とて慌てる彼女ではない。
右手に持っていた扇子を左手にぺしぺし当て
「要件を仰いなさい」
堂々とそう言った。
こんな所に来るのは初めてだが、自分の意思で来たということでなければ、どこかの誰かが何か用事があって自分を呼び出したはず。そう判断したからだ。
そして……ひとりの老人が彼女の前に現れた。
神。
彼女はそう思った。
絵画で描かれているように白い布を体に巻き、枯れ木のように細い手足、そして特徴的であるその白く豊かなヒゲはあれど、頭の毛量はそれに反比例している老人。
そんなリオーネがイメージしている『神』が突然目の前に現れたのだから。
「失礼なこと考えとりゃせんか?ほほほ~さすがは『悪役令嬢』じゃな」
「突然こんな殺風景なところに呼びつけておいて、そちらこそ失礼ではなくって?」
神だからなんだ?自分に対する無礼は許さない。
そんな悪役令嬢の鑑ともいえるその思考回路の形成は、彼女の父親の指導によるものなのだが……ここでは一旦割愛。
リオーネは目の前の老人が神と分かった上で両腕を組みアゴを上げ、そのイラつきを隠そうともせず羽の付いた扇子を、自身の引き締まった二の腕にぺしぺしとぶつける。
それを見た神はくっくっくっと愉快そうに笑い
「真に愛される幸せを学べ」
その細い指先がリオーネに向けられ、彼女の真横にぽっかり空いた穴へと吸い込まれたのだ。
◆
「リオーネ~ごはんよ~」
子猫に転生させられた彼女だったが、半年も経つとずいぶん体も大きくなりその操縦も上手くなった。体を動かすことは前世でも得意ではあったが、この体はどんな高いところから落ちてもケガをする気がせず、最近ではドリフトを完全にマスターし飼い主を驚かせている。
だが猫になった当初は2つの苦難が彼女に襲い掛かった。
食事とトイレである。
トイレは言わずもがなだが、食事も皿に直接口をつけることに彼女は強い抵抗感を覚えていた。だが父の『どこにいようとも悪役令嬢たれ。そのために泥を啜ることになっても』という教えを思い出し、彼女は割と早い段階で順応することができた。
「あら……どうしたの?残しちゃって」
──昨日のものを寄こしなさい
スーッとエサ皿をどけ目で訴えるが、当然伝わるわけがない。
「ひょっとして昨日の期待しちゃってる?だーめ。昨日はあなたのお誕生日だったからよ?」
「欲しがってるならあげれば良いじゃないか?」
「この子が太って病気になっちゃってもいいの?」
「うーん……」
(当然こちらの世界の)父と母に言われ、リオーネはいつものカリカリに口を付けた。美味しいものほど太るというのは、リオーネ自身も心当たりがあったからだ。
「ほら!ちゃんと言えば伝わるのよ」
「お前は本当に賢いなぁ……それに引き換えシンジはなぁ」
父がため息を交じりに二階を見た。
シンジというのは小学校の帰り道にリオーネを段ボールから救い出し、この家に連れて来てくれた大恩人である。勉強が出来ないらしく、彼女の前でこうやってボヤくことが時々あるのだが……
──それが家督を継がせる者への発言ですか?
「どうしたんだ?そんなに怒って」
──言葉が分からずとも理解なさい。何度も言いません。あなた方の血を受け継ぐ者を軽んじる発言は、己の無能を語っているようなものです
「ほらあなた謝ってあげて!自分を拾ってくれたシンジの悪口言われて怒っているんですよ?」
「そうか……すまんなリオーネ」
──そういうことではないのですけれど、まぁいいですわ
そして、そんなことがあった次の日の日曜。
「16時にはあの子帰ってくるから、ごはんもらってね」と母が言っていたのに、シンジが帰ってこない。父は仕事、母は友人とどこかへ行くと言っていたのに、時間はもう17時半をまわろうとしているのにだ。
リオーネは妙な胸騒ぎを感じていた。
元の世界でも動物たちの勘の良さは彼女も知るところであり、猫の体をもってそれを味わうリオーネも「こういう感覚なのですね」と、すぐに行動を開始した。こういうときのために家中の窓をチェックしており、今日は父の寝室の窓が換気のために僅かに開いていたので、全身をその隙間に押し込んだ。
しかし母が帰ってきて自分がいないとなると、父が怒られるのは目に見えているので早く帰ってあげなければ……そんなことを思いながら彼女は家の屋根を駆けだした。