第2話
新進気鋭の作家・マイトナー公爵 事故死
共にいたのは愛人か
葬式の翌日、大手の新聞にでかでかと印字された見出しを見て、乾いた笑いがこぼれた。
社交界で自分がこれからどのような目で見られるかを想像すると憂鬱だ。もういっそ、しばらくは不参加の意志を貫こうかしら。
夫が死んだのだ。理解は得られるだろう。
――『ポール・マイトナー』名義で七年前に鮮烈なデビューを飾り、数々の良作を生み出してきたマイトナー伯爵。繊細な心理描写で人気を博していたが、文章とは対照的に、彼の私生活は意外にもだらしなかったようだ――
ばかばかしい。世間はいまだに『ポール・マイトナー』名義で小説を書いていたのが夫だと疑わない。
まったく、そんなはずないじゃない。あの男を逆さに吊るしたって、たった一行の繊細な文章すら出てきやしないのに。
記事の続きを読む気が失せ、私は新聞をダイニングテーブルに放った。
今日はこんなことに気を取られている暇などない。私と二人の娘にとって、もっと重大なイベントがこれから控えているのだから。
階段を降りる音が聞こえてきて、すぐに次女のアンナがダイニングルームに顔を出した。アンナは私の顔を確認するやいなや、こちらへ向かって駆けてくる。私は急いで椅子から立ち上がり、アンナの体を受け止めた。
アンナは私の胸の中でぐずぐずと鼻をすする。八歳の幼い少女は、父親の突然の死をまだ受け入れられずにいる。
私はアンナの気持ちを落ち着かせようと、トントンと背中を優しく叩いた。
「どうしてお父さんは、私たちじゃなくて、知らない女の人と旅行に行ったの?」
アンナの純粋な疑問に、言葉が詰まる。
いつの間にか二階から下りてきていた長女のエマが、椅子を引いて静かにテーブルについている。
「お父さんは私たちよりも大事な人がいたの。そうでしょ、お母さん」
アンナとは二つしか離れていないのに、エマは状況をしっかりと理解しているようだった。
「なんで?」
アンナが首をこてんと傾げた。
「知らないわよ。死んだあの人に聞いてちょうだい」
エマが冷たく突き放すように言った。
「でも……どうやって聞くの?」
「試しにお墓の前で話しかけてみたら? 今もきっとお墓の周りにいるよ。だって裏切り者は天国に行けないんだから」
「エマ! そんなこと言ってはダメでしょう?」
私が注意すると、エマはツンとそっぽを向いた。
いつもは妹思いのいい子なのに……。
エマも昔はポールのことを嫌ってはいなかった。ちょうど今から一年ほど前だ。エマのポールに対する態度が一変したのは。
聡いエマのことだ。父親がよく家を空けていた理由に勘づいていたのかもしれない。
様子を窺っていたメイドに目配せをする。すぐに朝食が運ばれてきた。
「さあ、食事にしましょう? 早くしないとあの子が来てしまうわ」
朝食を終え、居間で娘たちの機嫌を取っていると、訪問を知らせるベルが鳴った。
娘を引き連れ、応接間へと移動する。
応接間のソファに座って待っていると、部屋のドアがノックされた。
「救貧院の院長とシャルロッテ様をお連れしました」
メイドの声の後、横幅の広い中年の男が少女の腕を引っ張って部屋に入ってきた。
ポールと愛人の間にできたこの娘を、なぜ私が面倒を見なければならないのか。そんな内心を薄い笑みで覆い隠し、私は立ち上がった。
「ようこそお越しくださいました」
「これはこれはマイトナー未亡人。噂に違わず、お美しい」
夫への悔みの言葉もないままギラギラとした好色な目を向けられ、作った笑顔が崩れそうになる。
なるほど、救貧院の院長に相応しい男だ。貧民の監獄のボスをやるだけあって、目に余る無作法者である。
「さあ、おかけになって」
差し出された小汚い手に気づかないふりをして着席を促すと、院長は残念そうに手を引っ込め、腰を下ろした。
隣で所在なげにしていた少女――シャルロッテが恐る恐るといった様子でソファに座り、最後に私が腰を下ろした。
「いやあ、ここのところ大変でしたよ。この子は救貧院のルールを何も知りませんでしたからねえ」
院長は手拭いで額に浮いていた脂汗を拭うと、テーブルの上の紅茶に口をつけた。
「感謝しているわ。彼女をこちらで引き取る前に、いろいろと煩雑な手続きがあったもので」
……というのは建前で、本当は葬式の日にでもシャルロッテを連れ帰ることはできた。それをしなかったのは、ポールの母――私からすれば義理の母だ――がシャルロッテを引き取ることに反対したからだ。息子を殺した愛人の卑しい血がマイトナー家に入るのを嫌ったのである。シャルロッテを迎えたくないのは私も同じだったから、否やはなかった。
寄る辺のないシャルロッテは救貧院に預けられることになった。養育の責任を逃れるのなんて簡単だ。こちらがシャルロッテとの繋がりを否定すればいいだけだ。母親も一緒に消えたから、彼女がポールの娘だと主張する者は誰もいなかった。
状況が変わったのは、つい一週間前のことだ。マナーハウスで暮らすポールの母のもとに、今目の前にいるこの男から手紙が送られてきたそうだ。手紙には、シャルロッテがポールの娘である決定的な証拠があるからマイトナー家に丁重にお返ししたいと書かれていた。その証拠とは、ポールが愛人に贈った家紋入りの手紙のことだった。言い逃れようと思えばできなくもないのかもしれないが、そんなことをすればたちまち都合の悪い噂が広がるだろう。マイトナー家は、外で拵えた子を救貧院に放置する無責任な貴族だと。
選択肢はないようなものだ。ポールの母は世間体を取り、自分は関わりたくないからと私に丸投げした。娘が二人から三人になったところで一緒だろう、と。
「もちろん、存じ上げておりますとも! しかしですねえ……特別な事情の娘さんということですから、それはもう手間がかかりましたよ。この子を救貧院で預かっていた間に、私どもが彼女の教育に要した多大な労力をご理解いただきたい」
卑しい男だ。最初から証拠は揃っていたはずなのに、しばらくの間シャルロッテを預かり、今更になって手紙を寄越してきたこの男の魂胆はわかっている。
さっきまでシャルロッテを引き取ることは気が重かったが、今はさっさと済ませて一刻も早くこの男を家の外へと追い出したい気分だった。
「まあ! 教育まで施してくださったの? なんて親切な方かしら。後日、そちらの救貧院へ十分な感謝の気持ちを送らせてもらうわ」
「なんと! 思いがけないご厚意でございます。感謝してもしきれません」
白々しい。最初からそれが目的だったでしょうに。
「礼なんて要らないわ。世話になったのはこちらだもの。――玄関まで見送りをさせてもらうわ」
私はソファから立ち上がった。
「え? ああ、確かにもう用事も済んだことですしねえ……」
院長を見送り、応接間に戻ると娘二人とシャルロッテが黙って向かい合っていた。
「あなたたち、どうしてにらめっこなんかしてるの?」
「だって……」
エマは何を話したらいいのかわからないだけみたいだ。
「ねえ、お母さん。なんでこの子の服、こんなに汚いの?」
アンナが無邪気に私に聞いた。
シャルロッテがびくっと肩を跳ねさせた。
彼女の服は、煤や黄ばみで元の色がわからなくなっている。
「きっと働き者だったのでしょう。ああ、そうだわ。それならこの子は、うちの新しいメイドにしましょう! きっとお仕着せが似合うわ。――ちょっとあなた、そのカップは捨てておいてくれる?」
若いメイドが院長が口をつけたティーカップを片付けようとしていたから、念のため命じておく。
「え、でもお母さん。この子、私たちの妹になるんでしょ?」
エマが驚いた顔をして私を見た。
「そうよ。メイドの義妹ができるの。素敵でしょう?」
「でも……」
「ええー! この子、私の妹なの? なんでー?」
アンナが興味津々に尋ねる。
「それはね、彼女がお父さんとお父さんの大事な人の子供だからよ」
「お父さんの大事な人――それって一緒に旅行に行ってた人?」
「そうよ」
アンナは難しい顔をして何か考え事を始めた。
「さあ、あなたたち。その子に家の中を案内してやりなさい」
私はパンと手を叩き、話を打ち切った。
エマは納得のいかなそうな顔をしていたが、ソファから立ち上がり、シャルロッテの手首を引いて立ち上がらせた。
シャルロッテは戸惑いながらも、エマに引っ張られるまま歩く。
アンナは急ぐことなく、ゆっくりと立ち上がった。いつもなら姉の後ろをパタパタと走って追いかけていくのに、今日はどうしたのだろう。
立ち上がった姿勢のままじっとしているアンナの顔を覗き込み、私はドキリとした。彼女は、これまで見せたことのない冷たい表情でシャルロッテの背中を見つめていたのである。