莉央とのこと
坊ちゃん文学賞落選記念作品です。柄にもなく恋愛ファンタジーを書いてみました。締め切り1日前に数時間で書いたものなので、今見ると粗が多く、応募したものに加筆・修正しています。
壁に貼ってあるカレンダーを見ると、僕が莉央と一緒に暮らし始めてから2ヶ月が経ったことに気付いた。ずいぶんと時が経つのは早いものだなと思う。
莉央とは高校2年の時に付き合い始めた。その当時の莉央は穏やかな性格の子で、クラスの中では目立たない、嫌みな言い方をすれば地味な子だった。同じ芸術コースのクラスメイトなのは知っていたが、彼女に恋愛感情など抱いたことはなかった。
莉央と付き合い始めた切っ掛けは何だったのだろう?
ああ、そうだった。修学旅行の自由行動の日に莉央が友達とはぐれてしまい、道に迷ってオロオロしていたところに、偶然僕が遭遇したからだった。
あの頃から、莉央は何故か見ていてハラハラさせる子だった。
この子は僕が護ってあげなければ。
どうしてそう思ったのかは分からない。でも運命の出会いなんて、そんな一瞬の感情のゆらぎが成せるものだろう。それが正しかったのか否かは、付き合い始めてからの二人の時の流れ方によって判断するしか無い。僕らにとって、この世界のことは、あまりにも知らないことが多すぎるのだ。例えば、現在の莉央の時間と僕の時間の感じ方が違うように。
「ただいまあ、帰ったよ、ロク」
アパートの玄関ドアが開き、莉央が部屋に入ってくる。
僕は急いで莉央を迎えに出る。
「ロク、さみしくなかった?」
莉央が僕の頭を撫でる。莉央は僕の頭を撫でるのが好きなのだ。
莉央は僕のことを「ロク」と呼称する。高校時代は、「陸郎くん」と呼んでいたが、地元の同じ芸術大学に入学してからは、「ロク」と呼ぶようになった。部活の仲間たちが僕のことを「ロク」と呼んでいたので、彼女もそれに習ったのかもしれない。莉央との親密さが増したみたいで、そう呼ばれることに喜びを感じたものだ。
「お腹すいたでしょ、ロク。直ぐにご飯にするね」
僕は今ではもう大学に通っていないが、莉央は僕と再会した時には、また大学に通い始めていた。
莉央は、しばらく大学を休学したことや、僕と再会する日の1ヶ月前から大学に通い始めたことも、そして僕と再会してからバイトを始めたことも話してくれた。
大学やバイトで忙しい莉央が僕に出してくれる夕食は、市販の物が多い。
莉央が、市販の物を袋から皿に装って、僕の前に出してくれる。僕が食べ始めると、莉央が楽しそうに僕のことをじっと見てくる。莉央の視線が恥ずかしくて、僕はうつむき加減で食べ続ける。
今日も莉央の夕食はインスタントラーメンのようだった。僕の分の負担をまかなうために、自分の食費を切り詰めているのだろうか。莉央には、きちんとした栄養を摂って健康でいてほしいが、それをどう伝えれば良いのか分からなかった。
僕にとっては幸いなことに、莉央が借りていたアパートは契約時から同居可だったので、僕が同居することによって家賃が高くなるようなことはなかった。だから、僕が莉央の部屋に転がり込むことには問題なかった。
しかし、それによって莉央の生活費の負担が増えたのは間違いなかった。莉央がバイトを始めたのは、僕と暮らすためだろう。莉央には迷惑をかけてすまなく思うが、僕にはどうしようもなかった。
それでも僕は莉央と一緒にいられることが幸福だった。莉央と会うことが出来なかった霞がかかったような記憶しかない6ヶ月間を経て、莉央との奇跡的な再会を誰かに与えてもらったのだから。
「ねえロク、散歩行こうか?」
翌日の日曜日は、莉央のバイトのシフトが入っていない日だった。
僕は、莉央の提案に、喜んで肯いた。
莉央と一緒に暮らし始めてから、日曜日の朝には必ず散歩をしてきた。いつも同じコースで莉央との散歩を楽しむ。目的地はアパートから20分くらいの、歩くにはちょうど良い距離の城山公園だ。
僕が大学に通っていた時も、何度かそのコースを散歩したことがあった。その時はただの散歩ではなく、大学の課題で出た風景画の題材を探してのことだった。今ではもう僕は絵を描けなくなったが、当時は莉央と「ここの景色良いよね」などと言い合いながら、両手の親指と人差し指で四角い枠をつくって、その中に景色を当てはめて楽しんだりもした。
その時の記憶がよみがえる中で、僕は莉央が選ぶ城山公園までのルートが遠回りになっているような気がしたことがあった。
『たしか、ここをまっすぐ行った方が近いよな』
僕がそう思って、とある交差点でまっすぐ行こうと莉央を引っ張った。
しかし、莉央は「ロク、そっちはダメ」と強い口調で僕に言って、左に迂回するルートを選んだ。それから何度も、まっすぐ進むルートは莉央から拒否された。なぜまっすぐ進むことを莉央は頑なに嫌がるのだろう。そう思ったが、僕は莉央の意見を尊重して、今では左への迂回ルートで行くことに甘んじるしか無かった。
散歩から帰宅すると、僕は大して汗もかかないので脚を洗うだけだが、莉央は必ずシャワーを浴びる。そして下着姿のまま僕の前に浴室から戻ってくる。
恥ずかしくないのかなと僕は心配になるが、莉央は何も気にしていないようだ。でも僕の方も、そんな莉央のあられもない姿を見ても、以前の頃と心のメカニズムが変化したのか、欲情することはない。
「お散歩楽しかったね」
屈託のない笑顔を僕に向けながら、莉央は部屋着を着る。
莉央は、散歩の後はほとんど絵を描いて過ごしている。美大生なので作品制作は必須なのだ。
莉央の描く温かさを感じられる絵が僕は好きだ。そういえば、大学に入って間もない頃、莉央に僕の肖像画を描いてもらったことがある。F10号のカンバスに描かれた絵だったが、あの絵はどうしたのだろう? 僕が譲り受けたのかな? どうも以前の記憶は曖昧だ。
今莉央が描いている絵は、城山公園から見える景色だ。カンバスに向かって集中して筆を動かしている莉央を見ながら、僕は部屋の隅でじっとしている。真剣に絵に取り組んでいる莉央の邪魔をしてはいけないからだ。
莉央の筆によって、先ほどの城山公園から見た景色が、数倍美しいものへと変化していく。その過程は見ていて飽きなかった。莉央が、油彩ではなくてアクリル絵の具を使ってくれるおかげで、僕の繊細な嗅覚にも影響はなく、莉央が絵を描く様子を楽しく見続けることができた。だから昼を過ぎても空腹を感じることもなかった。
夕暮れが近づいた時、「あ、いけない」と呟いて、莉央が立ち上がった。
「夢中になって、お昼も忘れてた。ごめんね、ロク。お腹すいたでしょ?」
部屋の隅に座っている僕を見下ろしながら、莉央が言った。僕は首を振った。
「今日はロクの分も作るから、もう少し我慢しててね」
莉央が冷蔵庫から何かを取り出してから、キッチンに立った。
肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。
久しぶりに本物の牛肉のステーキを堪能できた。ただし、焼き上がったばかりの肉は僕の舌には熱すぎたので、冷めるまでしばらく待たなければならなかったのだが、待つことによって一層美味しく感じられた。
でも、なんで莉央は今日、こんな贅沢をしたのだろう? いつもは食費を切り詰めているのに。
僕が、莉央を見上げて不思議そうな顔をしていたのかもしれない。僕に訊かれたわけでもないのに、莉央が話し始めた。
「今日はロクの誕生日だったのよ。だからそのお祝い。ケーキもって考えたけど、ロクは甘い物が嫌いだったから…」
莉央の表情が今にも泣きそうになっていた。
「そうだ、きみにも見せてあげるね」
そう言った莉央は部屋の隅にカンバスが立てて重ねて置いてある所に行き、一番奥から、F10号のカンバスを取り出した。
莉央が僕の前にそのカンバスを置いた。
カンバスには僕が描かれていた。あの時の僕の肖像画だ。莉央は大切に持っていてくれていたのだ。
「彼って、イケメンじゃないけど、かっこいいでしょう?」
そう言って笑った莉央の目には涙が溢れていた。
「私にとって、本当の意味での白馬の騎士だったのよ。あの時、私を護ってくれて・・・」
莉央は涙声になっていた。
そうか!はっきり思い出せなかったあの日の記憶が鮮明に蘇った。
今から8ヶ月前のあの日、僕と莉央は一緒に城山公園への道を歩いていた。そして最短ルートで行ける一方通行の狭い道路を進んでいた時、軽自動車が猛スピードで逆走してきたのだ。そしてそれに気付くのが遅れた莉央をかばって、僕は軽自動車に跳ね飛ばされたのだった。
だから散歩の時、莉央が頑なに嫌がったのだ。その場所を通ることを。忌まわしい記憶が残るその場所に近づくことさえも。
僕は悲しくなった。もう吹っ切れていると思っていたのに、莉央の心の中から、僕は消え去っていなかったのだ。僕を「ロク」と呼び始めた時に気付くべきだったのだ。莉央が僕に未練を残していることを。
傷ついた心を癒やしてくれることを求めて、莉央は譲渡会場を訪れたのだろう。そこで僕は莉央との奇跡の再会を果たした。莉央が僕を選んだ時、僕は使命を与えられたのだと思った。これからも莉央を見守っていける。
そしてそれからの2ヶ月間、莉央を見守り続けた。
僕は莉央に幸せになって欲しいと願っている。莉央が幸せになることが、僕の使命に違いないのだから。早く僕のことを忘れて、新しい恋に踏み出して欲しい。もしも新しい彼が莉央にふさわしくないやつだったら、その時はそいつに噛みついてやろうとさえ思っている。
僕は莉央が一刻も早く幸せになってくれることを願っているのだ。
なぜならば莉央の時間と僕の時間は、進み方が同じでもその比重が違う。僕の方が早く寿命を迎えてしまう運命は避けられないのだ。
僕は莉央を慰めようと、莉央にすり寄った。
「ごめんね、ロク。私まだ強くなれてないみたい。でも、いつまでもくよくよ泣いていたら、天国にいるロクに怒られちゃうよね」
そう言って、莉央は僕をハグした。
僕は、莉央を励ますために、「ワン」と大きな声で吠えた。