29 馬頭観音降臨
「オン・アミリト・ドハンバ・ウンハッタ・ソワカ」
金剛印を組み、真言を唱え、結界で守られた道場で、俺は彼を呼んだ。既に降臨していた観音は、他の諸仏と一緒になって俺の歓待を受けて良い気分になっていたので、直ぐに応じてくれた。
ヒンズー教の最高神ビシュヌの変化身と言われる馬頭観音だけあって、迫力が桁違いだ。天空から先ず金銀の霧が辺り一面に舞い、金剛、貴石の雨が降り注ぎ、白檀など香木の類の香りが満ち溢れ、その後五色の雲と共に真っ赤な憤怒相の尊像が中空から妙なる調べと共に静かに現われ、俺の頭上、真上で制止した。眷属の悪鬼羅刹も、うじゃうじゃと周りを固めている。
エドを見ると口を広げて、真っ赤な歯茎と真っ白な歯が見える。水道栓を開いたようにダラダラと涎が流れ落ちている。ビックリしたのだろう。後ろ脚で立ち、直立不動の姿勢だ。だから、言ったでしょ。ビックリするなって。だけど、逆上しないだけましか・・・
「馬頭観音様に帰依し奉ります。本日の歓迎は如何だったでしょうか?」
馬頭観音様は「満足した」と言ってくれた。それを聞いて俺は話しを続けた。
「こちらに侍っておりますものはオロバスと申しまして、観音様のご助力を賜りたいと、先程よりお待ち申し上げておりました」
俺はエドに向かって「頭を下げろ」と身振り、手振りで伝えたが、未だ彼は放心状態というか、観音を凝視し続けている。悪魔ともあろうものが、こんな体たらくでは。
「大変失礼を致しております。この者、初めて観音様にお目通り叶い、我を忘れている状態でございまして、平にご容赦願います」
「良い、良い。生きとし生けるもの全ての救済が我の役目なれば、案ずるに及ばない。なれど、そこに侍るものは異教の悪鬼羅刹の類いではないか。いっそ成敗した方が良かろう、違うか?」
観音の言葉を聞いて我に返ったのか、エドが「ヒヒーン」と一際高く嘶いた。俺は今度は「頭を下げろ」と彼に聞こえるように伝えたが、彼はギラギラした目で観音を凝視している。直ぐにでも掴み掛かろうかと思える程に鼻息を荒くして、前脚を床に叩きつけて突進しそうだ。
彼の態度を見て、観音の憤怒相が出現した時とは打って変わって、凄まじい化け物のような顔に変化した。それと同時に後背が紅蓮の炎に包まれ、従える悪鬼羅刹の数が数えられない位増えた。その一人一人と言うか、一尊一尊と表記して良いのか分からないが、エドを睨みつけて、飛び掛かろうとしている。何百何千という羅刹の睨みつける様はこの世のものとは思えない。これこそ地獄に住まう羅刹だ。
その光景に圧倒されたのか、一瞬怯んだ表情がエドに見えたので、俺は急いで観音に話し掛けた。
「誠に恐れ多い事ではございますが、大慈大悲の御仏の御心に接し、帰依しないものがおりますでしょうか。否、三千世界の衆生全てが帰依致します。この者も左様でございます」
俺の言葉で観音の表情が、初めて現れた時の顔に戻った。それと同時に幾多の羅刹も消え、少数の眷属だけになり、後背の炎も消えた。
お接待が効いていたのかもしれない。こう言うのも可笑しいが、目尻を吊り上げて牙をむき、怒髪天を衝く様でも若干優しい相になっていると俺には思えた。
エドをみると、口を開けてパクパクしていた。その様子は驚きと恐怖によって前後不覚にもその場に立ち竦む悪魔でしかなかった。観音の三面八臂の姿と無数の羅刹を見て、彼我の実力差を知ったのだろう。悪魔でも三面の顔を持つ者はいるが、その上に腕が8本ある悪魔を俺は見た事がない。
悪魔にとって異形のものを目の当たりにして平常心を失った時点で、観音に軍配が上がっても致し方ない。後は素直に俺の意見を受け入れてくれるか、自尊心を傷つけられて反発するか不安なんだが、どうもエドの姿を見ていると、そんな心配は杞憂だと思えた。
「エド、頭を下げて」俺が強く言うと、ようやっと俺の声が聞こえたのか、彼は首を垂れた。
「悪いようにはしないから、全て俺に任せて、唯そこに跪いてくれれば良いから、頼むね」そう言うと彼は力なく頷いた。
「馬頭観音様、どうかこの者の非礼、平にご容赦願います。初めての事とは申せ、余りに無礼な態度、万死に値します。ですが、この者の事情もご斟酌願います」
俺は五体投地して三拝した。そしてエドにも同じ事をさせた、と言っても馬だから人間と同じようには出来なかったが、兎も角、誠意は伝わったのだろう。観音は「許す」と言ってくれた。
すかさず俺は言葉を続けた。「馬頭観音様、どうかこのものの力になってやって下さい」
それから、事の次第を観音に事細かく伝え、納得してもらった。
俺の懇願に、観音は機嫌良くOKを出してくれた。助力を得た俺は、大急ぎで大日如来を筆頭に、諸仏諸尊眷属に至る迄礼拝して、天上にお帰り頂いた。
一尊一柱の会見が終わったというか、顔見世興行が終了した。エドに話しかけようとしたが、彼は床に座り込んで動かないままだ。その姿を想像してみて下さい。中々想像出来ないと思いますが。
ベルナールを見ると「良くやった」という顔をしていた。次にセリーヌを見ると、もう分かっていると思いますが、失禁、失神していた。次いでテスはというと、彼女も気を失っていた。余りに刺激が強すぎたようですね。エドでさえもこの世のものとは思えないのに、三面八臂の馬頭観音を初めて見れば恐怖におののくか、絶句して気を失うか、尋常ならざる光景だったのだから、仕方ないか。
ベルナールに目配せしてセリーヌとテスの介抱を頼むと、直ぐに彼は持っていた灑水器から灑水棒で聖水を二人の顔にかけて、意識を取り戻させた。気が付いて二人は、この世のものでないスペクタクルショーに茫然自失としていた。
暫しの間、彼女達の回復を待っていると、エドが俺に話しかけてきた。
「魔法使いよ。お前の魔術は『凄い』の一言だな。今迄あんな光景を目の当たりにした事など一度もなかった。あれは一体何者なのだ? 悪魔でもない、神でもない。初めて会った得体の知れないものだ。俺は初めて恐怖と言うか、戦慄を覚えた。圧倒的なあの存在感、それでいて憎悪の対象ですらない。あのような存在がこの世にいるとは、世界は広いな・・・」
彼の感想を聞いて、俺は安心した。観音に対しての敵愾心や反発心が観られなかったので、初会見は一応成功だと思う。
後は素直に俺の意見を組み入れてくれるかだが、多分大丈夫だろう。観音の圧倒的な武力に威圧されたのだから。
「エドに紹介した方は、馬頭観音と言って、生きとし生けるもの全てを救済してくれる有難い存在です。但し、仏敵に対しては容赦ありません。あらゆる力で調伏させるので、敵に廻すなど考えない方が身の為ですね」
「俺は彼奴にとっては異教の精霊だぞ。攻撃の対象なのか?」
「その点に関しては詳しくないのですが、彼は仏教の守護者ですから仏教徒を攻撃する、仏教を毀損する、仏教寺院を破却する等の行為を起こさなければ、彼の駆逐対象とはならないと思います。馬頭観音は元来、古代インドのヒンドゥー教の最高の神であったビシュヌが敵を攻撃する時に変化したものとされていまして、それが仏教に入って仏教を護持する観音、明王に置き換わったとされている訳です。ですから異教の神々には寛容なのなのだと思います」
「元は異教神か・・・」
「はい。それに馬の顔を持っていますから、エドとは遠い親戚では?」
「お前、面白い事を言うな。印欧諸語族だから、親戚か・・・ だがな、俺は元々神が創造された天使なのだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「まあ出自は色々とおありでしょうからこの辺にしておきましょう。どうですか、観音が貴方の側に立ってくれると言うのですから。協力頂いて、今回の裏で糸を引く柱物を炙り出しませんか?」
「俺も悪魔の軍団長としての立場があるしな。ストレートに異教の神に助けを求めるとなると、悪魔界での己の立場がどうなるか、見極めなければならないし。確実に勝利する算段をしなければならないし。如何したものか?」
「何も悩むことはないですよ。彼の実力は折り紙付きですから。誰が来ようと負ける訳がないし、負けた事がないから、大丈夫。16万8千柱の悪鬼を二尊の菩薩で退治した例がありますから、観音一人で8,4000柱を相手に出来ます。例えば、エドは20軍団を率いていると言いましたね?」
「そうだ」
「一軍団は2から4師団で構成されるので最大でも4万柱でしょうか。それが20軍団ですからエドは80万柱の悪魔を率いている訳です。レメゲトンに記載された悪魔の72軍団長の総軍団数が2562個ですから、2562×4,0000=1億248万柱になります。それに対して観音は28部衆といった部下を持ち、その部下各々が500尊の眷属を従えています。計算すると28×500=1,4000尊になりますね。彼らが観音の半分の実力しかないとして計算しても、1,4000柱×4,2000柱=5億8800万柱を相手に出来る事になります。戦力に相当の開きがある訳です。それも観音とその眷属だけですよ。観音は六観音と言って、後5尊存在しますから、桁違いの計算になりますね」
「お前の言わんとする処は分かっている。俺が言いたいのは俺の心情だ。天上ではルシファー様に使え、今はルシフェール様に使えている立場として、この罪が許されルシフェール様と共に天上に帰る日を希求している俺がいるのだ。おいそれと首を縦に振る事が出来ないのだ」
彼の悩む姿を見て俺は言葉に詰まった。何千年と、無駄だと知りつつも天上に帰る日を望む悪魔に対して、慰めの言葉が見つからない。彼我の戦力差よりも心の持ち様が悪魔にとっては重要なんだ。
暫く無言の時間が続いた。ベルナールもセリーヌもテスも、俺とエドを見て何も言わない。重苦しい空気感の中、意を決して俺が言わなければならないのだろうな。
「可能性はありますよ、エド」
何を言っているんだという風な顔をしてエドが俺を見た。




