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倫敦怪人録  作者: 武田武蔵
32/43

或事件の終わりに

 改めて、アンソニーは辺りを見回した。偶々出くわせてしまい、シーツを落として硬直するハウスメイド、“犯人”の死体を、膝をつき、ただ見つめている娘の敵。そうして、呆然と佇む主人。

「大丈夫ですか?」

 彼の肩を掴み、己の胸に納まるように引き寄せていた。

「あぁ、アンソニー君……」

 パーシーの髪が揺れる。

「少し、疲れてしまったよ」

「お休みになられますか?」

「いや、少し待って呉れ給え」

 と、彼はアンソニーから離れ、ジークローヴ子爵に歩み寄った。

「今回は、このような結果で終わってしまい、とても残念な事だよ」

「このもどかしさを、誰に伝えれば良いのだ……」

 殆ど潤んだ声で、ジークローヴ子爵は言葉を吐き捨てた。

「愛娘二人を失った挙句に、その犯人は裁かれる事もない。この憤りを、お前には判るのか?」

「僕は12歳で両親と信頼のおけるヴァレットを失った。殺人か、事故かさえも判らない」

 ジークローヴ子爵の肩を抱き、パーシーは言った。

「それは、君とて同じ事だろう?」

 その言葉を聞いた途端、酷く大きな嗚咽が屋敷を支配した。


「この馬鹿野郎! お前は何をしていた! ただ単に椅子に踏ん反り返って外の景色を紅茶と共に眺めていたなど!」

 己を責めるように、ジークローヴ子爵はヒースコート家の玄関の床に拳を押し付ける。

「その上、関係のない者も責めて! なんて愚かな野郎だ!」

「そのような事はないよ、ジークローヴ君」

 パーシーは赤子のように泣き叫ぶ被害者の父の肩を抱いた。

「愚かな者と言うのは、罪を償う事もせずに、死に己を委ねた者の事を言うのだ。決して、自分を責める必要はない」

「だが、私は救われていない……残ったのは、罪の意識と悲しみだけだ」

「人はそれぞれ、悲しみと罪を常に抱えて生きているものさ。それが本当に許されるのは、寿命が尽きた時だよ」

「……私は、少々“君”を侮っていたようだ。パーシヴァル侯」

 ジークローヴ子爵は顔を上げた。

「今度、妻のサロンに招待しよう。その時に、この話をしては呉れないか?」

「君が良いと言うならば、僕は喜んで君の領土に足を踏み入れよう」

「これで、娘達も報われるだろう。私は暫く、喪に服したいと思う」

 そうして、ジークローヴ子爵は自分の懐から取り出したハンカチで涙と鼻水を拭うと、立ち上がった。

「妻には私から話をしておこう。近いうちに、招待状が届くだろう」

「有難う。楽しみにしているよ」

 パーシーの言葉を背に、ジークローヴ子爵は玄関から去って行った。


 間も無く死体処理班がやってきて、二人の遺体を運んで行った。しかし、床までは拭く事をせずに、ひび割れた頭蓋骨の破片や、飛び出した脳は、そのままピーターと、駆り出されたジェイクが片づける羽目になった。

「うへぇ、チャイナじゃあ猿の脳みそを食べると聞いていたけれど、料理人はこんな気持ちなんだろうなぁ……」

 頭蓋骨の欠片を拾い終え、血に塗れた脳の一部をバケツに入れつつ、ジェイクはひとりごちた。

「不吉な事言うなよ、ジェイク」

 そういうピーターの眉間にも、皺が寄っている。

「すみません、任せてしまって」

 それを見ていたアンソニーが言うと、

「パーシー様からの頼まれ事は絶対だからな」

「な!」

 と、二人は親指を立てた。

「それより、大丈夫なのか?」

 モップを水に浸したピーターが言った。

「何がですか?」

「パーシー様が、気持ちを害していないかだ。こう言った時に傍にいるのがお前の役目だろう」

 ヴァレットは少し頭を掻きつつ、

「オズワルドさんから頂いた、少しばかり睡眠剤を入れたハーブティーでお休みになっておられます。仮にも幼馴染のああいった最後に、昔の記憶が呼び戻されないかと心配して」

「成る程ねぇ」

 血に染まったモップの、持ち手に顎を乗せ、ピーターが言った。

「まぁ、これはお前の勝手だと思うけれど、行ってやりな。やっぱり目が覚めたとき誰もいないと、パーシー様じゃあなくとも混乱するものさ」

「判りました。後はお任せしても?」

 すると、二人は声を合わせて、

「勿論さ。俺達を誰だと思ってる? 夕食の時間までには終わらせるさ」

「ははっ、そうですね。宜しくお願いします」

 笑い合い、アンソニーは玄関から背を向けた。


 パーシーの部屋の扉を開けると、未だ彼は起きてはいないようで、静かな風が開けた窓から吹き込んだ。アンソニーはその窓を閉めると、椅子を主人の寝台の目の前迄持って来、腰掛けた。

 パーシーは、クッションに埋もれ、深い眠りの中にある。

「……ふぅ」

 アンソニーは人知れず一つ溜息を吐く。それと共に、あの儘スチュアートが死んでいなければ、己が彼を殺したのだろう。そんな事を、思った。

 己の出身は貧民街だ。人の死等、嫌と言う程巡り会ってきた。親友と言い合った仲間の死さえ経験している。自身の妹でさえ、何もする事が出来ずに、段々と弱まって行く心臓の鼓動を聞きながら、大切にその痩せ細った幼い身体を抱き締めていた。今回は、殆ど接した記憶のない者達の死だ。しかし、これ程迄心が揺さぶられるのは何故だろう。

 やはり、己とパーシーの間に存在する、様々な感情から来るものだろうか。

 あの田舎家、鳥すらも見ていないだろう小さな隠し事が、作用しているのかもしれない。


 今、もしもあの時の返事をしようか。そんな気持ちが心に積もる。しかしそれを振り切って、アンソニーは目を閉じた儘の主人の姿を見ていた。

 若いながらも、領主を勤めるその姿は、やはり崇拝と言う感情をも抱いてしまう。


 それと共に、時折振り翳される罪の意識とは、何を意味しているのだろうか。

 その理由が明らかになった時。己は果たしてパーシーの傍らにいる事を許可されるのだろうか。

 疑問と言う名の砂時計は、ただ砂が滴り落ちて行くだけだ。


「ん——」

 パーシーの双眸が、ゆっくりと開き、やがてその青い瞳は、アンソニーを映し出した。

「アンソニー君か……」

 腕で瞼を拭い、パーシーは確りとした眼差しでヴァレットの姿を見た。

「僕は、随分と眠っていたのかい?」

「お疲れでしたから」

 アンソニーは椅子から立ち上がった。

「あれから、どうなったのだい?」

 パーシーは尋ねる。そう言えば、死体処理班が来る前に、彼は気を使った執事の元に、眠らされていたのだった。

「お二人の死体は警察署に運ばれ、それから家族の元に帰されると聞きました。ご葬儀には、参列致しますか?」

「出来れば、参列したいね——あぁ、水を呉れないかい?」

 あれ程の事があっても、彼の中では、スチュアート・ブラックモア伯爵と言う人物は、大切な者なのだろう。グラスに水を注ぎ、アンソニーはパーシーに手渡した。

「有難う」

 喉仏が上下する。触れてしまえば透明になってしまいそうな、透き通った肌を、愛でてみたいと思ってしまう。


 そのような事は、許されないと言うのに。


 パーシーは時計を見ると、

「もう、夕食の時間だね。食堂には行けるのかい?」

 と、言った。

「恐らくは大丈夫かと」

「恐らく……?」

 パーシーは暫く黙した後に、はっと顔を上げた。

「そうか……そうだったね」

 食堂へは、玄関を通る必要がある。朝の悲劇は、消し去られているのだろうか。

「大丈夫ですか? 今日は、お部屋でお召し上がりになられますか?」

 アンソニーは問いかける。

 するとパーシーは小さな声で答えた。

「今日は、この部屋から出たくはない。物凄い恐怖が襲ってくるのだ。アンソニー君、出来れば、傍にいて欲しい。僕が食事をして、眠り、目覚める迄」

「……判りました」

 一年程ヴァレットを勤めているが、主人のこのような姿は余り見た事がない。

「君も、共に食事をしよう。偶には二人で食べるのも良いものだろう?」

 パーシーはアンソニーの腕を掴んだ。

「はい」

 アンソニーは答えてから、

「では、お食事を持って来ましょう。少々お一人になられますが、大丈夫ですか?」

「あぁ。大丈夫だよ。この部屋は僕にとって、崩れる事のない要塞だからね」

「では、持ってまいります」

 アンソニーはそう言って、部屋を後にした。

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