7話 捕らわれた先で
「嘘だろ……」
ニールはよろよろとしながら、フランシエルが残していったグレイブを拾い上げた。彼女を助けてやれなかったことに対し自責の念が一気に押し寄せてくる。また、仲間を危険な目に遭わせてしまった――
「ニール、気をしっかり持て」
イオが傍に来て静かに言った。
「俺が奴の痕跡を探す。その間にお前はゼレーナたちと合流して状況を共有しろ。自分が悪いだの余計なことは考えるな。あの状況では何もできなかった」
淡々としていながらも諭すような物言いが、徐々にニールの心にいくらかの冷静さを取り戻させる。ニールは頷いた。
「……分かった。頼むよ、イオ」
「やれるだけのことはやる」
謎の男とフランシエルを乗せた魔物が去っていった方向へ、イオが地面を蹴り飛び出していく。小さくなっていくその背を見届け、ニールは背後に広がる森に向き直った。別の魔物の相手を引き受けてくれた仲間たちは無事だろうか。
その時、枝を踏む音と共に木立の中から大鎌を手にしたエンディが姿を現した。続いてゼレーナ、ルメリオ、アロン、ギーランも出てくる。ルメリオでも治せない程の怪我を負った仲間はいないようだ。
ニールの姿を見つけたエンディは、魔法で作られた大鎌を消して駆け寄ってきた。
「ニール、良かった無事だったんだね!」
ニールはほとんど声にならない返事しかできなかった。フランシエルの武器をニールが持っていることを不思議に思ったのだろうルメリオが、辺りを見回しながら問う。
「フランさんはどちらへ?」
「……あの男に攫われた。イオが探しに行ってる」
仲間たちが一様にざわめく。ルメリオは両腕を伸ばし、俯くニールの肩を掴んで揺さぶった。
「どういうことです、何があったというのですか!? ニール、貴方は」
「待ってください。騒いだってどうしようもないでしょう」
食ってかかるルメリオをゼレーナがニールから引き剥がした。我に返ったらしいルメリオが、帽子を深く被り直して大きく息をつく。
「……失礼。ゼレーナさんの仰る通りです」
「ニール、何が起こったのかきちんと説明してください」
ニールがフランシエルが捕らわれた経緯について話すと、アロンがニールの服の袖をきゅっと握った。
「ニール、あいつだれなんだ? 何なんだよ?」
「俺にも分からない。けど確かに、あの人は魔物を操ってた」
ごく限られた例外を除き、魔物と意思疎通を行って従わせることなど不可能のはずだ。それを実現する手段などニールには考えも及ばない。
そこで、ニールはあることを思い出した。フランシエルを攫った男が操っていた豹のような魔物、その額で何かが光っていたのを見た。
「虹石……」
ニールはぽつりと呟いた。それを聞いたアロンが思い出したようにポケットを探る。
「そうだニール、さっき倒した奴からも出てきたぞ、虹石!」
アロンが見せてきた虹石は黒く変わっている。力を失ったものだ。
「俺たちが戦った魔物にも、虹石がついていた気がする。多分、生きてる虹石だ。光ってるように見えた」
「まさか、虹石を体に埋め込まれた魔物は人の命令を聞くようになる……ということですか」
ゼレーナが眉間を指で押さえて呻く。
「……わたしたち、いよいよとんでもないことに首を突っ込んでしまってますね」
エンディが息を飲んだ。
「そんなことが本当に……もしも誰にでもできるようになっちゃったとしたら……」
「王国中が無法地帯ですよ。貧民街の喧嘩沙汰なんて可愛いと思えるくらいの」
その時、魔物と男の痕跡を探していたイオが戻ってきた。ニールが結果を問う前に彼は無言で首を振った。
「すまない。相手が速すぎた」
ルメリオが苦い顔をして地面を杖の先端でこつこつと叩く。ニールは次の手を考えようとしたが、頭に浮かぶのはぐったりしたフランシエルの姿ばかりだ。まともな武器を持っていない状況で、彼女はどうなっているのだろう。あの男がもしもこの上ない残忍な人間だったら――
「おい、いつまでここにいりゃいいんだよ?」
ギーランがやや苛立った声を上げた。
「片目だけじゃ嬢ちゃんを探しきれねぇってんなら俺も行きゃいいのか、諦めて帰んのかさっさと決めろ」
「諦めるなんてできるわけないだろ!」
自分でも驚くほど大きな声がニールの口から飛び出した。落ち着きなさい、とゼレーナが諫める。
「諦めようとは言いません。ですがこのまま追いかけるのはあまりにも無謀です。村に戻って目的の魔物を倒したことをきちんと報告して、村人に協力を仰ぎましょう。フランをしっかり探すなら少しでも食料や水を分けてもらわないと」
ニールとしては本当なら今すぐにでも飛び出したいほどだが、ゼレーナの言うことは最もだ。そもそもニールたちがはるばる来たのは村人を脅かす魔物を倒すためだった。
「ああ……そうだな。ありがとうゼレーナ」
冷静さを崩さない仲間の存在は頼りになる。フランシエルが無事でいることを祈りつつ、ニールたちは村の方へと引き返した。
***
グレイルは魔物を駆り、平原をひた走っていた。捕らえた自警団の少女は未だ意識を取り戻さず、グレイルに体を支えられてぐったりとしている。
しばらく走っているとやがて林に差し掛かった。グレイルでもすんなり入れる程の広さの洞穴の前で魔物を止め、少女を抱えてその背から降りる。
「見張れ」
グレイルが言うと、魔物は短く唸って洞穴の前に陣取った。グレイルに与えられた「成功例」のうちの一体は、獰猛な見た目とは裏腹に彼に忠実に従う。今ではすっかり頼れる相棒となっていた。
グレイルは少女を洞穴の中に運び込んだ。そっと地面に横たえるが、まだ目を覚まさない。呼吸と共に胸がかすかに上下していた。
彼女を前にグレイルは考え込んだ。自警団の面々が追ってくることを防ぐため人質として攫う形になってしまったが、この少女を手にかける気はない。どこか適当な村の近くに置いて去ろうかとも思ったが、何か別のことに利用できるかもしれない。
エルトマイン公爵は自警団をとるに足らないものだと一蹴したが、グレイルは同じように思えなかった。先ほど剣を交えた二人――隻眼の双剣使いと青い髪の剣士、そしてこの少女も、決して騎士ごっこの延長にいるだけの者ではない。野放しにしておけば計画を邪魔する存在たりえる。この少女の身柄を引き渡すことを条件に、金輪際我らに関わるなと持ち掛けるべきか――
グレイルの目にあるものが止まった。横たわる少女の衣服の袖が少しめくれ、光沢のある白いものが覗いている。グレイルは少女に近寄り、その袖を更に捲って腕を露わにさせた。
「これは……」
グレイルは思わず声を漏らした。少女の腕を覆っているのは白い鱗だった。
その部分が隠れていれば少女は普通の人間と変わりないが、鱗は飾り物ではなく確かに彼女の体の一部だ。
鱗を体に生やした種族――竜人であれば頭には角を戴き、顔や首も鱗で彩られているはずだ。この少女のように、ほんの一部分にしか竜人の特徴が表れないという例をグレイルは知らない。
グレイルは少女の顔をまじまじと見た。やはり、鱗の一枚も見当たらない。首から下げられているのは銀色のペンダントだ。
それが目に映った時、グレイルの遠い、しかし忘れられない記憶が呼び起こされた。手を伸ばしペンダントをそっとつまんで確かめる。
間違いない、これは「彼女」がつけていたものと同じ意匠だ。
その時、少女の目がぱっちりと開いた。己を至近距離で見つめるグレイルに驚いて跳ね起き、洞穴の壁に背をぴったりつけて身構える。
「落ち着いてくれ、先ほどは申し訳なかった。君を傷つけるつもりはない」
グレイルは片膝をついて姿勢を低く保ったまま静かに、諭すように少女に語りかけた。しかし彼女は怯えたままだ。武器を失い抵抗する術を持たない、かすかに震える少女をなだめるためグレイルは腰に下げた剣を鞘に入れたまま地面に置き、少女の方へ押しやった。剣は滑り、少女の目の前で止まった。更にグレイルは両手を軽く上げ、敵意のないことを示した。
それを見た少女の瞳から恐怖の色がいくらか消えた。しかし気を緩めることはなく、グレイルの次の出方をうかがっている。
「先ほども言ったように、君を傷つけることは望まない。仲間のもとに帰したいと思っている……ただその前に、私の質問に答えて欲しい」
少女の顔がまた少し強張ったが、拒否する素振りは見せなかった。
グレイルはそのまま少女に問うた。
「シルヴァーナという名前の竜人を知っているか? そのペンダントは、彼女がつけていたものと同じなんだ」
少女が目を見開く。予想だにしていなかった質問だったのか、あるいはその名に覚えがあるのか。
「どうして……」
初めて少女が言葉を発した。
「知っているのか? 今は私と同じ程の年齢のはずだ。髪は銀色、目は明るい緑、角と鱗は白くて、右の足が悪かった」
みるみる内に少女の顔が驚愕の色に染まる。彼女はぐっと唾を飲み込んだ後、口を開いた。
「あたしの、お母さん……」
グレイルの心臓が大きく飛び跳ねる。少女を質問攻めにしてしまいそうになるのをぐっとこらえた。彼女を怯えさせてしまっては欲しい答えが得られなくなる。
「シルヴァーナは、今も元気でいるかい?」
平静を保ちながら更に問う。今度は少女の顔に影が差した。
「お母さんは……十年前に死んだ」
その瞬間、グレイルの視界が灰色で覆われた。遠くでさえずる鳥の声も酷くくぐもって聞こえる。世界のすべてから己だけが切り離され、放り出されたような感覚に陥る。
信じられない、信じたくない。彼女のためだけに、己の人生のすべてを投げうってきたのに。
「どう、して……」
喉奥から必死に声を絞り出す。グレイルの反応に少女は戸惑いを見せながらも答えた。
「足が痛いのを抑える薬を飲み続けて、体を悪くして……」
グレイルは体の震えを止めることができなかった。眠っている間にシルヴァーナにより見知らぬ土地に送り届けられたあの日、無理にでも彼女のもとに戻っていれば。彼女の傍について毎日右足を擦ってやっていれば、こんなにも早く命を落とすことなどなかったかもしれない――後悔の渦に飲み込まれ、気を失ってしまいそうだ。
「あ、あの、大丈夫……?」
項垂れるグレイルに少女は困惑しながらも、気遣うような言葉をかけてくる。グレイルはのろのろと顔を上げ彼女の顔を見た。明るい緑色の瞳は母親譲りなのだろう。それがグレイルをゆっくりとではあるが正気に戻してくれた。
「ああ……すまない」
グレイルは大きく深呼吸をした。目の前にいる少女がシルヴァーナの娘であることは分かった。そして、おそらくは――
「失礼だが君は……竜人らしくない。鱗を隠していれば、人間と変わりないように見える」
少女は小さく頷いた。
「あたしのお父さんは人間なの……でも会ったことはない。ずっと旅してるってお母さんは言ってた」
「……そうか」
予感が確信に変わる。グレイルは立ち上がった。この少女が危険に晒されることだけは何としても阻止しなければいけない。
「答えてくれてありがとう。約束を守ろう」
グレイルが短く指笛を吹くと、洞穴の前で見張りをしていた魔物がこちらにやって来た。豹のような姿に少女が身構える。
「心配はいらないよ。私が指示をしなければ君を襲うことはない」
グレイルは彼女を手招いた。少女の顔に迷いが表れたが、やがてグレイルの元へやって来た。グレイルは魔物の黒い背に片手をそっと置いた。
「さあ、乗って。こいつが仲間のところまで連れて行く」
おっかなびっくりではあるが少女が魔物にまたがる。前のめりになって魔物の首の毛をつかむよう指示し、グレイルは魔物の喉元を擦った。
「村へ走れ。人は襲うな」
分かったというように魔物が喉を鳴らす。行け、と言いかけた時、少女が待ってとそれを止めた。
「あなた……グレイル、なの?」
「これ以上、私たちに関わってはいけない。君も、君の仲間もだ。命を危険に晒す前に自警団を退きなさい」
答えになっていないグレイルの言葉に、少女が再び口を開こうとする。グレイルはそれに構わず魔物へ声をかけた。
「行け」
魔物が地面を蹴って走り出す。人を一人乗せても変わらない俊足で、グレイルの前からあっという間に姿を消した。
その姿を見送り、グレイルは再び地面に膝をついた。
かつて心から愛した女性は、とうの昔にこの世を去っていた。何にも邪魔されない世界で再び彼女に会い、手を握りたかった。人間の暮らしについて彼女に語り、竜人の生き方について耳を傾けたかった。シルヴァーナと共に、幸せになりたかった。それはもう、どうあがいても叶わない。
「シルヴァーナ……」
そっとその名前を呼ぶと、グレイルの双眸から涙が零れおちる。彼女は死の間際に何を思ったのだろう。グレイルに二度と会うこともなく、幼い娘を残し独りで逝くのはどれほど寂しく辛いことだっただろう。
本当は泣いている場合ではない。人と竜人、両方の国を闇で覆いつくしかねない恐るべき計画にグレイルは加担してしまっている。シルヴァーナの死を知った今、それはグレイルにとって何の意味もない。
グレイルは一人、今はもういない最愛の人を想って泣き続けた。




