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倫敦怪人録  作者: 武田武蔵
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マイケル・ジークローヴ子爵の怒り

 自室の前に来ると、パーシーは一つ溜息を吐いた。

「……全く。本当に僕は信用がないのだね」

「いっその事、影の警視総監の話をしてみては如何ですか?」

 扉を開きつつ、アンソニーが言った。すると、パーシーは閉まった扉に、アンソニーの肩を縫い付けるかのように押し付けた。そうして、顔を近付け、人差し指を中央に唇を尖らせると、

「それ以上、この事は他言だよ」

 と、その瞳に光が差した。

「す、すみません」

 アンソニーは口ごもる。

「僕は忠告しただけだよ。もし君が、僕に強い恨みを抱いた時。この言葉は大いに役立つだろう」

「……そ、」


 ……そのような事は、ありません。


 そう言いかけた時には、既にパーシーは自室の揺り椅子に腰掛けていた。

「クロイドン君がいるから、紅茶も満足に味わえない。喉が乾く前で本当に良かったよ」

 そんな文句を歌いながら、揺り椅子を揺らす。目前の机には、あたかも主人の帰りを待っていたかのように、ティーセットが置かれていた。それに添えられているのは、キュウリサンドだ。


 この屋敷の使用人は、皆パーシーの行動を理解しているのだろう。


 突然扉が大きく叩かれたのは、アンソニーがティーカップに紅茶を注ぎ始めた所だった。キュウリサンドを口に入れようとしたパーシーはそれを皿に戻し、苦い笑みを浮かべた。

「お出でなすったよ。アンソニー君」


「この扉を開けろ! 卑怯者!」

 屋敷中に響くような大声が聞こえる。それと共に聞こえてくるのは、声の主を制するジェイクの声だ。

「落ち着いて下さい! ジークローヴ子爵様!」

「娘を殺されて黙っていられるか!」

 どうやら、アンジェリカの死を知らされた父親――マイケル・ジークローヴ子爵のようだ。扉越しの会話を聞く限り、スコットランドヤードから娘の死を聞いて、憤怒の儘にヒースコート邸を訪ねたらしい。

「開けろと言っているのだ! ヤードはお前は自室にいると言っていたからな! 隠れていないで出てこい!」

「……面倒だね」

 パーシーは肩を竦めた。そう言いながらも、己から立ち上がり、扉の前に立った。

「扉を開けま……」

 アンソニーが言いかけた時には、既に扉はパーシーによって開かれていた。


 肌が叩かれる音を聞いたのは、その直後だった。


 マイケル・ジークローヴ子爵が、パーシーの頬桁を張り飛ばしていたのだ。

「人殺し!」

 口髭を蓄えた、白髪交じりの子爵は怒りで顔を赤く染め、頬を押さえるパーシーに向かって言った。

「アンジェリカは結婚も決まっていたのだ! やっと、安定した結婚生活を送れるような。それを、狩りの獲物と間違えられるなんて!」

 ジークローヴ子爵の顔は、涙と鼻水で溢れている。それでも、パーシーの襟首を掴んで揺さぶった。

「お待ち下さい」

 心の高鳴りを治め、アンソニーは己の主人と、招かねざる客との間に入った。

 今迄、余りこのようないざこざに巻き込まれた事はなかった。それでも、己を奮い立たせて、主人を守る為に一周り程歳の離れた子爵と向かい合っていた。


「お前は誰だ。拷問の時間は終わっていないぞ。邪魔をするな!」

「私は私の主人を守る役目があります」

 背後で粗く肩を上下させるパーシーを一度見遣ると、アンソニーは振り返って再びジークローヴ子爵を見た。

「怒りが治まらないのは判ります。しかし、パーシー様はアンジェリカ様を殺めておりません。これは、事実です」


「それならば……」

 ジークローヴ子爵の、青い瞳が揺らいだ。

「それならば、誰を責めろと言うのだ……」

 そうして、その儘絨毯の上にしゃがみこんでしまった。背中が悲しみに震えている。やはり、家族を殺されて一番悲しみを覚えるのは家族なのだ。

 アンソニーはジェイクを見る。彼は少し困ったかのように、眉を下げていた。

「確かに、今回の事件は僕の領地内で起きたことだ。もう、誰も失わないようにしよう」

 パーシーが立ち上がり、言った。


 もう一つの悲劇迄、少々時間を要すると言うのに。


 その日の夜は、二人で仕留めた鹿が食卓に並んだ。

 昼間こそ混乱していたスチュアートだったが、妻の慰めもあってか、鹿のもも肉を煮込んだ料理に舌鼓を打っていた。

「今日は災難だったな、パーシー」

 ワインの酔いも手伝って、彼は過ぎた事のように事件を語る。

「まぁ、ヤードも帰ったからね。後は自由な時間だよ」

 鹿の肉をナイフで切りつつ、パーシーは答えた。


 その後、ジークローヴ子爵は駆けつけた家族によって己の領土に戻り、今は静かに時が流れている。クロイドン巡査部長も、パーシーの言うように、取り敢えずは刑事達を連れて警察署に戻り、屋敷も束の間の休息のように、何処か冷たい空気が支配していた。


「煙草はどうだい? スチュアート」

 食後のデザートを食べ終えたパーシーはブラックモア伯爵夫妻に提案する。

「良いね。いつも葉巻煙草だから、気分を変えられる。君はどうする? イライザ」

「そうね、あなた」

 注がれた珈琲を呷り、イライザは答えた。そうしてアンソニーに目を遣ると、

「あなた、煙草を出して下さる?」

「はい」

 パーシーへと視線を送ると、目が出してやれと言っていた。アンソニーはそれに従い、いつもパーシーが嗜んでいる煙草を、懐に入れたシガレットケースから取り出し、イライザへと差し出した。

「イライザは君が気に入ったようだよ」

 同じように煙草を受け取りながら、スチュアートは笑う。

「僕のヴァレットは優秀だろう?」

 火を点けた煙草を片手に、パーシーは目を細めた。

「パーシー様にはシノワズリのご趣味があって?」

 と、イライザ夫人が首を傾げてみせた。

「いや、彼については全くの僕の一目惚れでね。この広い屋敷にあるエキゾチックなものは、彼くらいさ」

「まぁ!」

  少女のように、彼女は手元で口を覆った。

「イライザがこんなに楽し気にしているのは久々に見た気がするよ」

 夫は苦笑する。

「嫉妬かい? スチュアート。君らしくもない」

 煙を吹き出して、パーシーは言った。

「そんな事はないよ、パーシー」

 スチュアートが手を振った。

「僕はただ、彼女が楽しくしている所を見ているだけで十分なのだよ」


 あぁ、この男は本当に妻を愛しているのだろう。横から二人の会話を聞きながら、アンソニーは思った。


 己は、パーシーに愛されたいと思った事等ない。どちらにしろ、片想いの儘に終わった恋の方が良いのだ。

 愛。そんな自分勝手な想いで、大切な主を、刑台に送りたくはない。


 やがて晩餐も終わり、眠る時間が近づいてくる。ブラックモア夫妻は滞在している客間へと戻り、パーシーもまた、自室にアンソニーと共に向かった。

「今日は災難でしたね」

 パーシーに寝巻を着せながら、アンソニーは呟いた。

「まぁね……」

 何か考え込むような、何処か上の空の儘、パーシーは頷いた。

「……何か?」

 己に出来る事はないだろうか。そんな事を思い、アンソニーは首を傾げた。

「いやね、嫌な予感がするのだよ」

「嫌な予感、」

 最後の釦を止め終え、アンソニーは主と向き合う。

「こう、ざわめきがね。君は感じないかい?」

「そうですね……」

 頭の良いヴァレットは考え込んだ。確かに、主人の言う通り、心は落ち着かない儘だ。事件が、終わったとは言い難い。

 しかし、今はもう眠りに落ちる時間が迫っている。


「……ハーブティーをお持ちいたしましょう。お心も、少々落ち着かれるかと」

 そう提案して、アンソニーは部屋を後にした。

 廊下は、既に冬の気配が近づき、冷たい風が通り過ぎる。

 アンソニーは、ふと思い立って外の気配を覗った。

 屋敷の裏から、一つの人影が、繁みの方へと駆けて行くのが見えた。風に揺れるのは、肩程の髪だろうか。


「……何だ?」


 思わず、彼はひとりごちていた。

 その刹那、凄まじい悪寒が、アンソニーの背中を駆け抜けた。それから逃げるように、彼は歩を進めた。


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