第4話
シャルロッテを不当に扱うことに昏い喜びを覚えるのはなぜか。考えてみると、その感情の根源は簡単に説明できるものではなかった。
社交場で見かけるような、他人を貶めることに余念がない令嬢たちと私が同類であったならば納得もできたであろうが、昔から私は他人を悪く言う言葉というものが苦手であった。
べつにいい子ぶろうというつもりはない。嫌いな人間は昔からたくさんいて、心の中では私も彼らのことを嘲り罵ることに引け目などなかった。善人か悪人か、二元論で私を篩い分けるなら、私はきっと悪人側だ。
私はただ、私の善性とは無関係のところで、悪口への耐性が備わっていないだけなのだ。たとえば、とある令嬢への陰口を言う場に居合わせたとする。すると私は、その令嬢へと向けられるねっとりとした感情たちが、私の体に纏わりつき、身動きが取れなくなるような錯覚を覚える。その感覚は話題が変われば薄れはするが、決してなくなることはない。後日、陰口の標的とされていた令嬢に会う機会でもあれば、粘り気を帯びた気配は再び顔を出し、それに当てられて気分が悪くなるのだった。そしてそれは他人の口から出てくる言葉だけでなく、自分が発する言葉にも同様に適用された。自分で言って自分で気分が悪くなるのである。
そういった理由から、私は進んで他人を貶めるような人間ではなかったはずだ。――シャルロッテに出会うまでは。
シャルロッテは私にとって、そういう意味で特別と言えた。
私が彼女を気に入らないのは、夫と愛人の隠し子だからだろうか――と考えてみても、私はポールのことなど愛していなかったのだから、腑に落ちなかった。
実は私は、ポールのことを愛していたのだろうか? いや、そんなはずはない。憎しみこそあれど、愛情など生まれる余地などなかったのだから。
もしかしたら私はポールへの憎しみをシャルロッテで発散しているだけなのかもしれない。エマもアンナもポールの子ではあるが、私とは血が繋がっている。ポールの血を引きつつ、私との繋がりがないシャルロッテは、攻撃するには都合のいい存在であるのは確かである。
そうしてシャルロッテを貶めることは、私の実の娘であるエマとアンナを優遇することにも繋がる。娘と義娘の扱いに差をつけることでしか得られない愉悦があることを私は知ってしまった。
娘二人より美しいシャルロッテ。
家の外ではきっと、みなから祝福されるような愛らしい少女。
私の支配するこの家では最も小さく、か弱い存在だ。
原因不明の体調不良は、最初は月に何度か起こる程度だった。専属の医者に診てもらっても異常は見当たらず、ただの心労だろうと言われた。
ポールの死やシャルロッテのことなどが知らずのうちに負担になっていたのだろうと、私もそのときは納得したのだが、体調不良の頻度はだんだんと増していき、三ヶ月が経つ頃には気分が良い日の方が少ないくらいになった。
必然、私はベッドの上で過ごすことが多くなった。家の中のことを把握するにも、メイドや娘たちに頼ることになり、シャルロッテがこの家でどう扱われているのか、人づてにしかわからない。
長女のエマはシャルロッテのことを何も言ってこないが、彼女の扱いには最初から不服そうだったから、きっと今も人として正しく接しているに違いない。次女のアンナは、毎日のちょっとした嫌がらせを逐一報告してくる。家庭教師のマヤの話では、シャルロッテは文学への理解度がとても高いらしく、作家である父に憧れを抱いていたアンナにはそれがどうも許せないらしい。
ポールの――『ポール・マイトナー』の小説を教材として扱うのをやめてもらうおうか。アンナとシャルロッテは同い年だから、変な劣等感が生まれないとも限らない。
それにしても、シャルロッテが『ポール・マイトナー』の小説を……。彼女に文学の才があるとして、それは誰から遺伝したものなのか不思議だった。なぜなら、夫のポールは言葉の繊細さをまるで理解しない大雑把な男だったのだから。夫の愛人の血だろうか?
この前、若いメイドがシャルロッテを手酷く折檻したと私に語った。
身体的な痛みが言葉による精神的苦痛よりも勝ると勘違いしている馬鹿な娘だ。言葉を操ることの素晴らしさをこんこんと教え込んでやろうかとも思ったが、シャルロッテの体のどこをどう殴りつけたのだと誇らしげに話すその顔を見て、私は対話を諦めた。その場では好きに喋らせ、次の日には屋敷から出ていってもらった。
メイドを追い出した翌日は久しぶりに体が軽かった。
この日を逃せば、次いつ万全な状態かわからない。私は書斎へと向かい、一日中文章をしたためた。寝込んでいるときは文字を書くことさえ億劫であったから、久しぶりに紙にペン先を滑らせる感触は心地好かった。
驚いたことに、それから二週間もの間、私の体の具合は良かった。偶然に違いないのだが、シャルロッテを率先していじめていたメイドを追い出した翌日からのことだったから、メイドたちの間で私の病の原因はシャルロッテの呪いなのではないかという憶測が広がった。私が最初に体調を崩したのもシャルロッテがこの屋敷に来た翌日のことだった。そのことも相俟って、屋敷内でその噂はまことしやかに語られるようになった。
学がないとこのような荒唐無稽なことを信じるのだな、と病床で彼女らを哀れに思った。
体調の良かった二週間が嘘だったかのように、それからの不調の波は大きかった。
最後に寝室を出たのはいつだったか。この頃はベッドの上で娘たちの悲しそうな顔ばかりを見ている。
おそらく、この体はもう長くない。逝ってしまう前に、娘たちに『ポール・マイトナー』の秘密を明かすべきかどうか、そればかり考えている。――いいや、やはり言うべきではない。ポールは作家として惜しまれながら死んでいった。それでいい。
もし言えるとすれば、その相手は、赤の他人であるシャルロッテくらいだろう。
夫の死から半年が経つ頃、私の病状はさらに悪化した。
熱に浮かされ、朦朧とする意識の中で、医者がなすすべなく項垂れる姿を見たような気がした。娘の顔が判別もつかぬほどぼやける視界はもはや無意味で、私は目を閉じた。
声が聞こえる。
どこから聞こえてくるのか、方向がわからない。
頭の中に響いているようだった。
気づけば私は真っ白い空間にいた。
――愛しなさい。
何を言っているの?
ここはどこ?
あなたは誰?
――愛しなさい。
声の主は私の問いに答える気はなさそうだった。
聞こえているのかも定かではない。文句の一つでも言ってやりたくなるが、なんとなくそれは躊躇われた。ここでは私は取るに足らない小さな存在だと、本能で理解していた。
何もわからぬまま、体がふわりと浮いた。白い空間が下へ下へと遠く離れていき、私は相対的に浮上していく。
最後にもう一度、神々しいその声を聞いた。
――娘を愛しなさい。
目を覚ますと、手を誰かに握られていた。
ベッドの脇に目をやれば、エマとアンナが私を泣きそうな目で見つめていた。
「お母さんっ」
二人が叫んだ。私はまだ生きているらしかった。
それにしても、この黒い靄のようなものはなんだろう。私の方へとふよふよと漂ってきている。
「おはよう。エマ、アンナ」
声が掠れた。喉が渇いている。
力のない声で水を要求すると、少し離れたところに立っていたシャルロッテが「す、すぐお持ちします」と言って部屋を出ていった。
彼女がいなくなると、黒い靄が薄くなった。
「この黒いものは何?」
ベッドの反対側の脇にいた医者に手伝ってもらい、上体を起こす。
「黒いもの? なんのこと? お母さん」
エマが言った。
「私の目の前の……」
エマとアンナが顔を見合わせた。
彼女たちには見えていないのだろうか。
「――高熱の後遺症で、視覚に異常が出ているのかもしれません」
ベッドの反対側にいた医者が言った。
後遺症――それほどの高熱だったのか。眠っていたから実感がない。
そういえば、夢を見た。長い夢だった気がするが、覚えているのは――。
シャルロッテが水の入ったグラスを持って、部屋に戻ってくる。
「貸して!」
シャルロッテの持つグラスをアンナが奪い取ろうとする。
「待ちなさい。シャルロッテ、お前が持ってきて」
私はアンナを静止し、シャルロッテに命じた。アンナは困惑した様子で、グラスに伸ばした手を引っ込めた。シャルロッテは、こくんと頷くと、手を震わせ水を溢しそうになりながらも、どうにか私のすぐそばまでやってきた。
「飲ませてちょうだい」
「お母さん!」
アンナが反対するように私の名を呼んだ。エマも訝し気な表情をしている。私は「いいの」と言って、二人を宥めた。
シャルロッテを見やると、彼女は肩を跳ねさせ、慎重に私の口元にグラスをあてがった。震える手でグラスを傾けたから、案の定水を溢してしまう。水は私の顎、首を伝い、襟元を濡らした。
「だから言ったのに!」
「ご、ごめんなさい……」
アンナに責め立てられ、シャルロッテは顔を真っ青にして謝る。
私はシャルロッテの頭に手を伸ばした。重力に逆らって腕を上げるのがこれほど大変だとは知らなかった。シャルロッテの体が硬直するのがわかった。
私はやっとの思いでシャルロッテの頭の上に手を載せ、そして、努めて優しく撫でた。
「ありがとう、シャルロッテ」
シャルロッテの肩の緊張が僅かに和らぐ。
夢の中で、あの声は『娘を愛しなさい』と言った。
彼女から漂ってくるコールタールのように黒い靄が少しだけ薄まったような気がして、これが正解だったのだと、私は理解した。
第一章 終
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