婚約破棄された公爵令嬢は呪いでアザラシになったが、今は夫や家族に溺愛されているようなので満更でもない。
アザラシの赤ちゃんを抱っこしたいなと思って書きました。
新雪のような純白の毛色は繊細な絹糸を思わせる。大きな瞳は貴重な黒瑪瑙のように深く吸い込まれそうだ。
私を穴が開きそうなほど見つめていた公爵家のお抱え呪術師は、深くため息をつきながら重々しく口を開いた。
「これは……。残念ながらお嬢様は呪われています。それも結構重めに」
呪術師の言葉にシーンとしてしまった部屋の中で、ただ一人口を開いた人物がいた。昨日私の夫になったばかりの男、ジェムである。
「あのー、質問なのですが……」
のんびりとした口調の彼は没落寸前の田舎の伯爵家の三男坊だった。私と結婚したことでかなりの逆玉の輿に乗った男だ。
「彼女は、どういう状態なんですか? 命の危険は……」
心配そうに眉を下げながらこちらを見つめる彼の表情に嘘はなさそうだ。他の家族は恐ろしい物を見るように眉をひそめているのに……。
呪術師はふむ、と言いながらもう一度私の方を見た。そしてジェムに向き直って告げた。
「この姿は異国の生き物『アザラシ』です」
「アザラシ……」
「そして健康です。しっかり丸くて、健康そのものです」
「それは良かった」
「キューッッ!(良くないわよぉっ!)」
私は腹の底から叫び声を上げながら、手足をバタバタと動かした。しかし動いたのはフサフサとした毛が生えたヒレだった。
◇
私はジュリア・モートン。
モートン公爵家の娘にして、ヒース第一王子殿下の婚約者だった。しかし訳あって婚約破棄。なんやかんやあって昨日ジェムを婿養子として迎え、私は彼の妻となった。
そして今朝、私は「アザラシ」になった。
ちなみにまだ幼いらしい。
「うわぁー、ふわふわだぁ」
「キュッ!(なぁ〜にが『ふわふわだぁ』よ!)」
間延びした声が私の頭の上から落ちて来た。
アザラシとかいうよくわからない生き物の姿になってしまった私は、今、婿として迎えたジェムの膝の上で撫でられまくっている。
「キュウ~……(この状況を許したわけじゃないけど、まだ動き方がわからないんですもの。どうしようもないわよ)」
自分を納得させるような言い訳をつぶやくと、ジェムは不思議そうな顔で私を覗き込んで来た。
「どうしたの? お腹すきましたか?」
そう言って彼はそばに置いたたらいの中から、生魚を一匹取り出した。呪術師が「アザラシは魚を食べる」と言ったので、急いで準備させたらしい。
「はい、どうぞ」
鼻先に突き出された生魚から漂うのは生臭さ。こんな臭いを嗅いだら吐き気すら催していたのに、私のお腹はぐぐ~っと音を鳴らした。
「キュッキュ、キュ(仕方ないわね、食べてあげるわよ。それにしてもよく素手で持てるわね)」
ジェムの持つ魚にぱくっと食いつくと、ジューシーな魚の旨味が口いっぱいに広がる。
「キュウ~(おいしーい!)」
「よしよし。いい子ですね」
私が魚を頬張る姿を見てジェムは溶けてしまうんじゃないかと思う程の笑顔を見せた。
◇
ちなみに繰り返しになるが少し前まで私は王位継承権第一位のヒース殿下の婚約者だった。ただそれは「あの女」が現れるまでの話。
――ミシェル・フォゼット男爵令嬢。礼儀もマナーもなってない、ちょっとかわいくて胸が大きいだけの田舎娘。何の縁かヒース殿下と顔見知りになり、そこからは庶民の間で流行りの小説よろしく、恋仲に……。
そこまでは良いのよ。いや、良くないけど。
婚約者の私が邪魔になったヒース殿下は、私があの娘をいじめたとかなんとか色んな難癖をつけて婚約破棄。しまいには「悪役令嬢ジュリア」なんて二つ名までつけられる始末。身勝手な振る舞いを少し注意しただけなのに、ひどい言われようだった。
ヒース殿下から婚約破棄をされた訳ありの私は、今後まともな結婚相手は見つけられない。というわけで、慌てて結ばれたのが顔も名前も知らなかった伯爵家の末っ子、ジェムを婿養子に迎えての婚姻。
顔も知らない相手との急ごしらえの結婚は不満しかなかったけれど、悪評が広まりすぎた私に逆らう権利はなかった。ただせめてもの反抗で婚姻が成立するまで私は領地に戻った後は屋敷に閉じこもり、誰にも会わずに過ごした。
そして迎えた婚姻の日。しきたり通り、夜明け前にジェムが我が家を訪れ、婚姻誓約書に署名。そこから私を迎えに来る予定だった。
私ももう腹をくくっていたのだけど……。
(身体が、動かない……?!)
朝、目を覚ました私はベッドから出られなかった。手も足もないみたいに身体が動かない。そうこうしているうちに私を起こしに来た侍女が悲鳴を上げた。
そして話は冒頭に戻る。
私のしなやかな手足は消え去り、残ったのは短いヒレのような手と足。移動は腹ばい。全身はみっしりと白い毛におおわれてしまった。
「――ジュリア、こんな姿になってしまって! ヒース殿下との婚約破棄から始まり、いったい何が起こっているんだ!」
憤慨する父、その向こうで失神する母。遠巻きに恐ろしいものを見るような目を向ける使用人たち……。
その時の様子を思い出すと、さすがの私も胸がつぶれそうになる。
「キュウキュウキュウ!(どうして私が呪われなければならないのかしら。どちらかというと呪いたい方よ)」
「うん、やっぱり外は気持ちいですねぇ」
そんな私をこの男――私の夫となったジェムは頻繁に外に連れ出す。
ジェムはあの日以来、ごく自然に公爵家で過ごすようになった。そして私の一切の身の回りのことをこの男が担うようになった。妙に手際が良いこの男はどうやら実家でも使用人のような仕事をしていたらしい。
(どうせみんな私に関わりたくないのよ、知っているわ……)
ヒース殿下の婚約者となることが決まってからは、毎日遅くまでの王妃教育や殿下の業務の手伝い、たまの休みは慈善活動……。休む暇もなく頑張っていた私の周りからは、どんどん人が離れていった。「見下している」、「次期王妃となることを鼻にかけている」と言われ続けた。
父や母は公爵家を継ぐ養子の人選で忙しそうだった。
そこで起こった婚約破棄。さんざん悪評を流され、さらに人は離れてしまったけれど正直な事を言えば身軽になった気もしている。
(良かったのかどうかはわからないけれど、ちょっと安心しているのは事実ね)
吹き抜ける草の香りにピクピクと鼻を動かす。その様子に気づいたのか、ジェムが柔らかいヘーゼルの瞳を細めた。
「いい香りですね」
脇の下に回されたジェムの手は温かい。こんなに世界は優しかったのかと思うほど、私の心は凪いでいた。
「ギュっ!!(だからって小脇に抱えないでくれる!?)」
「あはは、おなかすいちゃいましたかぁ」
ただ会話は嚙み合わないけれど……。
◇
ジェムは私の世話を全く嫌がらなかった。
生臭い魚も平気で触るし、領地の人間から不審者を見るような視線を向けられても、平気で私を小脇に抱えて散歩に出かける。
ただ人の慣れというのは恐ろしいもので、白い子アザラシを小脇に抱える青年の姿は次第に当たり前の姿に変わっていった。
ある日の昼下がり。庭で日向ぼっこをする私とジェムに、控えめに声がかけられた。
「ジェム様……。少々よろしいでしょうか」
「キュ!?(お母様!?)」
声をかけてきたのは私の母だった。母はジェムの膝の上に横たわる私を一瞥し、意を決したように口を開いた。
「わ、私にも……、ジュ、ジュリアを抱かせて下さらないでしょうか……?」
「――っギュ?(え、お、お母様?)」
私は予想もしない母の申し出に驚きの声を上げたが、ジェムはそうでもなかったらしい。
「全く構いませんよ。……はい、どうぞ」
次の瞬間には私はジェムの膝から抱え上げられ、母の腕の中にその身を仰向けに移された。
「――っ、や、柔らかい。ああ、そういえばこんなに軽かったわね。懐かしいわ……」
初めは緊張して強張っていた腕の力がだんだんと緩んでいく。思わずというように母の口から漏れ出た声は、段々と涙声に変わって行った。
「……ジュリア、ごめんなさい。私たちがもっと早く気づいてあげられたら……」
「キュウ……(お母様……)」
母はぽろぽろと私の被毛の上に涙をこぼした。まだ柔らかい私の毛の中に熱い涙が浸み込んでいく。
「頑張っているあなたに何も声をかけられなかった。あなたが望んで王子妃になるのだろうと……それなら私たちは寂しいなんて言っていられないから、必死で見ないふりをしていたの。ごめんなさい。もっと私たちが気をつけていたら守ってあげられたのに……」
最後の方は声にならなかった。抱えられた腕の中は震えていたが、柔らかく温かかった。
「キュキュウ〜(違うわ、お母様。私も……)」
「ごめんなさいジュリア、愛してるわ」
母は私のお腹に顔を埋めた。そして次に顔を上げた時には、幼い頃に見た大好きな母の笑顔が私の目に飛び込んできた。
その日以来、私の元には様々な人たちが集まってくるようになった。はじめ遠慮がちだった使用人たちも、今では通りすがりに一撫でするようになった。
散歩の途中で出会う領地の人々もアザラシが私だということを知ると驚いて敬遠していたが、人好きのするジェムの雰囲気と、私のふわふわの毛の魅力には勝てなかったらしい。
聞けば婚約破棄の際流れた噂も、あまり信じられていなかったらしい。どうせミシェルが私とヒース殿下の破局を促したくて流した噂だろうと捉えられていたようだ。
ある晩、ジェムは私を撫でながらしみじみと呟いた。
「ジュリア様は愛されておりましたよ」
「キュム?(な、何よ突然?)」
私の戸惑う声にジェムは当然のように魚を差し出して来た。そうじゃないけれどとりあえず食べておいたが。
「以前、ジュリア様には私の実家の領地にお越しいただいたことがあります。慈善活動の一環でしたが……」
「キュ?(そうだっけ?)」
申し訳ないが全く覚えていなかった。だがジェムはまるで昨日のことのように語りだした。
「私は実家では必要のない子でしたので、使用人に混ざって生活していました。その日はちょうど収穫した果実の仕分け作業の日で、私は運んでいたかごを落としてしまったんですよね」
そういえば……、とおぼろげな記憶をたどる。確かに地方の孤児院に物資を届けに行った時に、その地域の果実の収穫作業と重なってしまったことがある。
「みんなに馬鹿にされ、笑われていた私に手を貸してくれたのは、偶然そこを通りかかったジュリア様でした。優しく声をかけて下さって、果実を拾うのを手伝ってくださったんですよ。きっとお忘れでしょうけど」
(うん、すっかり忘れていたわ。でも、そんな些細な事を覚えていて感謝してくれているなんて、私のやって来たことも無駄じゃなかったのかもしれないわね)
そんなことを考えていると、背中を撫でていたジェムの手が止まった。不思議に思って上を見上げると、真剣な顔をしたジェムと目が合った。
「私は、その日からジュリア様を忘れたことはありませんでした。だからあなたとの婚姻のお話を二つ返事でお受けしたのです。アザラシになってしまったのには驚きましたが、私は本当に、本当に幸せ者です……」
「……キュ(そ、そうなの)」
真面目なジェムの様子になんだか気恥ずかしくなった私は、その日はたらふく魚を食べて、すぐ寝てしまった。そしてその夜は、穏やかな日差しの中、波の上でジェムとぷかぷか漂うすごく良い夢を見た。夢の中で私はジェムを抱きしめ返していたけれど、夢から覚めればそこには短いヒレがあるだけだった。
◇
ジェムと家族と周りの人たちに囲まれ、私がアザラシの生活も満更じゃないかもと思い始めた頃、その日は唐突に訪れた。
その日も散歩に出かけようと、ジェムが私を小脇に抱えた時だった。庭を抜け、外に出ようとしたところで一台の馬車が止まっているのが見えた。
その前で使用人たちが集まり、馬車から出てきた人物が屋敷に入ろうとするのを止めようとしているように見えた。
(あの馬車は……)
私には見覚えがあった。まだヒース殿下の婚約者だった頃、何度も見た馬車だ。思い出したくない記憶に私が思考を止めてしまっている間に、ジェムは人だかりに近づいていった。
「どうかしましたか?」
お人好しもいいところなジェムが声をかけると、壁を作るように立っていた使用人たちの間から、ぴょこりと顔をのぞかせた人物がいた。その人物はジェムの姿と彼の小脇に抱えられた私の姿を見るなり、愉快そうに声を上げた。
「うっわぁ、本当に変なものになってますね」
その声をきっかけに、もう一人の人物が使用人たちの壁を割って姿を現した。
「はは、本当だ。俺たちの愛を邪魔するような心根が腐ったジュリアにはお似合いの姿だな」
今何よりも聞きたくなかった声が鼓膜を震わせる。
「失礼ですが、どちら様ですか?」
身を固くした私を抱えるジェムの手にも力がこもった。
「なんだと。第一王子である俺を知らないとは、お前本当に貴族なのか? 全くこの家の使用人も俺に逆らうなど不敬もいいところだ」
「やだぁ、この人がジュリア様の旦那様? うふふ、お似合いだわ」
そういってジェムを嘲笑ったのは、第一王子ヒース殿下とその婚約者である男爵令嬢ミシェルだ。ミシェルはジェムとアザラシ姿の私を交互に見て、にやぁと口を歪ませた。
「うぷぷ、ミシェル聞いたんですよ。ジュリア様、呪われちゃったんですって? まあ当然ですよね。あんなに偉そうにしていたんですから。ミシェル、怒られて怖かったぁ」
そう言いながらヒース殿下の腕に胸を押し当てるようにしがみついた。ミシェルのその行動にヒース殿下は鼻の下が伸びそうになるのを必死でこらえながら、もっともらしく咳ばらいをして声高に語りだした。
「ゴホン……ジュリア、よく聞け。王家には、王家との誓約を破った者に向けられる呪いがあるのだ。俺達の婚約誓約書にもそれがかけられていた」
「キュ、ウ?(そ、そんな……でも、私と殿下の婚約は破棄されているはずじゃ)」
ヒース殿下は私と私を抱えるジェムを舐めるように見て、ニヤリと笑みを浮かべた。
「俺はお前が嫌いだ。いつも偉そうにしやがって。だからお前が結婚すると聞いて、呪いが発動するように誓約書はそのままにしておいたんだ。お前が誓約を破った形になるようにな!」
「ヒース様すごいわ!」
ミシェルはうっとりとヒース殿下を見上げていた。
「呪いではその人間に最もふさわしい姿になると言われている。つまり、手も足なく、無様に転がって頭を下げながら、人々に見下され続けるだけの姿がお前にはお似合いってことだな」
そう言うと二人は声を上げて笑った。
(そこまで憎まれていたなんて知らなかったわ。悔しい……。でも今の私の姿はそれが事実)
目の前がゆらゆらと揺れる。アザラシも涙が出るのかもしれないと、どこか遠くのことのように思っていると、不意に身体が大きく揺れた。ジェムが動いたのだ。
「恐れながら申し上げますが、殿下、ミシェル嬢」
「キュー?(ジェム?)」
ジェムの真っ直ぐな声が響いた。だけど私を抱える腕は小刻みに震えていた。
「あなた方は本当にこの姿のジュリア様を無様だとお思いなのですか?」
「なんだと?」
「どういう意味? 当然でしょ?」
「こんなに愛らしく、生きているだけで幸せだと思わせるお方が無様なのですか?」
ジェムは反論の声を上げる二人に負けじと声を張り上げた。
「私は失礼ながら人間の姿をしたあなた様方よりも、よっぽどジュリア様の方が魅力的に感じます」
「おまえ、誰に物を言っているのかわかっているのか?」
「ええ、存じております。人を貶めることでしか満足できないあなた様方に申し上げているのです」
面と向かって言い返されたヒース殿下の顔は赤を通り越して怒りでどす黒く染まっていた。わなわなと震えるヒース殿下は風船が破裂するように大声を上げた。
「不敬だ! おい命令だっ、こいつを捕らえろ!」
しかしその声に反応する者はいなかった。ヒース殿下の横ではミシェルも同じように「捕まえなさいよ!」と騒いでいるが、誰も目を合わせようともしなかった。
「――少々度が過ぎましたね、ヒース殿下」
その時、場の空気を割り入ってくる者がいた。
「ジュリア、元気にしていたかい?」
(お父様! そう言えばこれまでどこに……)
久しぶりに見た父の姿に驚きながらも、その後ろをぞろぞろとついてくる王兵の姿に私は息が止まりそうになった。
「おお、公爵いいところに来てくれたな。兵士ども、こいつは俺とミシェルを愚弄した。不敬罪で捕らえろ!」
ヒース殿下が勝ち誇ったように声をかけたが、従う兵士はいなかった。その代わりにヒース殿下とミシェルの周りを兵士が取り囲んだ。
「お、おいどういうことだ?!」
「殿下、いや元第一王子殿下。あなた様は公文書偽造の罪で王位継承権が剥奪されました。国王陛下がお呼びですので、どうぞこのまま王都へお引き取りください」
淡々と語る父の声に、ヒース殿下は目を丸くした。
「なんだと……?」
父はもうヒース殿下のことなど見たくないとでも言うように、私を抱くジェムの元に歩み寄った。そしてジェムの腕の中から自分の腕へ私を移動させると、もふもふの毛をぐるぐると激しく撫で始めた。
「王都に行って確認してきたんだ。殿下が言ったとおり、お前の婚約誓約書は破棄されないままだった。そのせいでジェム殿と婚姻を結んだお前が“誓約を破った者”となり、呪いの力が向いたのだろう。本当にあの男、よくもまぁ……」
「ギュギュギュ~(お、お父様、ひげ! ひげが痛い!)」
話しながら父は私のお腹に顔をうずめ始めた。
「母さんから話は聞いていたんだ。この重さ、感触……匂いは違うが、ジュリアの赤ん坊の頃を思い出す。ああそうだ、誓約書はちゃんと書き換えさせてきたから安心しなさい。ああ、もふもふだなぁ……」
「キュゥゥ……(お父様、く、るしい……)」
抱きしめる父の腕の力に私の意識が遠ざかり始めた頃、もふもふふわふわを堪能する力強い腕の感触がフッと消えた。ジェムが父の腕の中から私を奪い取ったのだ。すぐに二人は私の頭の上でにらみ合いを始めた。
「おお、ジェム殿。貴殿の存在、忘れておりましたぞ」
「それは光栄です、閣下。私たち夫婦のことは忘れて頂いて結構です。それで、ジュリア様の呪いはいつ――」
妙に刺々しい二人の会話はヒース殿下の悲鳴で途切れることとなった。
「う、うわぁあっ!!」
ヒース殿下とミシェルを取り囲んでいた兵士たちの間に、ぽかんと隙間が空いていた。兵士たちも信じられないものを見たような顔をして、互いに顔を見合わせて固まっている。
私はジェムに抱えられながら、父と共に何事かと兵士たちに近づいた。
「ゲロ」
ぽかんと空いた空間には一匹のカエルが座っていた。
「ミ、ミシェル?! い、いや違う! おい、ミシェルをどこにやった!」
その声に慌てて周りを見回すとさっきまでギャアギャア騒いでいたミシェルがいない。一人の兵士がおそるおそる父に申し出てきた。
「捕らえたはずの娘が、あの……一瞬のうちに消え、そこにカエルしか残っておらず」
父とジェムは互いに顔を見合わせ、黙ってうなずいた。
「構わん。呪い返しだ。このカエルも捕らえよ」
父の声を合図に兵士がカエルも捕らえ、ヒース殿下と(多分)ミシェルは王都に送り返された。後に呪術師が「私の住む地方ではカエルは子孫繁栄の象徴ですから、きっとあの娘にはぴったりの姿でしたね」と悪い顔で語っていたが、その後二人がどう過ごしたのかはわからない。
二人が捕らえられた馬車を見送ると、ガクンと私の視界が下がった。
「うわあ~、緊張したぁ~」
どうやらジェムが腰を抜かしてしまったらしい。冷遇されていた田舎伯爵家の末っ子が王子に物申したのだ。それは緊張するだろう。私は思わずジェムに声をかけた。
「ジェム、大丈夫!? ……あれ?」
いまや懐かしく思える程の声が、私の耳に届いた。慌てて手をかざすと、二本の腕に、指が五本。足もちゃんと二本。
「ジュリア様……もとに、戻った?」
目の前のヘーゼルの瞳に映る私。
新雪のような純白の髪の毛。大きな瞳は貴重な黒瑪瑙のよう。
「戻った……ジェム、戻ったわ!!」
私はその日、初めてジェムを抱きしめ返すことが出来た。
◇
人間の姿に戻ったことを、母も父も泣いて喜んでくれた。それまでできなかった話をたくさんして、たくさん抱きしめ合った。またあの大きさの、今度は人間の子どもを抱っこさせて欲しいと言われているが、今の所は聞き流している。
領地の人々も私が元に戻っても変わらず話しかけてくれるようになった。使用人たちも同じだ。魚料理の回数も増えた。
無事に人間の姿に戻ってからも、私の定位置はジェムの膝の上だ。アザラシの時にしていたようにゴロンと横になると、ジェムが私の髪を優しく梳いてくれる。
「ねえ、ジェム?」
私が彼を見上げて呼びかけると、ジェムは私を見下ろして頬を撫でながら柔らかく笑って言うのだ。
「なんですか、魚はありませんよ」
そう言ってクスクス笑うのだ。そうなると私ははっきり言わざるを得なくなる。
「違うわ。愛してるといってちょうだい」
お読み頂きありがとうございました。
よろしければ評価&いいねなどお願いします。
アザラシを小脇に抱えているジェムのイメージは少年ア〇ベです。