36話 寡黙な刃の胸の内
「イオ!」
ニールは木々の間をぬいながら走り、前を行くイオに必死に呼びかけた。彼の足はニールよりも速い。木々に足をとられて転んだりすればあっという間に見失ってしまうだろう。
「イオ、待てよ!」
ニールの声は届いているはずだがイオの足は止まらない。このままでは撒かれてしまう――ニールは声を張り上げた。
「逃げるなんて狡いぞ!」
イオの足がぴたりと止まった。やっとのことで彼に追いついたニールは荒く息をしながら、その背中に語り掛ける。
「このまま逃げたって何にも解決しないだろ。ソルの気持ちを蔑ろにしちゃ駄目だし、俺たちだってお前とずっと一緒にいたんだ。いきなり全部なかったことになんてできない」
「……お前に何が分かるんだ」
ニールの方へ振り返り、イオが冷ややかに言う。
「俺は……俺には一つの道しかなかった。栄誉の証に、優秀な刃の民になることだけが俺の生きる意味だった。なのにソルが……あいつさえいなければ……」
声の調子が段々と喉奥から絞り出したようなものに変わり、いつもほとんど変わらない表情に苦しみの色が滲む。
「俺は弱かった。最後の最後にあいつを殺せなかった。それでも殺そうとした事実に変わりはない。その代償に片目を潰して、今の俺には何も残っていない……」
「そんなことないよ。俺、イオは強いと思う」
ニールはイオに優しく声をかけた。
「俺は刃の民のことなんてほとんど分からないけどさ……優秀になることを強制されて、それだけが人の価値を決めるような世界って、すごく辛いだろうなっていうのは想像できる。そんな中で、イオはソルと色んな気持ちを分け合ったんだろ? ソルを、大事な友達を殺したくないって最後に思って手を止めたんだろ? 周りに流されずに自分の気持ちに正直でいるっていうのも一つの強さだと俺は思うよ」
刃の民として非情になりきれなかったイオ。しかし背負うには重すぎる周りの期待や窮屈な環境にあってなお、彼はそれにすべてを委ねず自分の心を殺さなかった。
イオは普段から何事に対しても絶対に手を抜かない。そう強くない魔物を相手にする時ですら、完全にこと切れたと判断できるまでは絶対に武器を収めない。ずっと忠実に刃の民の教えを守ってきたからこそ、彼は家の期待に応えられなかった己を許せないのだろう。
だが、イオが自分自身をこの先もずっと苦しめながら生き続けることをニールは看過できなかった。
「ソルは全部分かってくれているんだ。それでもイオと友達のままでいたいって思っているんだよ。イオはどうしたいんだ? 本気でもうソルとは会いたくないって言うつもりじゃないだろ?」
「……俺、は」
常に周囲の警戒を怠らないイオが、今は自分の心にのみ向き合っている。その姿はどこにでもいる十八歳の若者だ。
「……前に、ニールがあの騎士……テオドールだったか。あいつと剣を交えているのを見て……羨ましいと思った。ただ純粋に、互いの持つ力をぶつけ合って戦えたなら……どれほど楽しいかと」
「やればいいじゃないか」
「俺に、できるか」
「俺にできてイオにできないことなんてないと思うぜ」
ニールは笑って言った。
***
イオと共にニールは仲間たちの元へと帰った。先ほどまでと同じように皆、輪になって座っている。周囲の見回りを引き受けていたギーランとアロンも戻ってきていて、ギーランは草地の上に寝そべって惰眠を貪っていた。
「ああ、お帰りなさいニール。それにイオも」
イオが去るまでのやや緊迫した空気などなかったかのように、ルメリオが涼しい顔で言った。最初からニールがイオを説得して二人で帰ってくると見通していたのだろう。
「皆、待たせてごめんな」
「ううん、大丈夫だよ。皆で仲良くお喋りしてたから」
フランシエルが笑顔で答え、ね?とソルの方に顔を向ける。ソルは小さく頷き、すぐにイオに視線を移して立ち上がった。
「イオ……」
「ソル、俺と戦って欲しい」
「え……?」
突然の申し出にソルが目を丸くする。
「お前と戦いたい。互いに背負っているものを全て忘れて、ただ純粋に力をぶつけ合いたい。受けてくれないか」
驚いていたソルだったが、イオが本気なのをすぐ悟ったのだろう。頷いて答えた。
「分かった。相手になるよ」
***
ニールたちは森を出て、街道からも離れた草地まで移動した。視界を遮るようなものは何もない。地の利を使わず純粋に戦いの技術のみで勝負するにはもってこいの場所だ。
ソルとイオが向かい合い、ニールがその間に立った。他の面々は離れたところで成り行きを見守っている。
ニールは二人の刃の民に尋ねた。
「最初に決めておくことはあるか?」
「死ぬつもりはない。俺たちの命が危険だと判断したらどんな手を使ってでもいい。止めて欲しい」
「分かった。ソルからは何かあるか?」
ソルは無言で首を横に振った。
「じゃあ……二人とも頑張れ。始め!」
合図をし、ニールがさっと後ろに飛びのくと同時に金属音が鳴り響く。ソルとイオ、双方の武器がぶつかり合った。
ニールは巻き込まれないよう急いで二人から距離をとり、離れて見ていた仲間たちの元へ向かった。
「どっちが勝つんだろうね……」
始まったソルとイオの攻防を見ながら、フランシエルが呟くように言った。
「どうだろうな……俺にも分からないよ」
「いざという時に間に挟むのがギーランだけで済むといいんですけどね」
ゼレーナの視線を受け、地面に胡座をかいたギーランが苛立たしげに呻いた。昼寝を邪魔された上に戦闘の当事者にしてもらえない扱いのせいでかなり機嫌を悪くしている。
「クソ、いつまで見てりゃいいんだ」
「まだ始まったばかりですよ」
ため息混じりにルメリオが言う。
ニールたちが話している間も、刃の民の戦いは続いている。勝負はそう簡単にはつかない。それを食い入るように見つめていたエンディが口を開く。
「すごい……あれが刃の民の本気……」
「め、目が回るぞ……」
アロンの言う通り、イオとソルの身のこなしは稲妻のようだ。イオがソルの背後をとったかと思えば、ニールが瞬きを一つする間に二人の位置が入れ替わっている。ソルはニールたちと出会った時から物腰柔らかな態度を崩さなかったが、その戦いぶりは彼も生まれた時から修行に身を捧げてきた刃の民であることを物語っている。
一向に止まる気配のないイオとソルの様子をニールは無言で見守った。視界の端にちらつくギーランの貧乏ゆすりも時折聞こえる舌打ちの音も、全く気にならなくなっていた。




