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第1話


 私は二日間も意識を失っていたらしい。少し眠っただけかと思っていたから、医者から説明されたときは驚いた。

 エマとアンナは、私が目を覚さない可能性を伝えられていたそうで、しばらく私のベッドのそばを離れなかった。シャルロッテは居心地が悪かったのか、医者が退室するときに彼と一緒に出ていった。



 あの不思議な夢から覚めてから見えるようになった黒い靄のことは、医者には伝えないことにした。きっとあれは、あの不思議な夢を見た私にしか理解できない代物だ。

 娘を愛しなさい――あの声はそう言っていた。あの声には神性が宿っていたことを、信心深い人間ではなかったはずの私は確信している。神に類する何かを私は確かに感じたのだ。

 シャルロッテのことを娘と思ったことはない。しかし、彼女を娘として愛さなければ私は死ぬのだと、直感的に理解させられたのだった。以前、メイドたちが私の病のことをシャルロッテの呪いだと言っていたけれど、あながち間違っていなかったらしい。

 これは呪いだ。声の主が女神だろうがなんだろうが、これは私を殺す呪いに違いなかった。シャルロッテを愛することなどできないのに、強制的に彼女に愛を与える存在に私は成り果てたのだ。

 黒い靄の正体は察しがついている。あれは、シャルロッテが私に向ける負の感情だ。私はあれを消すためにシャルロッテに優しく振る舞わなければならないらしい。それが私にとってどれだけ苦痛だとしても。






 ドアがノックされる。



「シャルロッテが参りました」



「入りなさい」



 ドアが開き、メイド服姿のシャルロッテが黒い靄を漂わせながら部屋に入ってくる。

 彼女の纏う靄は、私が夢から覚めた直後よりも多少は薄くなっているが、まだまだ真っ黒で禍々しかった。



「そこに座りなさい」



「はい」



 着席を促すと、シャルロッテはベッドの横に置かれた椅子に腰を下ろした。地面に届かない足が、ぷらぷらと揺れる。

 呼び出したのは私だが、いったい何を話したらいいのか。

 嫌な沈黙が流れた。



「――シャルロッテ」



「は、はい」



「元気かしら?」



「えっと……」



 私は何を聞いているんだろう。この屋敷でシャルロッテが元気に過ごせる要素などひとつもないだろうに。



「何か困っていることがあるなら言いなさい」



 シャルロッテの眉が、たった今困っているのだと言いたげに下がっていく。



「わ、私はこの家に置いてもらえるだけで、ありがたいです」



 卑屈な子。

 ここに来たばかりのときから自己主張をしない子だと思っていたけど、そのときの彼女は卑屈とはまた違った印象だった。おとなしい中にも独特の雰囲気を纏っていたように思う。この半年間でその性質が少しずつ陰っていったのだ。

 私が呪いに殺されないためには、まずはシャルロッテに自信をつけさせる必要があるのかもしれない。

 私は彼女のメイド服に目をやった。



「シャルロッテ。今日からその服は脱いでもらうわ」



 シャルロッテがポカンと口を開けた。

 使用人扱いをやめ、娘たちと同じように接する。『娘を愛しなさい』という言葉に従うなら、まずはそこからだ。

 食事もこれからは四人一緒がいいだろう。アンナは不満を抱くだろうが仕方がない。



「あの、今ここで、ですか?」



 シャルロッテがメイド服に手をかけ、不安そうに瞳を揺らしている。彼女から出てくる靄の量が増えたのがわかった。

 急ぎすぎただろうか? もしくはメイドをやめるのが嫌なのかもしれない。

 環境の変化は心が疲弊する。ずっとメイドとして扱われてきたのに、突然その立場を奪われるのは心理的に抵抗があるのかもしれない。

 彼女の待遇は、少しずつ改善していった方がいいみたい。



「あなたがどうしてもというのなら、メイドを続けてもいいわ」



「メイドを続ける――あっ」



 シャルロッテは何かに気づいたように声を上げると、顔を俯かせた。

 噴き出ていた靄の勢いが弱まった。やはり彼女はメイドを続けたいらしい。しかし、屋敷の中をメイド服でうろつかれるのは私が困る。今さらではあるが、外聞が悪い。私は表面上良き母を演じなければならないのだ。見た目だけでも娘たちと同じように扱いたい。



「だけど、服は普通のものを着なさい。――そうね、エマのお下がりがあるはずだから、後で何着かもらうといいわ」



 シャルロッテが戸惑いを見せる。



「お下がりは嫌?」



「嫌じゃないです!」



「そう。私の体調が良くなったら、一緒に新しい服を選びましょう」



「は、はい」



 とりあえずはこんなところかしら。

 できればメイドの仕事もやめさせたいけど、彼女自身が望むのなら無理は言えない。何がきっかけで呪いが強くなるかはわからないのだ。

 ただ、シャルロッテは根本的にメイドには向いていない。初日にパンを落としたのは緊張のせいだけではなかった。この半年間で彼女の仕事っぷりはほとんど改善が見られなかった。彼女が驚くほどに鈍臭いことは屋敷のすべての人間が知るところである。水をこぼされたのも記憶に新しい。

 嫌がらせのためだけにメイドをやらせてきたが、そうでなければメイドなど任せたいとは思えないのが本音だった。



「――あなた、文学が得意だったわね」



 家庭教師(ガヴァネス)のマヤが言っていた。

 この家では『ポール・マイトナー』の小説で文学を勉強させている。それはポールの方針だった。普段家にほとんど居らず、娘たちとの関係が希薄であったポールは、表紙に自分の名が書かれた小説を使って彼女たちからの信頼を得ようとした。

 浅はかな考えではあったが、彼は作家『ポール・マイトナー』という肩書のおかげで父親の面目を保っていたようなものだったから、実際効果的ではあった。



「本は、好きです」



 シャルロッテは答える。



「『ポール・マイトナー』はもちろん知ってるわね?」



「――作家としての、ということですか?」



 私は頷いた。

 父親のポールではなく、作家の『ポール』の話をしているのだと、文脈から推論するだけの頭の良さがある。マヤから聞いていた通り、聡い子だ。運動能力は致命的かもしれないが、頭を使うことは比較的得意であるようだ。



「あなたに秘密を教えるわ。これは娘二人にも話していないことよ」



 シャルロッテは大きな目をさらに大きくしてたじろいだ。いったい、これからどんな恐ろしいことが明かされるのかと、身構えているらしい。



「実はあれ、私なの」



「えっと……?」



「『ポール・マイトナー』の正体は私なのよ」



「え? えええっ!?」



 シャルロッテが大きな声を出した。彼女がこれほど感情を露にしたことがこれまでにあっただろうか。



「エリーザベト様が『ポール・マイトナー』……。ほ、本当なのですか?」



「ええ。というか、ポールが――あなたの父親が小説なんて書けると思う?」



 シャルロッテは、わからないというように首を傾げた。そして彼女は「でも」と続ける。



「――『おかしなペトラ』をパパが書いたの、不思議だなって、ずっと思ってた」



 『おかしなペトラ』。私のデビュー作である。ちょっと変わった女の子であるペトラが、この世界とは違う世界を旅する冒険小説だ。初めて書いた小説だったから拙い部分も多く、教材としては使っていないはずだ。



「読んだことがあるの?」



 シャルロッテが頷く。



「大好きな本、です」



 シャルロッテの言葉にドキリとする。ポールの名に隠れてきたから、面と向かって真っすぐな好きを伝えられたのは初めてだった。



「そ、そう――まあ、私が書いたから当然なのだけど」



 私はシャルロッテから目を逸らした。



「すごいです」



 シャルロッテは追い打ちのごとく、私を称賛した。

 よくもまあ、これまで徹底的に嫌がらせをしてきた相手を褒めることができるものだ。それとも、私の感情を揺さぶるのに効果的な方法だと思ってやっているのだろうか。だとすれば、それはたしかに成功している。



「か、感想はべつにいいのよ。私があなたにこの秘密を打ち明けたのは、あなたにやってもらいたいことがあるからなんだから」



「私に、ですか?」



 シャルロッテが不思議そうに首を傾げた。



「あなたにしか頼めないの」



 他の誰でもなくシャルロッテを必要としているのだと、漂ってくる感情の靄を意識しつつ、告げた。

 シャルロッテは神妙に頷く。



「あなたを……作家『ポール・マイトナー』の助手に任命するわ」



「え? えええっ!?」



 シャルロッテは、本日二度目の驚きの声を上げた。


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