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倫敦怪人録  作者: 武田武蔵
29/43

水車小屋にて

 翌朝、鳥の囀りに目が覚める。時刻は7時を指し、使用人用の食堂で朝食を取るには、まだ早い時間だった。今頃きっと、厨房にて作られている途中だろう。

「ん……」

 寝台に座り、身体を伸ばす。

 もう少し眠っていたいが、身体が許さないようだ。すっかり目が覚めている。思い切って起き上がり、仕着せに着替えた。

 昨夜は、パーシーからの呼び出しのベルが鳴る事はなかった。カモミールティーが効いたのだろうか。

 扉が叩かれたのは、髪をセットしようと、整髪剤を手に取った時だった。

「アンソニー君、いるかい?」

 声の主は、何処か弾んだ声色で、アンソニーの名を呼んだ。

「パーシー様?」

 驚いて扉を開けると、そこには寝間着姿のパーシーが立っていた。

「どうなさったのですか」

「いやぁ、いつもよりも早く起きてしまってね。暇を持て余しているのだよ」

 この陽気な主人は前髪を下したまま、朗らかに笑った。

「取り敢えず、着替えて御髪を整えましょう。まだ朝食にも早い」

「偶には、君と領地を散歩してみたいね」

「取り敢えず、せめてお着替えを」

 重ねるようにアンソニーは言った。

「判ったよ。それならば髪もセットして呉れ給え」

「判りました」

 ヴァレットはそう答えて、主人と共に己の部屋から出た。

 ふと見れば、パーシーの履いた靴の紐が解けている。

「パーシー様。少し立ち止まってください」

 跪いて、アンソニーは言った。そうして己の膝を目で指し示し、

「靴紐が解けております。お足をこちらに」

「あぁ、すまないね」

 パーシーはアンソニーの膝に靴紐の解けた足を乗せた。微かな体重がかかる。一瞬高鳴った鼓動を抑え、アンソニーは主人の靴紐を結び直した。

「終わりました」

「有難う。アンソニー君」

 パーシーが足を退ける。

「いえいえ」

 思わず、はにかんでいた。

「行きましょうか」

 立ち上がり、アンソニーは言葉を継いだ。

「そうだね」

 パーシーが頷く。そうして、歩き出した。


 パーシーの自室に着いた時、開けられた窓から秋の風が吹きこんできた。カーテンが風に大きく揺れる。どうやら、換気の為にパーシーが己から開けたようだった。

「少しばかり暑かったからね。自分から開けてしまったよ」

 軽い口調でパーシーは肩を竦めてみせる。

「大丈夫ですよ。秋の風は心地が良いのです」

「アンソニー君。君は秋が好きなのかい?」

 寝間着の釦を外しながら、パーシーが首を傾げた。

 どうだろうか。アンソニーは思考していた。父が、秋が好きだった。そんな記憶しか、彼にはなかったのだ。

「……どうでしょうね」

 曖昧な返事に、パーシーは苦笑交じりに、

「君は秘密主義だね」

 と、口角を引き上げた。

「それはあなたもでしょう」

 シャツの釦を止め、履かせたズボンとサスペンダーとを結び、アンソニーは言う。後は首元のリボンタイだけだ。

「失礼します」

 襟元にタイを回し、蝶々結びをする。なるべく首を圧迫しないように。そこは気を使う所だろう。


 もし、その儘首を絞めてしまったら、己はどうなるのだろう。

 死刑になれば、この罪も赦されるのだろうか。


「考え事かい? アンソニー君」

「え、あ、はい」

 不審に思ったパーシーに、声をかけられる。彼は椅子に座り、アンソニーを待っていた。最近はどうかしている。


 それは、己でも判っている事だ。

「まぁ、事件に動揺している事は、僕にも判るよ。やはり、僕が容疑者になっている事もしかりだろう?」

「参ったな……」

 整髪剤を手に取り、アンソニーは言った。

「あなたに解けない謎はありませんね」

 するとパーシーは自慢げに、

「謎には必ず答えがある。それを証明してみせただけだよ。それにしてもアンソニー君、君がそこまで僕を想っていて呉れているなど、嬉しい限りだね」

「あなたを敬愛しているか……」

 思わず口から零れた言葉にアンソニーは口ごもった。

 これは、誰にも悟られてはならない事だ。しかしパーシーはさして気にしていない様子で、

「有難う。こんな主人でも、ついてきてくれる者がいるなどとね」

 と、笑った。


 やがて、髪のセットを終えて、寝ぐせの隠せないだらしのない青年貴族から、立派な英国紳士に姿を変えたパーシーは椅子から立ち上がり、差し出されたステッキを手に取った。

「さて。君と仲の良いメイドのキャサリンの家族が守る庭を案内しようか。君は余り見た事がないだろう?」

「そうですね。しかし、パーシー様」

 扉を開けながら、アンソニーは言った。

「何だい?」

「朝食迄にはお戻りにならないと」

「判っているよ。大丈夫さ、紹介したいのは庭の一辺だけだよ」

 そう言いつつ、二人で廊下に敷かれた絨毯の上を歩く。

「君の髪も、後でセットをしないとね」

「パーシー様が朝食を取られる前にセットするので、大丈夫ですよ」

「それは有難い」

 こうして笑い合っている瞬間が、永遠に続けば良い。そんな事を思ってしまう。

「そう言えば、パーシー様」

「何だい?」

 ヴァレットからの問いかけに、主人はあくび混じりに振り向いた。

「何故、私とキャサリンが仲が良いと?」

 するとパーシーはステッキで床を幾度か叩いた。

「君の他にも僕に情報提供をしてくれる間者がいるという事さ」

 そう言って、笑った。


 やがて、庭に続くバルコニーへと至る。アンソニーが窓を開けると、カーテンが風に揺れた。それに、まだ整えていない前髪が波打つ。パーシーはそれを見ると、

「前髪を下ろしている君も、中々の色男だね。アンソニー君」

 と、白い歯を見せた。

「偶には、見てみたいな」

「パーシー様が何のご予定のない休日などにお見せ致しましょう」

 バルコニーへと先に降り立ったアンソニーは言った。その儘、窓の近くに立つと、パーシーへと手を差し伸べた。何の疑いもなく、彼はその手を取る。

 これが、一年間培ってきたものの芽生えだろうか。

「ここからは僕が案内をするよ」

 そう言って、パーシーは先頭に立って歩き始める。追いつくように歩幅を合わせると、彼の纏う香水の香りを微かに感じる事が出来た。

 間もなく、薔薇の園が見えてくる。秋薔薇が、蕾を綻ばせ始めていた。その奥に、田舎家を模した建物がある。水車が回り、小川のせせらぎが聞こえた。

「ここは?」

 アンソニーが首を傾げると、

「ヒースコート家当主代々の避難場所だよ」

 パーシーはそう言って微笑した。

「避難場所?」

 オウム返しに尋ねてみる。

「そうだよ、アンソニー君。何かに行き詰った時。現実から逃げたい時。当主が逃げ込んでリラックスする場所さ」

 懐から鍵を取り出し、パーシーは唇を吊り上げた。

「ここは、本当は使用人は入ってはいけない場所なのだけれどね。君は僕が認めた人物だからね」

 扉を開けて、中に足を踏み入れる。少し、埃の臭いがした。


 家の中は椅子とテーブルが一つづつ置かれ、日の光に背表紙が焼けた古い書物が置いてあった。これは、ピーターも知らない場所なのだろう。

「掃除は不要だよ」

 早速椅子に腰かけ、パーシーが言った。

「察しが良いですね」

「まぁね」

 そう言う彼も、テーブルに積もった埃を払う。

「僕が当主になってからは余り足の踏み入れない場所だからね。父は良く行っていたようで、僕が初めてこの家を訪れた時は、全く埃臭くなかったのだよ——あぁ、テーブルに寄りかかって良いよ」

「成る程」

 パーシーの言葉に従って、テーブルに腰を預けた。

「どうして、私をここへ?」

 水車が回る。水を掬い、その下の小川へと水を落とす。


 鎮まる事のない空間の中で、果たして己の主人は何を告白するのだろう。


「君の前のヴァレットは、オズワルドが幼い僕にあてがった者だった。しかし、君は違う」

 パーシーは頬杖をつく。

 まるで、これから己が戯言でも言うかのように。

「君は僕のヴァレットだ。僕が選び、望んだモノだ。判っているだろう?」

 これは試されているのだろうか。己の、心理を。

「……パーシー様、お戯……」

 アンソニーは、それ以上唇を動かす事が出来なかった。


「行こうか。またヒルダに怒られてしまう」

 先程の事が偽りだったかのように、パーシーは顔を離すと、爽やかな笑みを浮かべ、アンソニーを見た。

「あ……はい!」

 アンソニーが慌てて水車小屋の扉を開ける。未だに心が大きく揺さぶられている。

 先程の刹那の時は何だったのだろう。己の身勝手なエゴイズムが、主人を変えてしまったのだろうか。

 それとも、本当にパーシーは己を求めているのだろうか。


 どちらにしろ、これは赦されない事だ。


「パーシー様」

 これは、注意をしなければならないだろう。己に出来る、一番残酷なやり方だと言う事は知っている。しかし、これ以上の関係を、望んではならない。

 今迄望んだものは、皆何処かへ行ってしまった。

「もう、これ以上踏み込まれた場合、私はこの仕事から別の仕事先に行くでしょう。あなたを、罪人にしたくはない」

「罪人、ね」

 何処か他人事のようにパーシーは口ずさむ。

「僕には判らない。男と女を隔てる崖が。何故ソドムの罪は存在するのか」

 そうして、空を仰ぐと、

「澄んだ空だね。世の中も、こんなに澄んでいれば良いのに」

 と、言った。

「朝食を取ろうか。その後に、ヤードが来るだろう」

「判りました」

 まだ、あの余韻に浸っていたい。しかしそれは、今ではない。


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