第二話
※第一話の前書きでもお知らせしたのですが、本作に特定の思想等を宣伝・鼓吹する意図は全くありません。作中の国際情勢は完全に架空のものです。宜しくお願いいたします。
キーンコーンカーンコーン。どこの学校でも聞くお決まりのチャイムが、美姫のまだ覚めきらない頭にも響いてきた。
「起立」
日直の声で皆が一斉に立ち上がる。
「礼」
全員が頭を下げる。最近、受験勉強でストレスが溜まっているのか、タイミングがやや揃わない。
「着席」
椅子をガタゴト言わせながら、皆が再び腰掛ける。柿田という名前の担任教師が、ひととおり手元の書類に目を通してから、「特に連絡はなし」と一言、短く言い放った。
「欠席者はいないな?‥よし。じゃ、これでHRは終わりだ。皆、今日も一日頑張るように。‥‥おっと」
出ていこうとして、振り返る。
「そうだお前ら、一時限目は公民だったよな?」
何気ない問いかけ。だが、その後に続いた言葉を聞いた途端、美姫は背筋が凍りつくのを感じた。
「今日は桂木先生はお休みだ」
まったく、寄りに寄って1ヶ月振りに休みが取れた日に限ってこんな悪天候になるとは。
季節外れの大雨が降りしきる中、とあるアパレルメーカーの平社員である堤雄志は自宅のリビングで不貞腐れていた。飲みかけの缶ビールをテーブルの上にダンッ、と乱暴に置く。いい加減ストレスをアルコールで解消するのはやめにしようと思うが、こんな天気では趣味の釣りにも行けない。
立ち上がろうとして、堤は膝を強かにテーブルにぶつけた。途端に缶ビールが溢れ、新聞のテレビ欄を濡らしてしまった。
「ったく‥‥」
堤は仕方なくティッシュで溢れたビールを拭い、ついでに新聞も濡れたページだけ引き剥がして捨てようとしたが、ふと、1面に「政府、きょう重大発表」の見出しを見つけて手を止めた。
そういえば、今日は10時から緊急会見があるとか言っていた。
缶ビールの残りを飲み干し、堤はテレビを点けた。
画面には首相官邸の記者会見室が映っている。
並べられた椅子はマスコミの人間で埋め尽くされており、ワインレッドのカーテンの前に置かれた演壇に立っているのは総理だ。
「‥この現状を鑑みるに、G国の挑発行為が我が国の存立と東アジア地域の平和安全保障に重大な脅威となっていることは明らかであります。付きまして政府は、遅くとも今月末までに全国を対象とする緊急事態宣言を発令することを、決定致しました」
スクリーンの中で、カメラのカシャカシャいうシャッター音が一際大きくなる。
「政府としましては、国民の皆様の生命、自由、安全及び幸福追求の権利を脅かすあらゆる試みを許さず、事態の平和的解決を追求していく方針でありますが、万一武力衝突事態が発生した場合に備え、今回の宣言発令を決意した次第であります」
そう、総理は語った。続いて、マスコミによる質疑が行われる。
「その宣言とは具体的にどのような内容なのでしょうか?」
「現段階としては、海外への渡航や物資の流通及び移動などの制限、国民生活に必要不可欠であると認められる電力及びその他のライフラインの公的管理、警察力をもってしても治安維持が難しいと認められる場合、自衛隊の全部又は一部の出動によりこれを行うことなどを予定しています」
戦前の治安維持法みたいだな、と堤は思った。この国はこれからどうなっちまうんだ。
「経済への影響についてはどのようにお考えですか?」
「今回の宣言が経済に与える影響を最小限に留められるよう手を尽くしていきたいと思っております」
いや、尽くすったってどうすんだ。流通やらライフラインやらを政府が管理するとか言ってたが、例えば運送業とか電力会社に勤めていた人間はそれで一時的にせよ職を失うかもしれないわけであり、他にも色々問題が起こって民間にとんでもない混乱が起こるのは必須だと思うんだが。
そんなことを思っていると、総理はこんなことを言い出した。
「今日、この国は労働の場における過労死やハラスメント、少子高齢化の進行による自治体の消滅や地域の過疎化、老々介護や家庭内暴力等様々な問題に直面しています。そして、今また国の平和さえも脅かされている状況です。国民の皆様には御迷惑をお掛けし、深くお詫びいたしますと共に、どうかこの日本を救うためにご協力頂けますよう、お願い致します」
そう言って、総理は頭を下げた。
‥‥まあ、確かに、何だかんだ言ってこの総理は頑張ってる方だと思う。先年、核弾頭を搭載した米軍艦が沖縄に寄港して、それが露見して大騒ぎになったことがあったが、その時彼はアメリカ大使館を突如訪問して抗議の意を表明し、米国政府に正式な謝罪声明を出させた。アメリカに対する強硬姿勢が批判されたこともあったが、日米地位協定の一部見直しに成功して支持率が80%近くなったこともあった。
ただ、総理のそうした行動を支えているのは「国の防衛をアメリカには頼らない」という信念だ。
それはつまり、「日本が有事の際自力で対処できる自衛力を持つべき」ということなのだ。
そして、それが果たして吉と出るか凶と出るかは、誰にも分からない。
堤はテレビを消した。雨はなお勢いを弱めずに降り続いている。
桂木先生がお休み?
いや、きっと偶然だ。たまたまだ。でも‥
«桂木さん、逮捕されたんだって»
脳内に昨日聞いた会話がフラッシュバックする。
「自習するように。いいか、この先一ヶ月がお前らの入試にとっていちばん大事な時期になるってこと忘れるな」
そう言って、柿田は去ろうとした。他の生徒達はカバンから自習道具を取り出していたが、美姫は思い切って柿田の後を追った。廊下を走って追い付き、「あの!」と声を掛けると、柿田は怪訝そうに振り返った。
「何だ?」
要件は何だ、というよりは、お前は何だ、と言いたげな口調だった。
「その‥桂木先生は、どうして今日お休みなんですか?」
「体調不良だ。もう授業は始まってるぞ。早く教室に戻って自習してなさい」
それだけ言うと、柿田は去っていった。
確かに、桂木先生は前に、ちょっと調子が悪いので近々休みを取るかもしれない、と言っていた。本当に体調不良なのかもしれない。それに、同じ桂木という名前の人が捕まったという話を聞いた翌日に休んでいたって別に可怪しくはない。しかし‥‥
「早く戻れと言ったろ!」
大声が耳朶を打ち、美姫は我に返った。
立ち尽くしていた美姫に、柿田が廊下の向こうから怒鳴ったのだ。
美姫は慌てて教室へと戻った。クラスメートはもうすっかり勉強態勢に入っている。席に付き日本史の参考書を広げると、満州事変のページが目に飛び込んで来た。
《…国民政府軍に追われた張作霖は、再起を図るため満州に退こうとしたが、信頼していた日本に裏切られ、関東軍によって謀殺された…》
苦手分野なので、そのページだけ他にも増してびっしり赤文字で書き込みされている。ページの左上には張作霖の顔写真がある。その目が、美姫を見つめているように感じられた。
カッカッと鉛筆の音が響く中、美姫は暫し、そのページを開いたままであった。