31 悪魔の内紛に参戦
ここで仏の世界についてお話しさせて下さい。仏教で言う仏、釈迦牟尼仏は他の宗教の神や開祖と同じように論じられていますが、彼は人として生まれ、己の努力に拠って真理を得て死んだ者です。他宗教での神や開祖は初めから人智を超えた存在であるか、仏陀のように人として生まれ、絶対主からの啓示を受けて神の子、預言者・救世主として亡くなった者であろうか。
こう例えると身も蓋もないんですが、仏は誰でも努力に拠って成る事の出来る存在です。最もその努力が肝要で、所謂“八正道”を体得して成れるものであり、その為の修行法が経典に書かれている訳です。そして、仏とは次から次へと訪れてくるストレス、悩みから解き放たれた存在に成り、ローソクの炎が消える様に何もない状態に成るのだと。これは輪廻転生を前提とした人生観に基づいた思想で、他のインド発祥の宗教も同じ前提から教義が展開されています。
人生は自分の思い通りにならないもので、ストレスの溜まるものです。何者にも束縛されず、何者にも影響されない人生を今生で終わらせる方法を説明した仏陀のシステムを実践して、仏陀釈尊に続く存在と成る事が目的、それが仏教であると、私は解釈しています。だから大それた存在に成るのではなく、一回の人生で終わり、人生を繰り返さない事が大事なんだと思っている訳です。
ところが「言うは易く行うは難し」とは良く言ったもので、一回で仏には成れないから、別の方法で成りなさいというのが大乗仏教の考えなのです(但し全てではないよ、即身成仏の考えがあるのでね)。その思想体系が今の日本の仏教観を形成したのだと思っているので、そこから訳の分からない仏教世界も形作られたのだと。
先ず仏は仏陀釈尊だけではなく、彼以前にも存在したし、これからも生まれると考えられました。サンスクリット語で「タターガタ」とは真理を得たものとの意で、漢訳されて如来と名付けられました。真理を得た者が仏陀だから、これは納得します。次に、サンスクリット語で「ボーディサットヴァ」とは悟りを求める人で、仏陀に成る前、釈迦族の王子であった頃の「ガウタマ・シッダールタ」を言い、漢訳されて菩提薩埵、略して菩薩と名付けられました。仏に成る手前の者も現われて、次には明王、天が加わりました。こうなるとスーパーの特売ではないですが、神仏の大量出現、大安売り状態になってしまいました。
仏陀釈尊以外の仏の住む世界も考え出されました。我々人間世界の中心には須弥山と呼ばれる山があり、その南方に人類が住んでいます。ここは物質世界で、須弥山には帝釈天や四天王と呼ばれる天部の神が住んでいます。因みに、閻魔天は帝釈天より上の世界に住んでいるので、地獄も天部にあったのですが、いつの間にか天から奈落の底に落とされてしまいました。その遥か上には大半の煩悩を滅した梵天の住む世界があり、その上には仏に成る一歩手前の肉体のない精神精霊が住んでいると。小乗仏教の教えとは相当離れてしまった感がありますが、ザックリ説明するとこんな感じです。
須弥山には帝釈天や四天王が住んでいるので、エドが馬頭観音の要請に応じれば、彼等と同じように、ここへ居場所が与えられる筈です。何故なら、帝釈天はバラモン教ではインドラと呼ばれ、神々の王として君臨していたのです。その彼が仏教に取り込まれ、釈迦を導く神性の地位が与えられた訳で、オロバスも異教神として同様の待遇を得られると考えているんだ。この天部はバラモン教から移籍した神々の定位置になるからね。馬頭観音もバラモンのヴィシュヌ神の変化身だから、移籍組の先輩に当たる訳だ。
翌日、俺はセリーヌの部屋で再び、馬頭観音を招来した。悪魔の出現とは違って、いきなり現れるものではなく、先ず金銀の霧が舞い降り、金剛、貴石の雨が降り注ぎ、白檀など香木の類の香りが満ち溢れ、その後中空から五色の雲と共に降臨する観世音菩薩。悪魔召喚とは又違った驚きが観音の出現にはある。
この時俺は理解した、女という生き物は男より強い存在だと。テスはエドを初めて目にした時、失禁してしまう程驚嘆していたが、二度目にはもう失禁はしなかった。対応力があるというか、耐性が強いというか。セリーヌも似たり寄ったりで、最初に馬頭観音が出現した時には腰を抜かして、失禁していたからね。今は俺の傍で一応冷静に待機しているようには見える。冷や汗もかいていないから、神経が太いんだな。俺はというと、恐怖ではないが観音が降臨する毎に心臓がバクバクになるから、相当ストレスが掛かっているのが体調面から分る。多分血圧は200を超えているんだろうな。
脇侍と共に馬頭観音が俺の目の前の中空に現れた。初回は憤怒相だったが今日も同じだ。しかし、良く見ると多少は柔和な表情が見て取れる。俺は直ぐに接待、対応について尋ねた。
「馬頭観音様に帰依し奉ります。本日の供応は如何でございましたでしょうか? ご不便はございませんでしたでしょうか?」
「貴方の供応には満足しています。本日は何の要望ですか?」
俺は安堵した。この前降臨して頂いた時は、初めてなので随分と気を配り、供応の品も奮発したし、三密も丁寧に修したから俺としては手応えを十分感じていたんだ。今回は二回目なので、初回よりも気持ち供応品の程度を落としたんだけど、観音の機嫌を損なわなくて良かった。
「はい。本日、観音様にお願いしたい事は、前回ご紹介しましたエドの処遇について、でございます」
「覚えています。異教神ですが、私の同類でしたね」
「そうでございます。その彼について、天部での処遇をお願いしたく、馬頭観音様にお頼みしたいのでございます、如何でしょうか?」
「異教神であれ、仏教に帰依するのであれば、何等問題はないでしょう。それだけですか?」
「実は、もう一つございまして・・・」
「あの折話しをした、援助の件ですか?」
言い難そうに話すと、それとなく察してくれたのか観音から切り出してくれた。
「はい。実は彼の者の地獄では『既に臨戦態勢に入った』と連絡が司教に入りましたので、観音様にはご出陣のお願いを」
「仏教に帰依する者を助ける事に何の障害もありません。安心しなさい」
「あのう・・・ 地獄と言いましても異教神の地獄ですので、どのように向かわれるのでしょうか?」
「貴方が案ずる事ではない。三千世界の何処へでも赴けるのです。仏法を遍く広める為なれば」
「そのお言葉をお聞きし、安心致しましたが、如何せん相手は異教の悪魔です。萬に一つでも手違いがありますと」
「心配は無用。帰依する者は助け、歯向かう者は降伏する。それだけです」
これ以上の質問やお願いは非礼だし、観音の力を見くびっていると思われると不信心を疑われるので、引き下がった。
「安心しなさい。仏の守護が如何なるものか、貴方もその時になると分るでしょう。今は私の言葉を信じなさい」
「滅相もございません。疑いなど微塵も抱いてはおりません。それでは観音様の援助をエドにそのままお伝え致します」
「そうなされるが良いでしょう。彼のカミにも心安らかに待てと」
「ありがとうございます」
「それから、本日の供応はもう暫く受けたいと思います。何やら眷属の者共が遊び足りないと申しているので。カラオケなるものも用意してもらいたいと言っておるので、宜しく」
「了解致しました。護摩をもっと焚き上げますので、ご存分にお楽しみ下さい」
「そう致しましょう。この後、八面六臂の活躍をしてもらわないといけませんからね」
そう言うと、馬頭観音が俺に目配せした。三面の眼が同時にウインクする光景を想像してみて下さい。想像出来ます? かなりシュールですよ。
俺は脇に置いてある段木をセリーヌから受け取り、護摩壇に次々と投じた。炎が勢い良く立ち上がり、周りが熱くなって法衣の下に着ている下着がビッショリになっている。




