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倫敦怪人録  作者: 武田武蔵
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事件の行方

 既に食事を終えていた、自分附きのフットマンに指示を出すオズワルドの背中に踵を返し、パーシーの眠る寝室に向かう。既に料理の準備は出来ている。食事の最中、モーリスはそう言っていた。

 段々と歩幅が大きくなっていく。それと共に高鳴る鼓動には、もう慣れてしまった。


 幾度がノックをして、主人の扉を開く。鍵は、屋敷中の鍵を全て支配する、ハウスキーパーのヒルダが開けている。

 天蓋付きの寝台の元、静かに寝息を立ているパーシーの姿があった。

「パーシー様、」

 アンソニーはその肩を揺さぶった。

「朝ですよ」

「ん……」

 瞼が上がり、大きな瞳が顔を出した。

「やぁ、おはよう。アンソニー君」

 布団から起き上がり、パーシーは笑った。

「昨日は迷惑をかけたね」

「お気になさらないでください。それも、私があなたに附いている義務ですから。それよりも、あの後は良く眠られましたか?」

「それなりに眠れたよ」

 と、パーシーは寝台の縁に腰かけた。

「良かったです」

 そう言いながら、パーシーの着ている寝巻の釦を外し、アンソニーは答えた。傷ひとつない、滑らかなその肌は、何処か生々しい。毎日眺めているが、飽きる事はない。段々と吸い込まれてゆく自分が、アンソニーは恐ろしく思えた。

「食堂に、行きましょうか?」

 着替えを終わらせ、アンソニーは提案する。

「そうだね。今日のモーニングは何だろう」

 弾んだ声でパーシーは言った。


 食卓には既に幾つかの料理が出されていた。その中にあるゆで卵にパーシーの目は行ったようだった。

「美味しそうだね」

 置かれたスプーンで器用に殻の頂点を叩き、割ってゆく。食べなれている所為か、戸惑いなど微塵も感じえなかった。

 やがて、パンが運ばれてくる。程よく溶けたバターの入ったポットが共にサーブされる。パーシーは頬笑んで、バターナイフでバターを掬い、パンに塗った。

「ここの屋敷はパンもバターも美味しい。しかし、一度だけ物凄く美味しいバターが出された事があってね。あれはもう食卓には出ないのかな?」


 昨日の夜に聞いた話だろうか。アンソニーは思考する。

「パーシー様は、そのバターを美味しく感じられたのですか?」

 ヴァレットは言った。すると主人は、

「もう一度食べたいね」

 と、言った。これは、ジェイクにとって素晴らしいニュースになる事だろう。

 後で知らせに行こう。ついでに、ヒルダにも話しておこう。アンソニーはパーシーのうっとりとした顔色を見て、そう思った。


 もしかしたら、許可が下りるかもしれない。


「何だか嬉しそうだね、アンソニー君」

 ゆで卵を食べ終えたパーシーは首を傾げた。

「い、いえ。何も」

 朝の会話を思い出したなど、ヴァレットとして中々言いづらい。スープをサーブしつつ、アンソニーは思った。主人の前にスープ皿を置き、蓋を開ける。コンソメスープの匂いに、微かに蟹のほぐし身が乗っている。

「美味しそうだ」

 パーシーは笑顔で、

「たまにはモーリスも出てくれば良いのに。彼の料理の腕を褒めてみたいよ」

 そう言えば、最近モーリスは食堂に現れない。何かあるのかと思ったが、今朝の彼の態度からして、具合が悪いと言う訳ではなさそうだったが……。


 今度、直接聞いてみようか。と、アンソニーは思った。


 やがて、パーシーは朝食は食べ終えると、椅子から立ち上がった。

「僕の部屋に行こうか。ジェイクがきっと今日の新聞と紅茶を机に置いて呉れている筈だよ。紅茶が冷めないうちに戻らないと」

 この言葉を聞くと、毎朝の始まりのように感じる。

「わかりました」

 アンソニーは一度頭を下げ、食堂の扉を開けた。


 パーシーの自室へと向かう途中の窓から、彼の持つ広大な領地が眺める事が出来た。外に出れば、川のせせらぎが聞こえるかもしれない。そんな事を思った。

 今時分は穏やかなシーズンだ。そう言えば、貴族のパーシーにとっては、狩猟の季節にもなる。真夏に過ごしたロンドンの暑苦しさとは違い、この田舎は穏やかな気候だった。

「どなたかと狩猟などはなされないのですか?」

 アンソニーは興味本位で聞いてみる。するとパーシーは少し悩んでから、

「まだ、誰の誘いも受けていないね。今年は何かと忙しかった。まぁ、もう暫くしたら、誰かを誘おうと思っているけどね」

 と、答えた。そうして、

「しかし、今は事件の事に興味があるね。アンソニー君、君はどう思う?」

 パーシーがそう尋ねた時、丁度彼の自室に辿り着いていた。

「あぁ、落ち着いたらで良いよ。ほらご覧。やはりヒースコート邸の使用人は腕がいいね」

 テーブルに置かれた、ティーセットと新聞を見遣り、パーシーは笑った。それは何処か誇らしげだ。


 パーシーが揺り椅子に座ると共に、アンソニーは紅茶をティーカップへと注いだ。主人が部屋に戻る時間を想定して淹れられた紅茶は、匂いからして渋みも無いようで、また、色が薄い訳でも無い。

 つまるところ、丁度良いのだ。


 この当たりに関しては、ジェイク・バーロウは良い仕事をする。別に、他を疎かにしていると言う訳ではない。ただ、一番気が利いていると感じるのが、こうして毎朝紅茶をティーカップに注ぐ一時なのだった。


「さて、事件の事だけれど……」

 紅茶を一口飲むと、パーシーは言った。

「元アネット警部のフットマンとしては、これからどうなると思う?」

 些か難しい問いかけに、アンソニーは思わず首を傾げていた。そうして、

「どうなる、とは」

 そう、オウム返しに聞き返していた。

「判らないかい? アンソニー君」

 質問者は悪魔の笑みを浮かべ、頬杖をついた。

「あなたは、時折意地が悪い」

 アンソニーが言うと、

「お互い様だろう、アンソニー君」

 そう言って、パーシーの手はアンソニーの頬に触れた。少し冷ややかな、しかしその奥には温もりを感じる。

 そうして、視線が絡み合う。


 これは、何をした罰だろう。高鳴る心臓の鼓動を抑え、神に弄ばれた憐れなヴァレットは唾液を飲み込んだ。


「兎も角、君はこのまま事件は終わりを告げると思うかい?」

「"勘"ですか?」

 パーシーの蒼い瞳の中に己を映し込みながら、アンソニーは言った。

「そうだよ。君は実に良い勘の持ち主だ。参考までにね。聞いておきたいのだ」

 そうですか。そう答える前に、彼は視線を主人から反らしていた。

「ケースリー君の話によれば、これでホワイトチャペルで夜鷹を仕切っていた娼婦達は皆殺されたそうだ。犯人は、まだ罪を重ねるだろうか?」

「そうですね……」

 アンソニーは目を閉じて思考する。今回の事件は、犯人の意図が殆どあやふやで見えないのだ。

 いや——と、彼は思った。今パーシーが言った通り、ホワイトチャペルのあの近辺を仕切っていた娼婦は皆殺された。

 例えば、本当にあったのかどうかも判らない、私刑が決行されたとする。ならば、もう“切り裂きジャック”はあらわれる事はないだろう。


 しかし、この胸騒ぎはなんだろう。


「君も、そう思ったようだね」

 パーシーは広角を吊り上げた。

「やはり、パーシー様も?」

 ヴァレットは主人に尋ねる。

「取り敢えず、考えている事は同じだろう? 事件は、まだ終わってはいない。怪人録の頁が増える事はない」

「……はい」

 アンソニーは、頷いた。


 それが、現実に至るまで、少しの時間を要する事になる。


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