26話 遠い日の悪夢
貧民街の通りにて、ニールは魔物の集団を相手にしていた。ここに魔物が出ると厄介だ。貧民街には体が不自由な者も多く住んでおり、建物は古くもろいものが連なっているため簡単に魔物に突破されてしまう。
今回同行しているフランシエルとエンディが、少し離れた場所に一部の魔物を引き付けて戦っている。ゼレーナとルメリオは住民の誘導と救護に回っていた。
飛び掛かってきた蛙のような魔物を斬り伏せた。残りはそう多くない。一人でも対処できる数だ。ニールが再び攻めの構えをとった時、魔物たちの視線が別の方向へ逸れた。
その方へ目をやったニールははっとした。男が一人、ふらふらと通りの真ん中に進み出ている。魔物たちの狙いがその男に向けられていた。
「危ないっ!」
ニールは全速力で飛び出し、何とか魔物より早く男のもとへたどり着いた。迫ってくる魔物たちをなぎ倒し、最後の一匹が息絶えた。
ほっと胸を撫でおろしたニールは男の方へ顔を向けた。突然現れたニールと魔物に驚いたようで、その場に尻餅をついて座り込んでいる。中年くらいでがりがりに痩せこけており、虚ろな目をしている。着ている衣服はあちこち破れていた。
「大丈夫か?」
「おぉ……」
呻くように男は答えた。歯が何本か欠けている。ニールを見上げたが、目の焦点が合っていないように感じられた。摂取すると心は満たされるが体が蝕まれてしまう薬があり、それに手をだして何もかも失い貧民街に流れつく者が何人もいるのだと以前にゼレーナから聞かされたことがあった。この男もそうかもしれない。何をしでかすか分からないから迂闊に関わらないように、と彼女から釘をさされていた。
男に手を貸すべきかニールが迷っていると、背後から足音が聞こえた。
「ニール、こっちは終わったよ!」
フランシエルだ。その隣にはエンディもいる。特に怪我は負っていないようだ。
「よし。フラン、エンディ、お疲れ」
それと同時にゼレーナとルメリオも戻ってきた。
「ニール、こちらも問題ありません。怪我人はルメリオが治療しました」
「そっか。ゼレーナ、ルメリオ、ありがとう!」
「ゼレーナ? ゼレーナかぁ?」
ニールの背後にいた男が、ゆらりと立ち上がった。その姿を見たゼレーナが顔を引きつらせる。
男はにんまりと笑みを浮かべ、ニールを押しのけた。
「本当にお前なのかぁ、親父の顔を忘れるはずねえよなぁ?」
ニールは自分の耳を疑った。ゼレーナは母親を小さい頃に亡くし、父親は行方をくらましたと以前に聞かされていた。このぼろぼろの男がゼレーナの父親?
「どうして……」
ゼレーナの口から掠れた声が漏れた。もしこの男が嘘をついているなら彼女はこんな反応をしない。あなたのことは知りませんと切り捨てるだろう。ニールが今まで見たことがないほどゼレーナは動揺していた。
「散々な目にあったんだぜぇ。お前、いい服を着てるなぁ?金があるのかぁ?」
男はへらへらと笑い続けている。舌が上手く回っていないようで言葉が聞き取りにくい。酒でも入れているのか、あるいは本当に危険な薬に体を染めてしまったのかもしれない。
「やめて……」
震える声でゼレーナが言い、一、二歩後ろに後ずさる。驚きと戸惑いで立ち尽くす仲間たちの中で、ルメリオが動いた。男とゼレーナの間に割って入る。右手にしっかり杖を握り、左手を彼女をかばうように軽く広げた。
「失礼。ゼレーナさんのお父上でしたか。お初にお目にかかります。私はルメリオ・ローゼンバルツと申します。ゼレーナさんとは懇意にさせて頂いております」
帽子を取り礼をする姿は丁寧だが、口調は淡々としている。
「お父上とのことですが、ゼレーナさんは非常に怯えているご様子。たまらず間に入らせて頂きました」
「なんだぁゼレーナ、貴族とねんごろになったのかぁ、じゃあ金があるよなぁ、恵んでくれよぉ、お前の母ちゃんなら恵んでくれるぞぉ」
「彼女を侮辱しないで頂きたい」
低い声でルメリオが言った。男の顔から笑みが消え、舌打ちをした。
「うるせえ、自分の娘をどうしようが勝手だろうがぁ! 引っ込んでろぉ!」
男が殴り掛かる。ニールが止めに入ろうとしたがルメリオの方が早かった。左手で男の振り上げられた手首をつかんで止め、杖を投げ捨てた右手の拳が男の顔面に飛んだ。
「がっ……!」
顔を殴られた男が仰向けに倒れる。ルメリオがその体に馬乗りになり、二度、三度と続けて拳を食らわせた。
このままでは男が危ない。ニールはルメリオに飛びついて男から引きはがし、後ろから腕を押さえつけた。
「ルメリオ! やめるんだ!」
「恥を知れ屑が! 貴様に親を名乗る資格などない!」
なおも男に制裁を加えようとルメリオはもがき続ける。まるで別人が乗り移ったかのようだ。いつもの彼の様子からは到底考えられない激昂ぶりにエンディは唖然とし、フランシエルの顔は蒼白になっている。
「ひぃぃ……」
顔を腫らした男は命の危機を察したのか体勢を崩しつつも立ち上がり、何度も転びそうになりながら逃げて行った。
「ニール、離してください! あの男を逃がす訳には」
「落ち着け! 頼むから!」
必死になだめるニールの背後でどさりと音がした。
「ゼレーナ!」
恐怖からかくずおれたゼレーナの元にフランシエルが駆け寄る。
その名前を聞いて、ルメリオの体からも力が抜けた。
「ルメリオ、落ち着いたか?」
「ええ……」
ニールがルメリオを解放すると、彼は呆然と右手を見つめた。白い手袋が赤い血に染められている。
「うっ……あっ……うああぁぁ……!」
ゼレーナの目から、大粒の涙がとめどなく溢れ出す。フランシエルが大丈夫だよとささやきながら、必死でその背を擦る。どうしよう、とエンディが目だけで問うてくる。
「……とりあえず、宿屋に帰ろう」
落ち着ける場所に移動しなければ。ニールは仲間たちを促した。
***
フランシエルがゼレーナを落ち着かせる役割を引き受けてくれ、宿屋の二階へ連れて行った。ルメリオは頭を冷やすと言って外に出たままだ。
別の場所で行動した後に戻ってきたイオ、ギーラン、アロンにも、ニールから軽くではあるが事情は伝えておいた。
「災難だったな」
イオが言った。
「ああ。ゼレーナ、すごく怯えててさ……色々あったんだろうな」
父親の顔を見ただけであれほど取り乱していたのだから、幼い頃に何があったのか想像するに難くない。
「ルメリオがあんなに怒ったところも、初めて見たよ……」
ぽつりとエンディが言った。先ほどの出来事にかなり衝撃を受けているようで、声に力がない。ニールも同じ気持ちだった。ルメリオは小言を漏らすことこそあるが、人に対して声を荒げることは絶対にしなかった。ましてや相手の顔を腫らし、自分の手が血に染まっても殴ることをやめないなんて以ての外だ。まだ幼いアロンがその場にいなかったのは幸運だった。もしあの様子を見てしまっていたら、一生残る心の傷になりかねない。
「ああ、そうだな……」
なかなか消えない重苦しい雰囲気の中、イオが宿屋の出入り口に向かった。
「悪いがその件について俺にできることはない。また外を見回ってくる」
「行くぞ、坊主」
ギーランもそれに応じ、アロンを連れて出て行った。こういう時、感情や空気に流されず己のすべきことをこなしてくれる存在はありがたい。
「エンディ、一人になっても大丈夫か?」
ニールが問うと、エンディは頷いた。
「うん。びっくりしただけで、僕が直接なにかされたわけじゃないから」
「そうか良かった。ちょっとルメリオの様子を見に行ってくるから、後を頼むよ」
「分かった。行ってらっしゃい」
エンディに見送られ、ニールも宿屋を後にした。




