2話 寄り添う心
目を覚ましたグレイルの視界に真っ先に飛び込んできたのは、彼の顔をじっと覗き込むシルヴァーナの明るい緑色の瞳だった。
「うわぁっ!?」
驚いて叫びながら跳ね起きたグレイルの様子を見て、床にぺたんと座った彼女は楽しそうに笑った。
「ど、どうかしたかい?」
シルヴァーナは善良な竜人だが、同時にかなり変わったところがある。グレイルが今まで接してきた女性の中にはない個性を持つ娘だ。
「何にもないわ。床の上でぐっすり寝てるのが面白くて」
「ああ……ここ数日は外で寝ていたからね。久しぶりの室内だから安心しきってしまったよ」
それを聞いたシルヴァーナは何か言いたげな表情を浮かべたが、何も言わず右足をかばうようにゆっくりと立ち上がった。
「朝ごはん食べるでしょ」
「い、いや、もう本当に大丈夫だ。これ以上世話になるわけにはいかないよ」
「食べないと力が出ないわよ。一人分でも二人分でも作り方は同じだし」
シルヴァーナがいそいそと台所に立つ。独りで住む彼女は、やはり客人が珍しいのだろう。だがグレイルも好意に甘えっぱなしではいられない。
「ならせめて何か手伝わせて欲しい」
グレイルの申し出にシルヴァーナは逡巡した後、部屋の隅に置いてあった壺を指さした。
「水を汲んできてもらえる?」
足の悪い彼女には重労働のはずだが、グレイルにとっては大した負担ではない。それで少しでもシルヴァーナが楽になるなら安いものだ。
「分かった。任せてくれ」
***
シルヴァーナに場所を教えられた川で水を汲み、一仕事を終えたグレイルは彼女と共に朝食をとった。それを終えるとシルヴァーナは戸棚から緑色の葉を何枚か取り出し、器に入れてすりこぎでそれを潰して水と混ぜた。
「それは何だい?」
「お薬」
鼻に皺を寄せ、短くシルヴァーナが答える。器を両手で持って薬をぐっと飲み干し、顔をしかめて口元を手の甲で拭った。
「辛そうだな……」
「飲まないともっと辛くなるの。痛みを抑える薬だから」
シルヴァーナが足元に視線を落とす。グレイルが見た限り目立った外傷があるわけではないが、薬で和らげなければ耐えられない足の痛みと生まれた時からずっと付き合っているのだ。支え合う家族もいない彼女が、グレイルの目には不憫に映った。
「シルヴァーナ、何か他に私に手伝えることはないかい?」
「え、でも……」
昨日から何かと世話を焼いてくれたシルヴァーナが今度は躊躇う番だった。グレイルは彼女に微笑みかけた。
「親切にしてくれたお礼だ。一応、並の男くらいの腕っぷしはあるから大抵のことはこなせると思うよ」
シルヴァーナは一瞬目を伏せた後、白い鱗に彩られた目じりを下げた。
「じゃあ、薪割りをお願いできる?」
「ああ、勿論だとも」
***
それからグレイルはシルヴァーナのためせっせと働いた。薪を割った後は洗濯を手伝い、家の隅で埃を被っていた弓矢を借りて狩猟に出かけた。彼女はいつも動物を獲るのに罠を仕掛けていたようだが、それでは捕まえられる獲物が限られる。野鳥を数羽ほど射抜いてグレイルが帰ってくると彼女は目を丸くし、張り切ってそれらを料理し始めた。
そうしている内に日が暮れ、グレイルとシルヴァーナは昨日と同じく揃って食卓についた。
「うん、美味しい! 君は料理が上手だね」
香草と共に焼いた野鳥の肉は素朴だが味わい深い。グレイルが褒めるとシルヴァーナは嬉しそうにはにかんだ。
「ありがとう。たくさん食べて」
しばらく食事を楽しんだところで、おもむろにシルヴァーナが切り出した。
「グレイルは、どうしてここに来たの?」
「ん? ああ……別に目的地がある訳ではないんだ。ただ何となく歩いていたらここまで来たというだけだよ」
「ずっと歩いてきたの? 色んなところを?」
「そうだね。旅を始めてもう一年は経つ。あっちへこっちへふらふらと、気の向くままに……という感じさ」
「じゃあ、海って見たことある?」
身を乗り出して問うてくる。グレイルも正確な地理を把握している訳ではないが、この辺りは内陸のはずだ。海を見る機会はなかなか訪れないだろう。
「ああ。とはいっても崖の上から見たくらいだけれどね。でもいい眺めだったよ。君にも見せてあげたい」
「……話に聞いたことがあるの。世界のどこかにね、真っ白な砂の地面と青い海がどこまでも広がって見える場所があるって」
「へえ……初めて聞いたよ。絶対に美しいだろうね」
きっとそれはシルヴァーナ自身も叶わないと知りつつ、夢を見ずにはいられないのだろう。もしその光景を目の当たりにしたら、彼女はどんな顔をするだろうか。
「……ねえ、聞かせてくれる? グレイルが今まで見てきたもののお話」
「はは、聞いてくれるのかい? 一晩じゃとても語りつくせないよ」
旅の間に見聞きしたことを、グレイルは覚えている限りシルヴァーナに話して聞かせた。彼女は幼い少女のように目を輝かせてそれに聞き入り、鈴のような笑い声をあげる。そうしてまた、夜は更けていった。
***
二日、三日と日にちが過ぎても、グレイルは未だシルヴァーナの傍にいた。何かと仕事を見つけて働き、シルヴァーナと食事を共にして旅の思い出や他愛もないことを話して眠る――本当は出て行った方がいいはずだとグレイルも頭では分かっていたが、グレイルが狩ってきた獲物を張り切って料理し、誰かと一緒に食べると美味しいと笑うシルヴァーナを見ていると彼女を置いて行く気になれなかった。
迷惑にならないよう、今もグレイルは家の床に敷いた毛皮の上で寝ている。見かねたシルヴァーナが今まで狩ってきた野鳥の羽根を集めて布に詰め、簡単な枕を作ってくれた。
彼女は捻くれたところのない、よく笑う女性だった。だが一日に一度、足の痛みを抑えるという薬を飲む時だけその顔が苦しげに歪む。その様子を見るのに耐えかねて、ある日グレイルは切り出した。
「それは本当によく効く薬なのかい?」
「……飲まないよりはまし」
グレイルの前では明るく振る舞っているが、常に痛みが彼女につきまとっている。グレイルに医学の知識はないが、何かしてやれることは――しばし考え、グレイルは寝台を指さした。
「シルヴァーナ、そこに座ってもらえるかな」
シルヴァーナは不思議そうにしながらも素直にグレイルに従った。寝台に腰掛けたシルヴァーナの足元に片膝をつき、グレイルは彼女の右足首にそっと触れた。そこも白い鱗が覆っている。
「痛い?」
「特別に痛くはないわ」
「分かった。本当は女性の足に気安く触るべきではないけれど、少しのあいだ許して欲しい」
グレイルはそう言ってシルヴァーナの右足の靴を脱がせ、両手で彼女の素足を包むようにした。足首から足の甲、裏までを彼女の顔色を見ながらゆっくり擦る。
「グレイル、何をしてるの?」
「撫でているだけだ。気持ちが悪い?」
シルヴァーナは首を横に振った。己の熱を伝わせるように、それでいて壊れ物に触れるかのように優しくグレイルは彼女の足に触れ続けた。
次第に、シルヴァーナの表情が柔らかなものに変わっていく。
「痛くなくなってきた……」
「そうか、良かった」
願い通りになったことにグレイルは安堵の息をこぼし、なおも手を止めなかった。
「グレイルには不思議な力があるの?」
「はは、まさか。私は医者でも魔法使いでもないよ……君の苦しみが少しでも無くなるように、ただそれを祈っているだけだ」
「ありがとう……本当に不思議。お薬を飲むより、グレイルに触ってもらった方が痛くないわ」
シルヴァーナが手を伸ばし、グレイルの亜麻色の髪に触れる。そのまま愛犬を可愛がるような手つきでグレイルの頭を撫でてきた。くすぐったさが心地よく、グレイルはくくっと笑った。
「頭を撫でられるなんていつ以来かな」
「嫌だ?」
「いや、嬉しいよ」
顔を上げると、シルヴァーナと視線がぶつかる。グレイルの心の中で小さな温かいものが花開いた。
***
グレイルと竜人のシルヴァーナが偶然の邂逅を果たしてひと月が経った。
話し相手はシルヴァーナのみだが、グレイルは今までにない居心地の良さを感じていた。ここが故国から遠く離れた竜人の領域であることを忘れそうになる程だ。ずっと求めていたものは、この小さな家にあった。
シルヴァーナの右足もグレイルが毎日擦って温めた甲斐があったのか、日に日に歩く時のぎこちなさが失われていった。痛み止めの苦い薬を飲む必要がなくなり、彼女は一層明るくなった。
今日も一日の終わりが近づいていた。グレイルが狩った肉とシルヴァーナが採った野草が鍋の中でぐつぐつと煮え、食欲をそそる香りを放っている。
穏やかな夕暮れのひと時に水を差したのは、玄関の戸を叩くやや荒っぽい音だった。
グレイルは椅子に座ったまま身を固くした。シルヴァーナ以外の竜人は皆、この家よりも高い場所に住んでいると彼女は言っていた。ひと月の間に出会うことのなかった別の竜人がシルヴァーナを訪ねてやって来たようだ。
台所に立っていたシルヴァーナも音のした方を振り返り顔を引きつらせた後、急いで戸棚の方へと向かった。下段の扉を開けて、しまってあった鍋や日用品の入った箱を片っ端から出していく。
再び、扉が叩かれた。
「少しだけ待って!」
シルヴァーナは玄関に向かって声を張り上げると、空になった戸棚を無言でグレイルに示した。中に入って、と彼女の目が訴えている。グレイルはできるだけ音を立てないよう椅子から立ち、身を縮めれば何とか入れそうな空間に体を押し込めた。扉が完全には閉まらなかったので、シルヴァーナが元々入っていた道具を扉の前に積み重ねてグレイルの姿を隠した。
また扉が叩かれる。中々出てこないシルヴァーナに苛立っているようだった。
「いま出るわ!」
早足でシルヴァーナが扉に向かい開けた。客人がどのような容姿をしているのかグレイルからはよく見えない。
「大事ないか」
不愛想な男の声が、戸棚の中で息を殺すグレイルの耳に届く。
「ええ。大丈夫」
シルヴァーナの返事に客人は何も応えず、かすかな物音がした後、玄関の扉が閉められた。客人は帰っていったようだ。
シルヴァーナの足音が近づき、戸棚の扉の前を塞いでいたものが次々とどかされる。狭い空間から這い出たグレイルはほっと胸を撫でおろした。
「ごめんなさいグレイル。びっくりしたでしょう?」
「いや、大丈夫だよ。今の竜人は誰なんだい?」
「……兄さまのお使い。時々ここに来て食べ物とかをくれるの」
「兄さま? 君、家族がいるのか!?」
シルヴァーナはてっきり、身寄りがなく竜人の集落から離れて住むことを余儀なくされている娘なのだとばかりグレイルは思っていた。シルヴァーナは顔を曇らせて俯いた。
「……兄さまと、最後に会ったのはいつか覚えてないの」
彼女の兄は足の悪い妹を独りで暮らさせ、自らの足で訪ねることはせず使いの者に物資を持たせて時々様子を見に行かせている。しかし先ほどやって来た竜人の態度はお世辞にも良いとはいえなかった。この役目を煩わしく思っているのだろう。
「……酷過ぎる。家族なんだろう? なのに」
グレイルはそこで言葉を切った。首から下げた銀色のペンダントを握りしめるシルヴァーナの睫毛を雫が濡らしている。己を邪険に扱う家族へ恨み言の一つも言わずただ静かに、持って生まれてしまった重い荷物を憂いている。
両腕を伸ばし、グレイルはシルヴァーナを抱き寄せた。
「君が悪いのではないよ、シルヴァーナ。私も家族とはうまくいかなかった。そういうものさ」
彼女の銀色の髪を撫でてやる。頭から生えている角の存在はまったく気にならなかった。
「君の素晴らしさは私が知っている。君は清く澄んだ、美しい心の持ち主だ。それを誇るべきだよ」
「……ありがとう、グレイル」
顔を上げ、シルヴァーナが口元に笑みを浮かべる。
「食事にしましょ。せっかく作ったのが冷めちゃうわ」
***
その夜。いつものようにシルヴァーナは寝台で、グレイルは床で横になった。明かりも消えた静寂の中、眠ろうとグレイルは目を閉じた。
「……グレイル」
程なくしてシルヴァーナに呼ばれ、グレイルは身を起こした。
「どうかした?」
彼女は何も答えなかった。そのまましばらく様子をうかがっていると、またシルヴァーナが口を開いた。
「グレイル」
「ここにいるよ」
「グレイル」
「……シルヴァーナ? どうしたんだ」
胸騒ぎを覚え、グレイルは立ち上がってシルヴァーナがいる寝台へと近づいた。彼女は寝台に寝転がったまま、目を開けてグレイルを見ている。グレイルは寝台の横に膝をついた。
「具合が悪い? 足が痛い?」
窓から微かに月明りが差し込む中、シルヴァーナは小さく首を振った。そして縋るようにグレイルへ手を伸ばす。グレイルはその手をしっかりと己のそれで包み込んだ。今日のことでシルヴァーナは、より孤独に弱くなっているのだろう。
「……グレイル」
「うん?」
「もっと、近くに来て」
「もう十分近いだろう?」
グレイルとシルヴァーナの顔は、口づけも容易い距離にある。シルヴァーナの顔に生える白い鱗が、神秘的な輝きを放った。
「グレイル、お願い」
今までに聞いたことのない悲痛な声。温もりを求める裸の心――埋めてやりたい、満たしてやりたいと思う。だがそれをすれば、もう昨日までの関係ではいられない。少なくともグレイルにとっては。
「グレイル」
「……っ」
寝台に上り、シルヴァーナの足に触れないように覆いかぶさる。彼女の目には恐れでも戸惑いでもない、星空のような煌めきがあるだけだった。
その日、二人は初めて同じ寝台で夜を共にした。




